第3話:数字の嘘と、鉄の匂い
第3話:数字の嘘と、鉄の匂い
陽が昇るたび、町の光と闇が入れ替わる。
その境を歩くように、私たちはそれぞれ別の貌を纏い、片上湊へと溶け込んでいった。
【お蝶の貌:舞姫】
町の広場に設けられた仮設の舞台で、お蝶さんは舞っていた。
旅芸人の一座『あやめ座』に潜り込むのに、彼女は半日もかけなかった。手持ちの銭を少しばかり座長に握らせ、「妹とはぐれた流れ芸者」という身の上話を涙ながらに語ってみせただけだ。――男という生き物は、美しい女の涙に驚くほど弱い。
お蝶さんの舞は、一座の誰よりも艶めかしく、見る者の魂を抜き取った。特に、町の名士や役人たちが陣取る上席からの視線が、粘つくように彼女の肢体に絡みついているのを、お蝶さんは肌で感じていた。
その夜。案の定、備前屋が開いた宴席に『あやめ座』は呼ばれた。
酒と肴、そして女。富をひけらかしたい男たちの欲望を満たすには、うってつけの道具だ。
「よお、そこの姐さん、一つ酌をしてくれや」
下卑た声で手招きしたのは、昼間いやらしい視線を送っていた小太りの男。町の会所の差配役で、備前屋とは特に昵懇の間柄らしい。
「まあ、お役人様。お酌などと、わたくしのような者に務まりますかしら」
お蝶さんは猫なで声で男の隣に滑り込み、盃が空になるよりも早く、巧みに徳利を傾けた。
「はっはっは、謙遜するな。おめえさんの舞はたいしたもんだった。わしぁ気に入ったぜ。褒美に何でも言うてみろ」
「本当でございますか? ……では、ひとつだけ。備前屋様は、随分と羽振りがよろしいのですね。これも、お上への上納を真面目にこなしているおかげなのでしょう?」
無邪気を装った問いに、男は気を良くしたのか、声を潜めてにやりと笑った。
「がはは、坊主は目出度いことを言うな。上納だぁ? んなもん、建前よ、建前! あの旦那は、そんなちまちました商いをするお人じゃねえのさ」
「まあ……! では、どうやって……?」
「……おめえさん、口は堅えか?」
「女の口は、頂いたお酒の味で塞がっておりますわ」
艶然と微笑むお蝶さんの色香に、男は完全に骨抜きにされていた。
「……あの旦那はな、目録を偽って、上納分の塩を一部横流ししてるのさ。裏帳簿は、店の土蔵の奥――鼠でも迷うほど深い場所によ」
決定的な言葉。
だがその瞬間、男の背後で酒を注いでいた備前屋の番頭の目が、一瞬だけ鋭く光ったのを、お蝶さんは見逃さなかった。
(……少し、踏み込みすぎたか)
お蝶さんは内心で舌打ちし、すぐさま話題を他愛ないものへと切り替えた。
だが、宴のざわめきの奥で、番頭がひとつ、扇子を閉じた。
その音が、次の嵐の合図のように、妙に耳に残った。
【惣兵衛の貌:人足】
じりじりと照りつける太陽が、塩田の白い結晶を焼き、空気を陽炎のように揺らしていた。
惣兵衛さんは、他の人足たちに混じり、黙して汗を落とした。言葉よりも、筋肉が語っていた。
その寡黙で、誰よりも力強い働きぶりは、すぐに現場のまとめ役の男の目に留まった。
「おい、そこのデカいの。おめえ、なかなかいい腕してるじゃねえか。どこから来た」
「……流れてきた」
「そうか。まあ、訳ありだろうが、真面目に働くなら文句は言わねえ。だがな、変な気を起こすんじゃねえぞ。備前屋の旦那に逆らったらどうなるか、分かってんだろうな」
男の声には、脅しと共に、どこか諦めが滲んでいた。
惣兵衛さんは何も答えず、ただ俯いて俵を担ぎ上げる。
だがその目は、常に用心棒たちの動きを捉えていた。
彼らのほとんどは、ただ腕っぷしが強いだけのならず者。
だが、その中心にいる一人の浪人だけは、明らかに空気が違った。
年の頃は四十がらみ。日に焼けた肌に刻まれた皺は、戦場の陽炎を幾度も見た証。
他の用心棒たちが人足を威圧する中、その男だけは、静かに塩田全体を見渡し、時折、鋭い視線を沖へと向けていた。
(……ただの見張り役ではない。あれは、戦場を知る者の目だ)
昼餉の刻。惣兵衛さんが木陰で握り飯を食べていると、その浪人が不意に近づいてきた。
「お主、見ない顔だな」
「……昨日、この町に着いた」
「そうか。その体躯、どこかで鍛えたと見える。戦場か?」
探るような視線。惣兵衛さんは表情を変えずに答える。
「……戦は、もう飽きた」
「戦が、お主を飽きたのかもしれんな」
浪人は、そんな謎めいた言葉を残して去った。
その背に、惣兵衛さんはかつて自分が持っていた“誇りの光”を見た気がした。
(……惜しいな)
そう呟いた声は、塩風にかき消された。
【蓮の貌:塩田の娘】
私は、おふじと共に塩田の端で、塩を集めるための筵を繕っていた。
慣れない手つきの私を、おふじが優しく手伝ってくれる。
「蓮さんは、本当に優しいのですね。こんな辛い仕事まで……」
「いいえ。私は、自分のためにやっているんです」
私の目は、繕い物の手元にはなかった。
浜と沖を行き交う船の数、積まれる塩俵の量、船頭たちの顔……そのすべてを、目に、頭に焼き付けていく。
師に叩き込まれた商いの基礎――
帳場に書かれた数字だけでは、何も見えてこない。銭も、物も、人も、常に動いている。
数字の流れ。その歪み。そこにこそ、真実が潜む。
脳裏に、師の静かな声が甦る。
――『蓮。数字は嘘をつかぬ。ただし、人は己の欲でそれをねじ曲げる。その歪みを嗅ぎ分けろ。そこに人の罪がある』
一日中浜にいたことで、確信が生まれた。
役人が語っていた上納の量と、実際に出入りする船の数が、全く合わない。
備前屋の蔵に入る塩の量と、そこから出ていく塩の量も、どう考えても釣り合っていない。
数字が悲鳴を上げていた。
この町の銭の流れは、まるで誰かの手で“縒り曲げられた糸”のように歪んでいた。
夕刻。仕事を終え、浜を離れようとした時だった。
ふと、視線を感じた。
波止場の影から、昼間惣兵衛さんが警戒していたあの浪人が、じっと私とおふじを見つめていた。
その視線は、ただの好奇心ではない。何かを値踏みし、探るような、冷たい光を宿していた。
(まずい。こちらの動きに、気づかれた……?)
背筋を、冷たい汗が伝った。
その夜。宿の薄暗い一室で、私たちは再び顔を合わせた。
それぞれの貌を脱ぎ捨て、持ち寄った情報を一つに重ね合わせていく。
「間違いない。備前屋は塩を横流ししている。証拠は土蔵にある“裏帳簿”だ」
お蝶さんの声は、いつになく硬い。
「塩田の流通量からも、それは明らかです。ですが、敵はこちらの動きに感づき始めています」
「用心棒の頭は、ただのごろつきではない。かなりの手練れと見た」
惣兵衛さんの言葉が、場の空気を引き締めた。
囲炉裏の炎が、三人の顔を照らした。
その外では、犬が遠くで吠えた。
夜風が、誰かの気配を運んでくるようだった。
沈黙が、短く、深く落ちる。
それは奇妙に心地よかった。
――“師匠といた頃”の、あの夜のように。
「……勝機はあります。ですが、それは危険な賭けになります」
私が告げると、二人は小さく頷いた。
炎が、ぱちりと音を立てて弾ける。
夜が、戦の気配を帯びはじめていた。




