第4話:天秤の采配
第4話:天秤の采配
――その夜のことを、私は今でも鮮明に覚えている。
師が“銭の理”を武器に、初めて権力と正面から対峙した夜だ。
宿の一室に、重い沈黙が沈んでいた。
囲炉裏の火だけが、私たち三人の顔を淡く照らしている。
外では潮騒がくぐもり、夜風が障子の隙間を撫でていった。
敵の姿は見えた。だが同時に、それは――私たちが、思いのほか深い蛇の巣に足を踏み入れたということでもあった。
「……どうする、蓮。このまま尻尾を巻いて逃げるかい?」
お蝶さんが、からかうように言いながらも、その瞳には探る色があった。
「あたしたちは、所詮は通りすがりの旅人さ。町の連中のために命を賭けるほど、物好きじゃない」
私は黙したまま、火の中の赤い芯を見つめた。
そのとき、惣兵衛さんが低く息を吐き、静かに口を開いた。
「……いや。一度振り上げた義は、下ろせぬ」
それは、彼自身の過去を噛みしめるような声だった。
囲炉裏の火が、彼の頬に映る古傷を一瞬だけ照らした。
私は二人の顔を順に見つめ、やがてきっぱりと首を横に振った。
「逃げません。師はこう言いました。
――“銭の理が歪めば、人の心も歪む。銭は人を映す鏡だ。それを見過ごすは、商人にあらず”と」
お蝶さんは肩をすくめ、唇の端を上げた。
「はいはい。どうせそう言うと思ってたさ。
で? そのご立派な“師匠譲りの理屈”で、どんな面白い筋書きを描くつもりだい?」
私は囲炉裏の灰に指を走らせ、町の地形を描き出した。
「力で備前屋を潰しても意味がありません。この町の病は、“塩の独占”という仕組みそのものにあります」
「仕組みを、壊すのか?」
「いいえ。――正しい流れで、上書きするんです」
私は灰の地図の外、沖合を指でなぞった。
「この港の外には、もっと大きな“銭の環”が流れています。
赤穂、室津、牛窓……。瀬戸内には、正当な商いで塩を扱う商人たちが多くいる。
彼らの力を借りれば、この町の環はもう一度、正しく回り始めます」
「……外から血を入れて、内の腐れを洗い流す。あんた、なかなかえげつないね」
お蝶さんが笑いながらも、瞳の奥では火花のような光を宿していた。
「作戦は三段階です。
まず、“裏帳簿”――敵の罪の証を手に入れます」
私は懐から小さな木札を取り出した。
天秤の紋が刻まれたそれを、火にかざす。
「師はかつて、『和市』を通じて全国の商人たちと繋がっていました。
赤穂の湊屋様は、特に師を信じてくださった方です」
私は湊屋宛の文をおふじに託し、天秤の木札をそっと握らせた。
夜の海を渡る風が障子を鳴らし、灯の炎が一瞬揺れた。
「……さて、残る厄介な仕事は、どうやらあたしの番みたいだね」
お蝶さんが、しなやかに立ち上がる。
紅の帯が月明かりを受けて艶やかに光った。
「備前屋の土蔵……。番頭と、昼間の浪人もそこにいるかもしれない。ふふ、退屈しのぎにはちょうどいい」
「お蝶さん、危険です。そんな無茶を――」
「馬鹿言いな。危険を選ぶのが、あたしの生き方さ」
そう言い残して、彼女は猫のように身を翻し、音もなく闇に消えた。
月光が備前屋の白壁を青く照らす。
その静寂の中、塩の白がほのかに浮かび上がる。
――その瞬間、浪人の声が闇を裂いた。
「そこにいるのは、誰だ」
「……あら、見つかっちゃった。色男に見惚れて、つい長居しちゃったかしら」
「ふざけるな。貴様、昼間の芸人か」
「さあね。あんたこそ、なんで銭の番犬なんかやってるんだい?」
次の瞬間、刃が月光を弾いた。
塩の粉が舞い、蔵の空気が一気に凍りつく。
鋭い斬撃の音が夜を裂いた。
――決行の前夜。
私は宿で、ただ黙ってお蝶さんの帰りを待っていた。
惣兵衛さんは石像のように動かず、囲炉裏の火だけがかすかに揺れていた。
(師匠……どうか、お蝶さんをお守りください)
やがて、襖がすっと開いた。
「――ただいま。少し、手荒い歓迎を受けちまったよ」
お蝶さんだった。
袖は裂け、頬に血の線を引きながらも、腕には確かに帳簿を抱えていた。
そのとき、遠く港の方から、法螺貝の音が響いた。
それは、夜を切り裂く号令のようだった。
私は静かに立ち上がり、天秤銭を握りしめた。
「――始めましょう。
師が信じた“銭の理”が、今、初めて“戦の理”に挑む」




