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 おわりです。

 と言ったあとの希望に満ちたはにかみが、この男子児童の気持ちにまた雲を落として、下校道。

「まだ帰ってきてないの」

 踵で地面を擦りながら歩く祥雲の隣でそう言った美しい少年の声はやはり流麗、そこに幼い友情も交じり合っているものだから、ひとつひとつの言葉は一種の尊さすら見え隠れする。校門を一歩跨いで敷地を出ると、胸元の電子名札バッチに浮かんでいた比向晴姫という名がぷつりと見えなくなった。

 数メートル先の角に、一時間ほど前に愛らしく希望を語っていた少女のランドセルが弾みながら消えてゆく。あとに数束の艶髪が靡く。

 晴姫の問いに、祥雲は答えないことで肯定を示した。

「ミナモさん。すっごく忙しいんだな。優秀だから」

「ん」

 空は広すぎて、青色はいやでも視界のどこかに映りこんでくる。その高く晴れ渡ったさわやかさが、祥雲にはかえって冷然に思われた。

 瑞城水面という研究者がいる。この世界の、どこかにいる。まだその道では若手と呼ばれるほどの年齢だが、頭脳は当然明晰で、加えて連日連夜の作業に耐えうる体力と、数多の困難とぶつかり合っても打ち砕かれないダイヤモンドの精神力を有した、紛れもない逸材。うら若き青春の時代から学会の耳目を一手に集めてはいたが、著名な研究者の名を冠した研究室を肩書に連ねてからこちら、その界隈の未来の半分は彼女の右手に握られていると言っても過言ではない。

 まさに傑物。次世代の巨星。生命として生まれ落ちた、進化の夢。しかし。

 しかし祥雲の母親。

 青い色。祥雲は空よりも、海よりもずっと先に、その色を知っていた。先生が文部科学省刊・小学校学習指導マニュアル(一斉授業用)に沿って祥雲に質問せずとも、彼の心にはずっとその色が溢れて、今にも指先に青い血液が滲んできそうなほどであった。

 祥雲がこの世に生まれて最初に見た、その宝石よりもずっと透き通った青が、まだ六歳の少年の生活から消えてしまうにはあまりに早く。あたたかな母性に触れたい幼さが、彼の胸のうちで地団駄を踏む。

「お母さんさ」

「うん」

「おれのこと、もう忘れちゃったのかな」

 祥雲がその母親と同じ色の瞳に水面の顔を見てから、雪解け水のような声に触れてから、もう二週間近くが経つ。どれほど仕事に忙殺されようと、三日に一度は祥雲の頬にかさついた指先を添えて笑顔を見せていた水面の事情を慮れるほど、祥雲が成熟していようはずもなく。

「そんなわけないよ」

 わずかに眉根の下がった晴姫の表情は耽美さをも湛えて、友人に向けられる憂いの愛しいこと。

「そうだ祥雲。おれんち寄っていけよ。良い茶葉があるからおまえの好きなミルクティー淹れるってシオンが言ってた」

「え、ほんとに?」

 祥雲の暗い瞼の裏に、蠟が垂れるようにひとつの温もりが灯った。

 同じマンションの別のフロアの一室。間取りに違いは無いのに、晴姫が父親と暮らす部屋は祥雲のそれよりも温かく、明るく感じるのがいつも不思議だった。見たことのない調味料のやけにたくさん並んだキッチンで晴姫の父親が作る、未知の食べ物と飲み物。

 その中でも特に祥雲が気に入っていたのが、ミルクティーだった。芦の穂の秋の輝きにも似た色で、舌先に甘く、どこか清々しくて華やかな香りが鼻から抜けていく。カップの壁を滑る滑らかな液体と、とぽとぽと重みを持った音の心地よさの記憶が、今日の課程を終えた脳を刺激して、白い靴の小さな踵が少しだけ軽くなった。

「やった、晴姫、早く行こう!」

「あっ、急に走るなって」

 ふたりの少年は駆け出す。風が肌に触れる。背中でランドセルが揺れる。アスファルトに足が跳ねる。笑みがこぼれる。

 家まではそう遠くない。曲がり角を右。

 その時。

「あ」

 ずるりと、祥雲の運動靴が滑った。咄嗟に地面についた手が、なにかに濡れた。

 その感触を祥雲が知るのと。

「えっ?」

 晴姫の抜けた吃驚の声が出るのと。

 地の奥深くから、この宇宙すべてが地獄のテクスチャに塗り替わったのと。

この瞬間からはもう、なにが先でなにが後か、わからなくなった。

 ただ、少し離れたところに少女が仰向けに転がっていて。

 こちらに向いている真っ黒な目はもう何も見ていなくて。

 白く舗装された道の上に、長い髪が放射状に張り付いていて。

 投げ出された身体を、輪郭のぼやけた生き物のようななにかが貪っていて。

 その生命体の外皮が内臓と触れ合うじゅるじゅるという音が耳を這って。

 思わず、耳を塞げばぬらついた掌の液体が頬に移って。

「はっ……、はっ……」

 吐く息の音が、周囲に木霊した。誰の吐息の音か、わからない。自分かもしれないし、あの半透明の猿のものかもしれない。それとも誰か、ほかの。ほかの生命。

 ああ、誰といたんだっけ。何をしていたんだっけ。これはなんだっけ。

 耳元で握りしめた指の震えが、やがて彼の視界をも揺るがす。上手に息を吸うことができていないことにも気が付かないまま、瞬きを忘れた眼窩。顎先から滴る汗。目の前の衝撃に対する身体の反応は、彼に思考すら許さない。

 時の流れ。重力。善と悪。種の繁殖。生命の終わり。精神と実体。この世の理が、目の前から一つずつ失われていく。

 ぐちゃ、と想像を超越した音と共に、人間の欠片が折り畳まれた膝のすぐ先に飛び込んで落ちた。地面の細やかな凹凸の間をゆっくりと埋める、生臭い赤色。

 それを追うように近づく半透明の獣。同級生を啜るものとは違って、鳥に似た形をしているが、祥雲は判別できるほど正常ではない。

 しかし既に空になった頭蓋の中でも、動物の本能だけはかろうじて残っていた。

 死ぬとわかった。

 わかったところで、どうにもできないこともわかった。だからこそ、死ぬと悟った。

 自分の鼓動の音に重なって、怪物の鼓動が聞こえた。血の匂いに隠れて、草の匂いがした。

 目に映るすべてが、歪んで、回って、混ざって、意識が濁る。

 精神が黒いインク壺に放り込まれる直前。その一瞬。形を失い、色を失ったはずの不明瞭な世界の中で、懐かしくてあたたかい、青い輝きがあったような、そんな気もした。


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