第2話:三つの貌、一つの悪
第2話:三つの貌、一つの悪
夜を裂いたのは、刃の閃きだった。
お蝶さんの懐剣が、灯のない闇で静かに光る。
その瞳に、昼間の艶はもうなかった。
そこにあるのは――獣の眼。獲物を見定めた、あの冷たい光。
「……あたしの可愛い妹分に、指一本でも触れてみろ。その腕、根本から叩き斬るよ」
声は絹のように滑らかだった。
だがその絹の裏には、刃の冷たさがあった。
おふじの髪を掴んでいた男の手が震える。
突如生まれた静寂の中で、男は息を呑み、喉を鳴らした。
「な、なんだぁ……!? ただの女じゃねえな!」
「さあね。ただの通りすがりの、お節介焼きさ」
お蝶さんが一歩進む。
その足取りは、まるで音を持たぬ舞のよう。
次の瞬間――
「そこまでだ」
低い声が店の奥から響いた。
惣兵衛さんだった。
夜着のまま、手には鞘付きの槍。
立っているだけで、空気が変わる。
岩が動いたような重さ。
男たちはその圧に気圧され、血の気を失っていった。
「女子に手を出すな、と言ったはずだ」
静かな言葉に、逆らう力はもう残っていなかった。
リーダー格の男が、おふじを盾にして後ずさる。
「お、覚えてやがれ! このままじゃ済まねぇからな!」
そう吐き捨てると、彼らは夜の闇に溶けるように逃げていった。
扉が軋みを残して閉まると、店には再び静けさが降りた。
おふじはその場に崩れ、声を殺して泣いた。
主人は呆然と立ち尽くす。
お蝶さんは懐剣をしまい、溜息をひとつ。
「やれやれ……せっかくの寝酒が台無しだよ」
囲炉裏の火が再び灯り、ゆらめく炎が、皆の顔を映した。
私はおふじの肩に上着をかけ、穏やかに言う。
「もう大丈夫です。怖かったでしょう」
「……ごめんなさい。私のせいで、旅のお方を……」
「巻き込まれたんじゃない。こちらから首を突っ込んだんだよ」
お蝶さんが軽く笑った。
だが私は、その笑みの奥に宿る怒りを知っていた。
私は深く息を吸い、主人に向き直る。
「――備前屋のこと、全て話してください。
もう、ただの通りすがりではありません」
主人の語る声は、塩よりも苦かった。
備前屋・吾平。
この町を牛耳る塩問屋。
塩の専売を掲げ、上納を口実にして民の汗を搾る。
塩田は彼の帳簿の中で数字となり、人の命は銭勘定の端に消えた。
「塩を作っても、残るのは塩辛い涙ばかり……。この町は、少しずつ殺されていくようです」
その言葉に、私は拳を握った。
師の声が、胸の奥で再び響く。
――銭の環は、命の環。
歪めば、必ず誰かが苦しむ。
ならば、正さねばならない。
それが、師から受け継いだ「商の義」だった。
「……お父さん。おふじさん。どうか、私たちに手を貸してください。
この町の環を、もう一度回しましょう」
「お嬢さん……あんな連中を相手にしたら、命が――!」
「一人では、何もできません。ですが――」
私は仲間たちを見た。
お蝶さんは唇を歪め、
惣兵衛さんは黙して頷いた。
それで十分だった。
「――私たちなら、できます」
その言葉に、おふじの瞳が震えた。
涙の奥に、微かな光が宿る。
それは、諦めの町に差した初めての夜明けだった。
翌朝。
三人は、それぞれ異なる貌を纏った。
「じゃ、あたしは芸人の一座に紛れるさ。男も情報も、転がすのは慣れてるからね」
お蝶さんは派手な衣を翻す。
笑いながらも、目の奥は獲物を狙う蛇のように光っていた。
「俺は塩田に入る。日雇いの人足に紛れて、民の声を聞く」
惣兵衛さんの声は低く、確かだった。
彼の背の槍は、ただの棒のように布で包まれている。
私は、おふじから借りた働き着に袖を通した。
汗と塩の染みた布。
だが不思議と、肌に馴染んだ。
「私も塩田に行きます。
この戦の真実は、帳簿ではなく、塩にまみれた手の中にありますから」
「そ、そんな……!」
おふじの声が震える。
私は静かに笑った。
「師は言いました。――“商いの戦は、足で稼ぐものだ”と」
私はおふじの手を握った。
その掌は荒れていたが、温かかった。
「ここが、私たちの戦場ですね」
おふじは涙を拭い、うなずいた。
その横で、潮風が朝を運んできた。
海の匂いが、痛いほどに澄んでいた。
三つの貌、一つの悪。
そして、三つの意志は、ひとつの正義へと収束していく。
まだ誰も知らぬ、静かな戦が――今、始まった。




