第11話:灰燼の天秤
第11話:灰燼の天秤
――夜。
堺の町が、泣いていた。
織田軍の鬨の声が地を震わせ、炎が夢を呑み込む獣のように町を這い尽くしていく。
理想の光で照らされていた路地は、いまや絶叫と灰にまみれた断末魔の渦。
人々が信じ、築き上げた〈和市〉は、己の理想の重みで崩れ落ちようとしていた。
その中心――商館の奥。
瓶田蓮次郎は、黒檀の天秤の前に静かに坐していた。
耳に届くのは、遠い炎の唸りと、自らの鼓動の音だけ。
(恐怖も怒りも、とうに過ぎた。残るは、秤の皿を、自らの手で下ろす時――)
彼の表情は、湖面に映る月のように静謐だった。
「瓶田殿! もう持ちませぬ! お逃げを!」
駆け込んだ家人が叫ぶ。
しかし蓮次郎は首を振った。
「逃げぬ。……すべての帳簿を中庭へ運べ。一冊残らず、だ」
その声には、もはや“銭神”の威厳ではなく、
人としての終焉に似た、穏やかな決意があった。
***
中庭には、無数の帳簿が山のように積み上がった。
それは富と信義の記録であり、同時に――人を縛る鎖の書でもあった。
蓮次郎は、松明を掲げた。
「この帳は、もう義の証ではない。……罪の記録だ」
裏切り者が叫ぶ。
「渡せば命は助かる!」
「命か。俺の命は、あの日――“銭神”と呼ばれた瞬間に、もう終わっていた」
蓮次郎は、静かに微笑み、松明を帳簿の山へと投げ入れた。
炎が唸りを上げ、夜空を焦がす。
文字が焼け、数字が灰になる。
それは贖罪の火であり、再生の火でもあった。
〈和市〉という冷たい鎖を溶かし、再び“熱”に還すための火――。
炎の向こうで、兵の刃が閃いた。
蓮次郎は逃げなかった。
己の理想の業火に抱かれるように、その刃を迎え入れる。
(……これで、いい。これで、時が稼げる)
痛みはなかった。
ただ、長き孤独が剥がれ落ちていく音だけがした。
***
惣兵衛とお蝶が駆けつけた。
血の泡を吐きながら、蓮次郎は彼らに託す。
「……惣兵衛……お蝶……。
俺が築いたものは、すべて灰になる。それでいい。
だが――たった一つだけ、本物の宝がある」
炎の向こうで、泣き叫ぶ少女。
蓮次郎は、最後の力でその方角を指さした。
「……蓮を、頼む。あの子が、俺の……最後の銭だ……」
お蝶の頬が炎に照らされて濡れる。
惣兵衛は何も言わず頷いた。
その拳は、血が滲むほど固く握られていた。
炎の壁の中、十三歳の蓮が泣きながら駆け寄る。
蓮次郎はその小さな身体を抱きしめ、窓の外へ突き飛ばした。
「行け――!」
泥水に転がる少女。
その背を見送りながら、蓮次郎は微かに笑った。
「――銭の環は、決して絶えん……!」
轟音。天井が崩れ、光が彼を呑み込む。
***
熱い。痛い。
だが、それも束の間だった。
やがて、すべての感覚が遠ざかっていく。
――見える。
雪。
雪原に佇む、小さな少女。
あの夜の光景が、再び訪れる。
彼は、手の中の銭を少女に渡す。
温もりが伝わる。
(――これで、いい。たった一枚の銭で、一つの命が救える。それだけでよかったのだ)
誰かの声が、風に混じって囁く。
『砂粒であろうと、熱を持てば、嵐を起こす』
彼は、かすかに微笑んだ。
(……嵐は終わった。だが、この熱だけは――)
最後の祈りが、音もなく雪の中に溶けていく。
「――この銭が、人を繋ぐ、温かい環となれ」
白が、すべてを覆った。
炎も、罪も、孤独も。
そして、黒檀の天秤の皿が、静かに傾く。
それは滅びではなく――理念の再生を告げる音だった。




