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第10話:支配か、連環か

第10話:支配か、連環か

 ――織田信長。

 その名はもはや、一人の武将を指すものではなかった。

 それは、古き秩序を焼き払い、日の本を己の理想で塗り替えんとする――「時代そのものの意志」であった。

 安土城大広間。

 金箔の襖に描かれた虎が、燭の炎に揺れ、まるで生き物のように蓮次郎たちを睨んでいた。

 瓶田蓮次郎は、堺の会合衆と並んで静かに膝を折る。だが、その背筋の奥には、冷ややかな痛みが走っていた。

 ――これが、覇の座にある者の空気か。

 玉座に座す織田信長。

 その姿は彫像のように静謐でありながら、瞳の奥には炎が宿っていた。

 傲慢ではない。だが、その静けさこそが恐ろしい。誰の言葉も届かぬ、孤高の天の眼差しだ。

「銭神、瓶田蓮次郎とやら」

 低く、深く、そして妙に澄んだ声。

 それは剣の刃先のように、言葉そのものが空気を切り裂く。

「『和市』――よくやった。見事な仕組みよ。気に入った。

 日の本のために、その力を使え。我が天下のたていとを編む糸となれ」

 提案――などではなかった。

 それは、天が人に下す命のような、抗いようのない「宣告」だった。

 周囲の商人たちの顔が、羨望と恐怖で染まる。

 蓮次郎は、ただ一人、まっすぐに信長を見返した。

 その奥底で、何かが確かに共鳴していた。

 ――この男もまた、理想に殉ずる者。

 だが、その理想は「民のため」ではなく、「征服と秩序のため」にある。

「お言葉、痛み入りまする。なれど――」

 蓮次郎は、静かに息を吸い込み、自らの声で己の理念を告げた。

「『和市』は、誰かの道具にあらず。民が自らの手で銭を廻し、互いに生かし合うための場。

 天下のためとて、その自由を縛ることはできませぬ」

 一瞬、金襖の虎が息を止めたかのように、広間が凍りついた。

 信長の唇から、笑みが消える。

 炎のような瞳が、氷の刃へと変わった。

「――面白い。ならば見せてもらおう。その青臭き理想が、我が刃にどれほど耐えうるかを」

 その声は、雷鳴の前の静電気のようだった。

 蓮次郎は黙って一礼し、立ち上がる。

 背後で、会合衆たちの羨望と侮蔑が交じる視線が、肌を刺すように突き刺さった。

 安土を出ると、空は鉛のように重く、琵琶湖の波は黒い風を孕んでいた。

 嵐の前の海――まさしく、その光景はこれから訪れる時代の象徴だった。

***

「瓶田殿! あなたは夢を見すぎている!」

 堺に戻った幹部会。

 信長の命を退けた報せに、場の空気は一瞬で燃え上がった。

「我らがここまでこれたのは、時流に乗ったからだ! 信長様という“新しい時代”に逆らえば、和市も潰れる!」

「そうだ! 銭神と呼ばれて、己を神と誤解しておられるのではないか!」

 かつて共に夢を語った同志たちの怒号が飛ぶ。

 蓮次郎は、ただ静かに聞いていた。

 ――彼らは「自由」を求めて集った。

 だが今、その眼に映るのは「恐怖」と「保身」だけだ。

 理想が秩序に変わり、秩序が服従へと堕ちる。

 それが、組織という生き物の避けられぬ末路。

 そしてそれは、自らが撒いた種の毒でもあった。

***

 堺の港に、夕暮れの風が吹いていた。

 西の空を焼く陽が、海面に滲み、血のように赤く染まっている。

「私は、この国を去る」

 フェルナンの声は、潮風に溶けた。

 南蛮船の白い帆が、金色の風をはらんで揺れている。

「この国は、間もなく一つの意思に飲み込まれる。

 神も、商も、自由も、入る余地はない」

 そう言って、彼は蓮次郎に問うた。

「君の銭は、確かに多くの人を繋いだ。だが――それは、本当に自由か?」

 蓮次郎は、答えられなかった。

 風が頬を切る。

 フェルナンは、港を見やりながら呟いた。

「――鎖で繋がれた奴隷に、救いはあったのかね?」

 その言葉は、鋼のように重く沈んだ。

 蓮次郎の胸の奥で、何かが崩れ落ちる音がした。

 ――救済の名のもとに、人々を『和市』という檻に閉じ込めたのは、自分だ。

***

 夜。

 私室に戻った蓮次郎は、黒檀の天秤を見つめていた。

 蓮が置いた、一枚の冷たい銭が、燭の光を鈍く弾く。

 その光は、もはや富の象徴ではない。罪の証のように見えた。

(救うための銭が、人を縛る鎖となった……)

 雪原の誓いが、脳裏に蘇る。

 あの日、凍える少女に渡した銭の温もり。

 ――あれこそが、すべての始まりであり、終わりだった。

 蓮次郎は、帳簿の山に手を伸ばす。

 指先に伝わる紙のざらつきが、まるで自らの罪の肌のようだった。

(この鎖を、俺の手で断ち切る)

 静かに立ち上がる。

 それは敗北ではない。

 理念を浄化するための、最後のいくさであった。

 外では、地鳴りのような太鼓の音が響く。

 織田軍の旗が、堺の町を包み込みつつあった。

 夜風に混じる火薬の匂いの中で、蓮次郎の瞳は不思議なほど静かだった。

 まるで、自らの魂を天秤にかける者のように――。

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