第16話
あの夜から何も動かない。周囲の男性たちにも不幸は訪れず、茉央のもとには静かな日常が戻っていた。
けれど、刺青が消えていないという事実がまだ終わっていない事を教える。嵐の前の静けさなのだと、茉央は忘れていない。
レオンも心配だからと家まで送ってくれ、仕事以外でも二人で外出することも増えていた。
時折見せるあどけないレオンの笑顔を見ては、心臓が痛む感覚さえ愛おしさが溢れる。
たった一カ月の命かもしれないという不安はあるのに、穏やかな時間を余生と名付けたい気持ちがあった。
レオンに向けた感情に名をつけるならば、それは愛だという事を茉央は分かっている。仕事の後輩として、守ってくれる人として、愛している。
茉央にとって最後に恋をしたのは陸で、最後に愛したのはレオンだと悟った。
秘密のベールに包まれた心を捲る人はいない。
新郎がいないウェディングロードを茉央は歩み出そうとした。その時に足を引っ張られた気がしたのは、まだ心を完全に手放せていなかったからだ。
台湾で見かけたあの花嫁が、自分だった事を今更思い出した。
──ピピピッ。
「あれ……」
アラームによって現実に戻った茉央の視界は滲んでいる。頬を伝うのが涙だと気づくのに、遅れたのは頭に霧がかかっていたせいだ。
「なんで泣いているのかしら」
身体を起こして涙を拭う。夢が関わっていると分かっているけれど、思い出せない。
「大変! 今日じゃない!」
スマホの日付を見て、茉央はベッドから飛び起きる。今日はお坊さんから紹介された縁切り神社へと行く日。
レオンにも会う為に準備をし、部屋から出た時には夢を見たことは忘れてしまった。
──チリン。
扉を閉めた後、静かに鳴り響いた鈴の音が始まりを告げる。
神は花嫁を迎え入れるこの日を、ずっと待っていた──。




