第5話
休憩室は二人きり。茉央が泣き終わるまで、レオンは静かにスマホを弄っていた。
「ごめんね。つい泣いちゃって」
「いいですよ。先輩大変でしたでしょうし」
お花の柄が可愛らしい水色のハンカチで、涙を拭いて茉央は申し訳なさそうに謝る。
レオンの優しい言葉に、また込み上げてくる悲しみの熱が溢れないようにグッと抑えた。
「誰だって親しい人の旅立ちは辛いっすから」
「……それだけじゃないの」
「えっ?」
茉央の恋人が死んだ事を知っていたから、それで引きずっていると思っていた。が、他にもあると聞き、レオンは思わずスマホから茉央の方を向く。
「有給中に父が階段から転げ落ちて入院したの」
「お父さんまで……」
茉央は少し目を伏せ、拳を握り震わせていた。
恋人の死だけじゃなく、父まで不幸があったならば直ぐに立ち上がれるはずがない。
レオンは眉を寄せながらも、自分まで気を落ち込んだら茉央がより一層悲しむと思い、無理に口角を上げた。
それでもレオンの胸の奥で、不穏がざわりと騒いでいる。
「父さんだけじゃない。弟や叔父さんまで不幸続きよ。台湾に帰ってから散々だわ」
頭を抱えた茉央の脳裏に、最近起きている悪夢が浮かんでいく。
一緒に帰ってくれたのに、苦しげに真っ赤な血を流し、蹲る弟の姿。電話越しに知らされた元気だったはずの叔父の山場。
いいことなんて何もない。世界から見放されて、真っ暗な絶望の中、独りぼっちにされたようで苦しい。
次々と襲いかかる不幸の始まりは、台湾から帰ってからだと聞き、レオンはある法則に疑問に気づけば背筋が凍った。
「先輩。それ親しい男性ばかり不幸な目に遭ってませんか? お母さんとかは大丈夫なんです?」
「……あっ」
先ほどから挙げられるのは、茉央の周りにいる男性ばかり。レオンの問いに対して、茉央は息を呑む。
「お母さんはなんともないわ」
陸の事を中心に悲しいことばかり起きていたから、茉央は気づけなかった。親しい男性ばかりが、不幸に見舞われるのか。確かにあまりにも不自然だ。
「先輩。台湾で何かしましたか?」
「何かって。ご飯食べて、観光をしたぐらいよ」
「本当に何もしていませんか?」
ジッと茉央を見つめるレオンの瞳に、戸惑いながらも台湾でした事を思い出し、ある風景が甦る。
「台北霞海城隍廟の通りで呪術師に縁結びをして貰った。その後夜だったのに、花嫁らしき人と下を俯く参列者を見たわ」
「もしかして、あの縁結びの廟付近ですか?」
すれ違ったはずなのに、霧かかったように花嫁の顔が浮かばない。
レオンに聞かれると、茉央は小さく頷いたのを確認した後、暫し二人の間に沈黙が漂う。
「……うち寺なんです」
破ったのはレオンの方で真剣な表情で告げられたことに、茉央が不思議そうにしていると続けて言葉にする。
「一緒に行きませんか」
「な、なんで?」
レオンは軽く視線を落とし、少し唇を強く噛んだ後、口を開いた。
「……呪い、かけられたかもしれません」
「へ……っ?」
レオンの言葉に脳が拒絶を示して、茉は呼吸が止まる。鼓動が耳まで響き、体が硬直した。
幸福を願った祈りが死を招く呪いだったなんて、信じたくない。
「も、もしかして、左腕の痣も」
茉央は声を震わせながら、自分の左腕を強く抑え、顔が段々と青ざめていく。誰にも見えない痣がもし呪いによるものならば?
全身に広がった時、自分はどうなってしまうのだろう。
──途端に何ともなかったはずの痣が烙印のように見えてきた。
あまりの恐怖に気を失いそうになる。人を死なせるほどの呪いなんて、あるはずがないと信じたくて仕方がない。
「どれぐらいまで広がっているかは、見えないので分かりませんが、まだ一部だけなら助かる可能性あります」
喉元まで出かかった胃酸を飲み込む茉央を見て、レオンは落ち着いた声で言い聞かせた。
「……お願いします。助けてください」
レオンの言葉に正気を少しだけ取り戻した茉央は、深く頭を下げる。
このままでは自分だけじゃなく、今は被害はない母にまでやられてしまうかもしれない。藁にしがみつく思いだった。
「先輩にはお世話になっていますから。今週の土曜日でもいいですか?」
「えぇ、大丈夫よ」
緊急性を感じてか、早めの日程を立ててくれたレオンに、茉央の心に一筋の光が差し込む。
お寺なら、もし本当に呪いでもきっと祓える。これで負の連鎖が断ち切れると信じていた。
茉央は肩の力が抜け、安堵を隠さずに吐息を漏らす。
そんな彼女の後ろで黒い影は楽しげに真っ赤な目を歪ませる。
──チリン。
遠くの鈴が鳴ると、包帯の下からアブラギリの匂いが茉央の希望を裂き、重い花の香りが広がった。
目に見えない影は、首筋をなぞるように左腕から首筋へと這い上がる。皮膚の内側で、何かが脈打っていた。
身体は熱いはずなのに冷たくなる感覚に、息が詰まりそうになり、指先が震える。
──何者かの息遣いが聞こえた。
「誰!?」
思わず振り返ったが、後ろには誰もいない空間が広がっていた。
少しずつ近づいている見えないナニカがいるのを、茉央は気づく。
不安で支配されていた茉央の瞳には部屋は明るいはずなのに、薄暗くそしてどんよりとした空気を感じざる得ない。
白い首筋に光る一筋の汗は死神の鎌の如く撫で、茉央の生きている実感を刈り取った。