四
「すみません。少し、お聞きしたいんですが」
六十パーセントほどの乗車率の車内で、祥雲がその声を聞いたのは、五分ほど経った頃である。優しさを繕ったような女性の声だった。硬いダイヤモンドを真綿で包んだような響きを持っていて、それがかえって魅力的に祥雲少年を振り向かせた。
まず、サングラスがあった。濃い色に目元の影すら覆われて、その顔貌すべてを知ることはできない。できないというより、その行為は許されていないように思われた。
それから、つばの大きい帽子を顔が見えるように被っていた。耳の下から金糸の束のような潤んだブロンドの髪が、こちらに低く体を傾けた重力で肩の前側に垂れている。
「あ、ええっと。どうしましたか?」
十八歳、思春期。十年間の母親の不在が祥雲の青春をひねくれたものにさせたということは幸いなかったが、この美しいという形容詞をイメージ出力したような女性との会話は、青い心を少し硬直させた。
「この検査は、カードをここにかざせばよろしいんでしょうか?」
「えっと、はい。五分後の検査時間にピッとするだけで……」
「わかりました。ありがとう。ごめんなさい、さっきのアナウンスで少し緊張してしまって……確認したかったんです」
カードを携帯している人に初めて祥雲は出会った。女性は艶のある髪も、口元の紅も若々しく、自分の母よりももっと若いと見受けていただけに、祥雲は雨の中に虹を見た時のような気持ちを抱きながら、女性の言葉にうなずいた。もっとも、祥雲は今の母の姿など想像はおろか、存在すら信じられずにいるのだが。
「試験を受けに行かれるんですか?」
女性は軽い会釈から顔を上げると微笑みながらそう言った。
検査時間のカウントダウンはまだ五から変わっていない。祥雲はそれを女性に悟られないよう横目で確認したが、そうした気遣いがなんだか徒労に思えるのもまた事実であった。
試験。七月五日という日には、犠牲者を慰霊する式典のほかにそのアバウトな二文字で通じるものが催されている。
内閣府直属五二三特別編成軍、一般呼称「アルテミス」の入団試験。
体内に5―2―3遺伝子配列という特殊な遺伝子を有するホモ・サピエンスの次の進化系。ヒトという動物の枠をついに破り、自然さえもその手中に収めんとした傲慢な能力を有する新たなる人類。彼らは水、火、植物、風、光の五原柱のいずれかに属し、条件や範囲に差はあれどそれぞれ物体や事象を思いのままに操ることができる。それらがいつから存在していたのかは不明だが、七十年前に日本の遺伝子学者がその存在を解明、理論を発表し、その三十七年後、実際の配列が確認された。
個人の攻撃能力の高さの上昇による軍事利用が危惧され、発見直後の国連総会では便宜上戦闘行為に利用することは禁ずるとされていたが、旧都大怪災ののち、防衛軍の五二三部隊の存在は日本国民のみならず全世界に存在が知れ渡ってしまった。
とはいえ、現状は地幻獣という未知の存在に相対する緊急事態。政府は日本国民を守るためのやむを得ない手段として、防衛軍の五二三部隊を独立させ、大怪災の三年後、旧東京都庁に本部を置く内閣府直属の軍「アルテミス」を東京に配置したのである。
彼女の口にした試験とは、その「アルテミス」の地幻獣に対抗するための勢力拡大を目的とした、七度目の入団試験に違いなかった。
「はい……そうです」
何を隠そう、彼女の推理に間違いはない。祥雲の小さい肯定は、自信の無さと緊張の表れでもある。それを覚ってか、女性は青みがかったピンクのリップの弧をいっそう深めた。
「そうですか。きっと大丈夫。がんばってくださいね」
それから、自身の鞄を少し探って、
「これ。息子が小さい時に買ったおもちゃなんですけど。お守り代わりにどうぞ。あの子、防衛軍に入るのが夢だったから」
と白い掌にバッチを載せて祥雲へと差し出した。防衛軍のエンブレムが刺繍された、軍にあこがれる子供のための公式グッズだった。
「あ、えっ、いいんですか?」
式典に向かう女性。息子のおもちゃ。過去形の夢。それは、今は亡き命の思い出のはずである。
「いいんです。思い出はたくさんありますから。防衛軍とは少し違うけど、あの子の分まで、頑張って」
サングラスに隠れた表情がわずかに見えた気がして、祥雲はバッチを指で持ち上げた。ざらざらとした刺繍の手触りが指先をくすぐる。
「ありがとうございます。がんばります」
「ええ。応援してます。検査のこと、教えてくれてどうもありがとう。ではまたどこかで」
女性が屈めていた腰を伸ばすと、香水よりも柔らかく、シャンプーよりも鮮やかな香りが漂って、じきに流れて消えていった。
カウントダウンが三に切り替わる。
「お客様にご案内します。当列車はただいま、特別警戒区域内へ入りました。これより、お客様ならびに当列車には東京都特別警戒区域設置に伴い制定された特別法が適用されます。非常の際は、乗務員もしくはアルテミス構成員の指示に従うことが定められております・・・」
ちらとモニターの文字の向こう側を見やると、窓の外に変わり果てた故郷が小さく見えた。