第1話
迪化街の鮮やかな赤と金が台湾の夜を彩り、五香粉の甘くエキゾチックな香りは心ごと異国に連れていく。
台北霞海城隍廟の通りにて、忙しい仕事から解放され一人旅中の女性は鼻歌混じりに歩いている。
台湾を味わいたくて現地で買ったスカートをふんわりと揺らし、日本では味わえない雰囲気に酔っていた。
帰りを待っている恋人に早く見せたいと思う気持ちが先走り、意識に言葉が零れる。
「これからもずっと陸と一緒だといいな」
陸の反応を妄想した彼女は、先ほどの縁結びのお呪いを思い出し、嬉しそうに呟く。
「こちらの酒は特別なものだから味わって飲んでください。そうすれば茉央さんの願いは叶うでしょう」
薄暗い部屋の中、呪術師が漆の黒い器に真っ白な酒を注ぐ。茉央と呼ばれた女性は酒を口から喉を通じて、ゆっくりと味わうように飲む。
舌に残る粒々とした酸味と、米の甘味はどぶろくを思わせる。
何処のものかも、作り方も知らない酒は、ゆっくりと彼女の願いを侵食する。
「あれ……」
浮かれていた茉央に冷たい風が酔いを覚まさせた。
視界の端っこに菱形蛇の文様が鮮やかで、喪服のような夜を纏ったアブラギリの花冠をつけた花嫁と、十数人が花嫁を囲むように列をなす。彼らは喉の奥で何かを呟くように、息を漏らした。
花嫁の花冠から、白い花弁がはらりと落ちる。現世の出来事とは思えぬ美しさに、死者の冷たさが漂う。
こんな時間に結婚式をするのかと不思議に思い、振り返ると──その集団はいなかった。
「……飲みすぎたかしら」
先ほどのは気のせいだと思い、人混みに紛れ込むその瞬間──彼女の耳元で小さく鈴の音が鳴る。
しかし、茉央も含めて人々は誰一人音に気づかない。
知らずに帰りの空港へと向かっていく茉央の周りには、かすかに漂う花の香りが漂っていた。
「こっちだよ茉央!」
台湾から飛行機で帰ってきた茉央に、空港のロビーにて手を振る嬉しそうに笑う男性が一人。
「陸! ただいま!」
「おかえり」
二人は抱き合った後に、再会の時間を噛み締めていた。
「茉央が一人旅行から帰ってくるのを、今か今かと待ち侘びていたよ」
「もう大袈裟ね。陸も飛行機が大丈夫なら一緒に来られたのに」
「ははっ、どうしても高いところは苦手でさ」
茉央は一人旅が寂しかったのか唇を尖らされてしまうと、陸は困った様に眉を下げた。
「知ってるわ。むしろ一人旅をさせてくれる最高の彼氏よ」
「じゃあ、最高の彼氏に今回の旅を教えて欲しいな」
「勿論よ」
二人で楽しそうにクスクスと笑い、恋人繋ぎをする。陸はさりげなく茉央が持っていたキャリーケースを手に取り、黒い車に乗せる。
帰ってきた街のネオンは無機質で、たった一週間離れていただけなのに、胸の奥に小さな孤独が顔を覗かせた。
だけど隣にいる彼の声が優しくて、家に帰るだけの道なのに、幸せが夜空に滲んでいく。
見えづらくなっている星へ、茉央は離れてしまった台湾に、寄せながら旅行の思い出を語るのであった。
だから茉央が異変に気づくのが遅れてしまったのは、星の裏に隠されていたせいでしかない。
日本に帰って三日後。旅行気分も無くなり、仕事三昧のいつもの日常を取り戻した。何もかもが順風満帆。誰が見ても、羨ましいほどに幸せな日々。
寝る前の歯磨きをしていると、左の薬指に薄らと青紫色の痣らしきものが鏡越しに映る。
「やだ、いつの間にぶつけたのかしら」
うがいをした後に不満そうに茉央は呟いた。こんな所に痣が出来るなんて、普通考えられないが、茉央は寝相が悪いよねって陸にさえ言われたのを思い出す。
だから寝ている時にぶつけてしまったのかもしれないと片付ければ、気にしない様に洗面所の電気を消して、寝室に戻る。
茉央がいなくなった洗面所にて、生暖かい息と人影らしきものが鏡に映っていた。




