二十一
東雲。
徐々に太陽の光が空を色づけ始める、新しい一日の始まりの、その始まり。
「霧南ちゃん」
ああ、これは幻聴だ。ぼんやりとした頭の中に、あの人の声が響いている。
「霧南ちゃん。私のお願い、聞いてくれる?」
聞きますよ。水面さん。私、あなたの力になりたいんです。
水面さんは、故郷からひとり東京へ連れて来られた私に、初めて優しくしてくれた人だった。家族もない。帰る家もない。すべてを奪われてまた、搾取されようとしている私を、人間らしく扱ってくれた。白衣の輝きと、青い眼の煌めきが、その時の私にはあまりにも希望そのものに見えて、縋るように彼女の後をついて回った。
そして、あの大怪災があって、水面さんは国の研究施設を翔榎と共に離れることになった。
新しい部屋は、小さなビル。一階のフロアは元飲食店だったそうだ。
私たちはそこに一人ずつの部屋を作って、秘密の研究室を作って、こっそり隠れるように、だけど街を日々見渡しながら、生きていた。
「チーム名なんて大したものは無いが、とりあえず写真でも撮っておくか」
私の家族。そう呼んでよかったと思う。
ある日、翔榎が獣みたいな人間を拾ってきた。
人狼と呼ばれていたそいつは名前を聞けばライトと名乗った。ぼさぼさした頭と汚い身なりは、水面さんによってとても綺麗に整えられた。見違えるようになったそいつは、性格まで変わった。舞台に立っているかのような大仰な口ぶりは気に入らなかったけど、そいつが初めての友達になった。
「仲間も増えたことだし、写真を撮りましょう」
水面さんはとてもうれしそうで、少し寂しそうだった。
その寂しさのわけを、私は聞けなかった。だけど、水面さんの方から私に話してくれるまで、そんなに時間はかからなかった。
水面さんの交流関係を私は知らない。ライト以外の大人のふたりはプライベートな領域に入れるほどの仲ではなかった。それでも仲間として私たちは成り立っていたし、お互いに家族のように感じていた。そう思う。
だからその日、水面さんが私たち以外の存在を家族だと口にした時、少なからず衝撃を受けた。水面さんのすべてはここにはなくて、水面さんのすべては私たちではなくて、それ以外にもっと大切な存在がいることに。
水面さんは言った。
「研究員になる代わりに、息子を……祥雲を旧都に近づけないって約束するってその五十嵐っていう人は言うの。でも、もし万が一旧都に来てしまった時のための保険をかけておきたくて。あの子が旧都に来るとき、その目的はきっと私だろうから」
水面さんの息子。祥雲というらしい。それが私よりも大切なもので、私よりも守るべきもので、私よりも心を許しているもので……。
「そのために、霧南ちゃんの秘密の力を貸してほしい」
私の秘密の力は、文字通り、秘密にすることを約束させられた力だ。他人に明かしてはいけない。隠しながら生きなければいけない。悪用されてしまうから。それほどに、強大な力だから。防衛軍の内部組織にいるときから、私の能力は表向き別のものに書き換えられ、その本当の力を知る者は少なかった。
それが私の力。他人の記憶を消す力。消した記憶はトリガーを設定して、また思い出させることができる。それが秘密の力だった。
「祥雲がもし試験を受けに来た時のために、霧南ちゃんはアルテミスに入って、タイミングを見て祥雲と接触してほしいの。そして、私に関する情報を一切消して。ライトと翔榎のふたりもね。私が研究室に入らされたこと、ふたりが知ると面倒だから。祥雲が私のことを忘れたら、きっと旧都にいる目的を失って新都で平穏に暮らす道を選んでくれると思う。そうしてほしいの」
「だから記憶を取り戻すトリガーは」
「私の死」
水面さん。水面さん。
私、あなたの言うとおりにしましたよ。
五十嵐アンナが列車の中で祥雲くんを確認してから、彼に近づいて、記憶を消して、試験も失敗させて。あなたが本当に忘れているか確認するために接触した後も、きちんと後処理をして。
水面さんの、いつもの笑顔が私に微笑む。
水面さん。水面さん。行かないでって言いたかった。もっと甘えさせてほしかった。
水面さん、私だけの水面さんでいてほしかった。
行かないで。行かないで。そばにいて。あなただけの私でいたいんです。
影は消える。私の思うとおりになんて、なるはずもなく。
轟音が霧南の目を覚まさせた。
ライトの攻撃で、どのくらい昏倒していたのだろうか。
まだ夜は明けきっていない。いくつもの星が、意思をもっているように霧南を見下ろしていた。
今の音は一体なんだ。痛む身体を起こしてみると、遠くの方で、巨大な鯨が羽ばたくように宙を舞っているのが見えた。
嫌な予感がする。心がざわめく。あの地幻獣は、まさか。
確証はないが、あの人だ、と第六感がささやいた。ああ。まさか。まさか。こんなことになるなんて。
ここから走って行ったとしても、間に合わないだろう。
霧南は屋上の欄干に寄りかかりながら、何を願うでもなく、誰に祈るでもなく、ただ見つめていた。哀れな彼女には、もうそれしかできなかったのだ。
同時刻 C±0地区
戦わなきゃ、と祥雲は思った。誰かに手を引かれて逃げるより、目の前の地幻獣と戦わなければならない。ただそれ以前の思考に、人間が地幻獣に変化したあの光景が祥雲にはまだ残っていた。
頭が混乱している。
人間が地幻獣になるなんて、祥雲の中にある論理では全く証明できないもので、それでも事実として確実にその事象は存在していて、今目の前にその結果の産物がいる。
あれは人か、地幻獣か。
その時、遠くでバイクの音がして、祥雲は反射的に振り返る。
「お前の仲間だな」
地幻獣から離れていた足を止めて、アンナが祥雲の腕を離した。
「まったくおまえの母親にはうんざりだよ。せっかくの研究の成果たちがひとりの女のわがままでおじゃんになるんだからな。まあでも嫌いじゃなかったよ。今も嫌いになれない。いや。そうだな。好きだったよ。それじゃあな。また会えたら会おう」
別れの挨拶に突然の告白を交えて、アンナは静かに去っていった。祥雲には引き留める理由もなく、かけるべき言葉もなく、ただこの別れが最後でない予感だけが残った。
空はまるで海のように、巨大な鯨が悠々と遊泳している。その鯨の半透明の体に月光が屈折して、やけに煌めいて美しいのが、かえって恐ろしかった。
「祥雲!」
祥雲の姿を見つけた晴姫が駆け寄り、その無事を確かめたのは、アンナの姿がすっかり見えなくなった後であった。
「さくちゃん、けがはない? あの人たちに何かされなかった?」
「うん、あ、でも」
「怪我がないなら目下の問題はあの地幻獣だよ。なんとかしなくちゃね」
ライトが両手を擦り合わせてばちばち音を立てながら電気を発生させる。
あの地幻獣が人だと、祥雲は言うべきか迷う。その間にも鯨は何かを探す様に泳いでいて、周辺の建物を破壊し続けているのだ。それが旧都の街を蹂躙する前に、やはり倒さなければならない。戦わなければならないのだ。
祥雲は沈黙を選んだ。その選択が正しいかは、まだわからない。
「僕と時雨ちゃん、晴姫くんで動きを止めよう。その後は風雅くん、翔榎をよろしく。祥雲くんは動きに注意して、翔榎を守って」
はい、という間もなく、全員が動き出す。ライトの作戦の全貌がわからずとも、それぞれの役割ははっきりとしている。
風雅がアスファルトをごぼりと壊して、それぞれの動く足場を作り始める。三人の乗った足場は上昇して鯨と同じ目線へと向かってゆく。
ばち、と夜の空に閃光が走る。ライトの手が鯨に触れて、その体全体が痺れるようにぴくぴくと痙攣すると、すかさず時雨の蔓がその体全体に這いはじめ、追うように炎が纏わりついてゆく。
鯨の体が大きく動く。尾を左右に揺らすのは、苦しんでいるのだろうか。人間だったころのあの人の姿が瞬きをする祥雲のまぶたの裏に映った。地幻獣に痛覚はあるのだろうか、と祥雲がそんなことを考えていると、祥雲と翔榎の乗った足場も動き出す。
そういえば。祥雲は隣で佇んでいる翔榎に尋ねた。
「あの、翔榎さんってどういう能力かおれまだ教えてもらってませんよね?」
翔榎の片方の目がきょろりと動いて祥雲を見る。
「俺の能力は……」
そこまで言った時、苦しむ鯨のひれがこちらへ向かってきた。祥雲は咄嗟に水の防壁を作り出して、それを防ぐ。と、固さのあるはずのひれが防壁に当たった時、ばしゃりと水同士が触れ合う音がして、鯨の体が水となって崩れるように落ちた。
「なんか今の……」
まるで祥雲のDNAと共鳴するように触れ合い水となって落ちた鯨の一部に違和感を覚えている間もなく、祥雲と翔榎の乗っているアスファルトがぐっと上がった。
「祥雲、危ないから目を閉じておけ」
ここで目を閉じるほどの自制心を祥雲のような少年が持ち合わせているはずもなく。
目の前で起こる何かの目撃者になるという好奇心が彼の瞼を持ち上げる。
翔榎はそれを追求する様子もなく、動き続ける地面に手をつきながら左手で髪をかき上げた。
そして、動く地面はついに、鯨の顔の付近まで近づく。
翔榎が何をしようとしているのか、祥雲にはむろん見当もつかないが、風雅にはわかるらしかった。
その時。
翔榎の左目が露わになるのを、祥雲は見た。
眼窩の中は真黒に染まり、瞳孔だけが赤く妖しく光っている。まるで信じられない光景だった。その様相たるや、まるであやかしではないか。
祥雲が呆気に取られている間に、鯨の瞳が翔榎を捉える。
ひとりの人間と、地幻獣の眼光が交錯する。
目が合った!
その瞬間、鯨の巨大な身体は端から細かい水滴となり霧散し始める。
「え?」
そう、つまり、死んだ。
祥雲の短い驚きに、霧雨が降り注ぐ。
同時刻 U+2地区 翠翠飯店屋上
人間が地幻獣になるメカニズムなど霧南にはまったくもってわからないのに、それでもあの巨大な鯨が水面だと感じたのは言葉では説明できない何かか。
だが、その確証もじきに得る。
水面が死んだということは、彼女の設定したトリガーが解除されるということである。すべての人間は水面の記憶を取り戻し、彼女の死に直面することになる。
瑞城祥雲も。
「これでよかったんですか。水面さん」
その問いかけにもう答えるものはいない事実が、霧南の瞳から大粒の涙を溢れさせて屋上のアスファルトを濡らす。




