第1話:塩の町の、辛い味
第1話:塩の町の、辛い味
――銭も塩も、人の涙を吸ってできる。
味を見誤るな、蓮。
その言葉が、今も胸を刺す。
師が逝って三年。
私は、西へ、西へと歩いてきた。
銭の理を知る旅でもあり、己の弱さを試す旅でもあった。
「――お嬢、また眉間に皺が寄ってるぜ」
街道の茶屋。
草団子を頬張りながら、お蝶さんが覗き込んでくる。
陽に焼けた唇が悪戯めいてほころんだ。
「考え事かい? それとも、あたしの食いっぷりに見惚れてた?」
「……お蝶さんの懐が、どうしていつも潤っているのか考えていました」
「あら失礼ね。これはあたしが汗水たらして稼いだ銭さ。そこの朴念仁と違ってね」
お蝶さんの視線の先では、惣兵衛さんが岩のように黙って白湯を啜っていた。
山並みを遠くに見つめるその横顔に、旅の疲れも感情も見えない。
だが私が草鞋を履き替えようと屈むと、その大きな手がそっと椀を差し出した。
泥を落とせ、という無言の気遣い。
――そういう人だ。
私、蓮。齢十六。
師・瓶田蓮次郎の名を継いだ、若すぎる商の徒。
元くノ一の姉分・お蝶、そして鬼神の如き武を持つ守人・石動惣兵衛。
この二人がいなければ、私はとっくに道の塵と消えていた。
「さて、と。腹も膨れたし、今夜の宿を探そうか」
「この先に片上という湊町があるらしい。塩で栄えた港だとさ」
塩――その響きに、胸が疼いた。
塩は、師が最後に語った言葉の象徴だった。
『塩も銭も、人の涙を吸ってできるものだ。味を見誤るなよ、蓮』
その教えを確かめるように、私は荷を確かめた。
袋の中の塩は、もう底をついていた。
夕暮れ、片上湊。
潮の香が肌を撫でる。
白壁の蔵が並び、伝馬船が沖に揺れている――そのはずなのに、町には奇妙な沈黙が降りていた。
人々は目を伏せ、足早に家路を急ぐ。
笑い声も呼び込みの声もない。
ただ桶の乾いた音と、重い靴音が響くだけ。
「どうも、空気が重いねぇ」
お蝶さんの声も、潮風に溶けて淡く消える。
市場を覗けば、塩だけが異様に高かった。赤穂の倍――。
私は無意識に唇を噛む。
「おかしいですね。ここは日本でも有数の塩の町のはずなのに……」
「ふん。誰かが“味”を歪めてるのさ」
お蝶さんの言葉は軽く聞こえたが、その奥に潜む冷たい鋭さを、私は知っていた。
町外れの古びた旅籠。
煤けた梁、焼き魚の香。
静かな夕餉の席に、若い娘が膳を運んできた。名はおふじ。
私と同じ年頃だが、塩田で働く腕は逞しく、目の奥に消えない影があった。
「ありがとう。美味しそうな魚ですね」
「……はい。今日のは、浜で最後に残った魚ですから」
笑みは儚く、沈黙の方が雄弁だった。
その夜、戸が蹴破られた。
ごろつき風の三人が乱入し、主人を壁に叩きつけた。
胸には「備前屋」の屋号。
「上納の銭はまだか!」
罵声。悲鳴。恐怖の臭い。
おふじが震える声で抗う。
「父は……一生懸命、塩を――」
「黙れ、小娘!」
腕が振り上がる、その瞬間。
――地の底から響くような声が、空気を裂いた。
「その手を、離せ」
惣兵衛さんが立っていた。
静かな怒気。揺るぎない威圧。
掴まれた男の腕が、きしむように悲鳴を上げた。
次の瞬間、男の身体は宙を舞い、土間に転がった。
沈黙。
風が、塩の匂いを運んでくる。
それは、この町全体が抱えた怒りの匂いのようにも思えた。
主人は蒼ざめ、震える声で語った。
備前屋――この町を支配する塩問屋。
お上への上納を口実に、民の塩を買い叩き、逆らう者を暴力で封じる。
働いても暮らしは楽にならず、塩を作れば作るほど貧しくなる。
私は、静かに膝の上で手を握り締めていた。
胸の奥で、師の声が蘇る。
――銭の環は、決して絶えん。
ならば、歪んだ環は、誰かが正さねばならない。
「……お話は分かりました。少しだけ、知恵を貸させてください」
お蝶さんが苦笑し、惣兵衛さんは無言で天井を仰いだ。
誰もが、次に起こることを薄々悟っていた。
それでも、私は言わずにいられなかった。
あの教えを、裏切りたくなかったから。
夜更け。
夢の底で、何かが割れる音を聞いた。
怒号、悲鳴、そして血の匂い。
私は寝間着のまま階下へ駆け降りた。
――食堂は、地獄だった。
倒れた卓、砕けた器。
おふじの髪を掴んで笑う男。
「昼間の礼だよ、嬢ちゃん」
その瞬間、隣室の襖が音もなく開いた。
月光が滑り込み、白い刃がその光を裂く。
お蝶さんがいた。
あの柔らかな微笑は消え、氷のような目をしていた。
――懐剣が、静かに抜かれる。
そして私は知る。
この町の“味”が、どれほど歪んでいるのかを。




