第6話
見えないナニカが傍にいる。茉央は確信した日から、居心地の悪さを感じていた。
外にいても家にいても誰かがいる気がして、気が休まらず、身体を小さくして縮こまる。
気が狂いそうになるのを呪いさえ解ければ大丈夫だと、すり減っていく精神の中で言い聞かせ続けた。
待ちに待った土曜日は土砂降り。強く打ちつける雨のせいで、街全体が水に沈んだ。
今日だけは晴れてほしかったと茉央は心の中で愚痴を零す。
「なに、あれ……」
レオンの車が来るまで待ち合わせ場所で待っていると、水色の傘の向こう側で誰かが立っているのに茉央は気づく。
藍に染まった衣に、蛇が幾重にも絡みつく文様。異国の祭服のようで、札が貼られた顔は深淵のように暗い。鈴がついた笠は所々破れていて、人らしからぬ不気味さが、周りの空気を穢す。
──チリン。
話しかけるように響いた鈴の音。
明らかにこの世のモノではないと、茉央の本能が訴えかける。
息を殺して見えないふりをする茉央に、緊張と恐怖が走り、指先が震えた。
──札の隙間から見える赤い目は茉央を真っ直ぐに捉える。
死んだ。脳裏に浮かんだのは、そのひと言だけだった。
「おはようございます先輩」
「お、おはよう」
雨の音が鈴の音をかき消し、現実世界へと意識を取り戻させる。
茉央が咄嗟に聞き慣れた声の方に視線を向けると、目の前に一台の青い車。
レオンの顔を見て安全だと分かると、逃げるように茉央は乗り込んだ。
「なんか青ざめていますが、何かありましたか?」
「ううん、ちょっと寒かっただけよ」
「雨ですからね。早めに来れずにすみません」
ナニカが見えていないのか、レオンはただ心配そうにこちらを見るだけだった。
あの存在のことは、口にしてはいけない気がする。本能的に茉央は悟り、誤魔化すようにすぐ笑顔を見せた茉央。
レオンは茉央の信号を見過ごし、道中はなりげない日常会話が続く。
ナニカは走り去る車を、雨の帳の中で静かに見送っていた。
たどり着いたのは、街から離れた山の中。
杉の木が生い茂り、浮世離れしながらも澄んだ空気は、人が踏み入れてはいけない聖域に感じられる。
お寺も古くからあるのだと分かる格式ある建物に、茉央の身体は固まってしまう。
「話をつけていますので、きっと父なら先輩の現状をどうにかしてくれます」
レオンの呼びかけに、茉央は頷くことしかできない。
それは不安からではなく、本当に希望の一筋が見えたからだ。
敷地内へと入ると、傘を差したお坊さんが立っている。茉央の方を見て、優しい目の奥に一瞬だけ深い影が潜むが、すぐに笑顔を向けた。
「お待ちしていました。話は息子から聞いておりますので、中へお入りください」
一瞬だけ見せた表情に、茉央は違和感を感じながらも寺へと入っていく。
杉の香りがする建物はコンクリートだけの部屋と比べて寛容的で、体から力が抜けていく。
「まずはお座りください」
許可をもらえば、レオンと茉央は座布団の上に座る。
お坊さんは穏やかそうな笑顔から一転して、真剣な表情へと変わった。
負の連鎖を断ち切る事ができる。呪いから解放され、日常へと戻れるのだと。漸く訪れる終わりに喉が渇いて、茉央は唾を飲む。助かると心の底から信じていた。
「貴方、いつの間に神様と契りを交わしたのですか」
「……え?」
それは茉央の世界を崩す雷となり、身体中に衝撃を与える。
茉央の純白な愛により生まれてしまった契りは、複雑に絡まった赤い糸のように千切れはしない。
これが終わりなのではなく、始まりだったことを茉央は思い知らされることになる。