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二十

車がどこへ向かって走っているのか、祥雲にはしばらくわからなかった。

 気が付いた時にはアルテミスの巨大な建物が現れて、正面ではないどこかの入口で車が一時停止をした。

 運転席の窓が開く。運転手が無言でちらりとサングラスをずらすと、窓の向こうの顔認証カメラは許可と認識したらしい。車庫の重々しい扉が上下に開いてゆく。

 時は遡って、一時間ほど前。

 祥雲が一時の家族たちに夜の挨拶を告げて部屋へ戻り、扉のシステムが祥雲を認識して主を迎え入れたとき。

「ここは窓の防犯システムがなってないな。まあ、この程度の建物にそんな予算もないか」

 無人のはずの部屋から、そんな声が聞こえた。

「えっ……えっ?」

「人間、本当に驚いた時には大きい声は出ないものだよな。君がデータ通りの人間でよかった。ここで大きい声を出されてしまったら計画がおじゃんになるところだった。ああ、おじゃんと言えば私があげた防衛隊のエンブレム、しっかり飾っていてくれてありがとう。おかげで君の部屋がすぐにわかったよ。これで部屋を間違えていても計画が台無しだったからな。君のおかげで順調だ」

 硬いダイヤモンドを真綿で包んだような響きを持っていた。

 祥雲の目に飛び込んできたのは、まずサングラス、そして金髪。そして甦ったのは東京へ行く列車の中の一場面。

「あ、あ、あの」

 わかっていても、頭の中が混雑してうまく声が出ない。

 あの時出会った女性が、今祥雲の部屋にいる。防衛隊のエンブレムの話からも、それは間違いない。

「とりあえず扉を閉めてもらおうか。その後は私についてきてくれ。素直に従ってくれるか? 脅すものも用意はしているんだが、あまり使うとミナモに嫌われそうでかなわん」

 鮮やかな手口の誘拐は成功し、そして今に至る。

 祥雲は自身の部屋の窓から金髪の女に連れ出され、車に乗せられてここまでやって来たのであった。

 車の中はジャズミュージックが自動再生されて、固い雰囲気を緩和している。

 女は車庫の奥へと車を進ませると、「さあ降りてくれ」と後部座席の扉を開いた。自身も車を降りると、ハイヒールが鉄の床にあたって快活な音がする。

「行こう」

 車は地下に収納されるのか、地面ごと下に降りてゆく。

 女が駐車手続きに顔と指紋を登録すると、今度は建物内部へ続く扉が消えるように開いた。

 先には、祥雲のような子供では足がすくんでしまうような長くて暗い廊下が続いている。誘拐という状況も相まって、足が出ない祥雲の手首を、女が掴んで軽く引いた。

「そういえば、出会うのは二回目だが名前をまだ名乗っていなかったな。私は五十嵐アンナ。君のママの仕事仲間で友人だ。君は瑞城祥雲だな。私の友人の息子だ」

 何故祥雲の紹介までしたのか、そんな些細な疑問は気にならないほど、この状況自体が大きな疑問として未だ祥雲の中に渦巻いていた。が、あの列車の中でのやり取りが先にあるからだろうか、それとも五十嵐アンナに他人にそう思わせる心安い部分があるからだろうか、存外怖い思いはなかった。

「さて、サクモ。君は先ほどから全く話さないが少なくとも今なぜ自分がここに連れて来られているのかという疑問を持っているはずだ。まあ話すと少し長くなるんだが、この先もそう短い道のりではないし、話すとするか。まず私と君の母親は同僚だと先ほど言ったんだが、そのミナモから君を連れてくるように頼まれてな。ミナモは優秀な研究者だが彼女の肩書の一つ目はお前の母親であることだから面倒でな。そのミナモが今度お前と話をしたら今後お前の母親はやめて研究者になるというからこの私が仕方なく協力してやることにしたんだ。全く母親というのはわからんやつだ。私には子供がいないしミナモの考えていることなんて全く読めんがな。とにかく今は大事な研究の最中で、その研究に集中してもらうためにお前を誘拐したという話なんだが、わかったか?」

 アンナが言葉を切った後、祥雲は彼女とは反対側に視線をやってその内容を咀嚼していた。もっとも、母親という存在のわからない今、彼女の言うことの半分以上はそうかそうかと丸呑みにするしかないものであったが、それでも聞き逃せない点はある。

「列車の中では子供いたって……」

「あれは嘘だ」

 一蹴。どこかでも似たような感覚のあったことを思い出しながら、祥雲はやりきれない顔をする。

「嘘ついてまでおれと話したかったんですか?」

「ミナモが様子を見てこいというから仕方なくこの私が行ったんだ」

「わざわざ作り話を用意してまで?」

「列車に乗って新しい地へ行こうとしてる坊やに無駄な不安を与えたらかわいそうだろう」

「優しいんだか優しくないんだか……」

「優しいだろう。どう考えても」

 会話が予想外に弾むのは、やはりアンナが纏う親しみやすい雰囲気が関係するのだろう。祥雲はふと、母親にも似た安心感を覚える。とはいえ、彼の母親に関する記憶はないのだが。

 長い廊下の先には、球体のエレベーターが待っていた。全体的にほの暗い空間の中で、アンナが近づくことで扉の開いたエレベーターのかごの中だけが明るく照らされている。

「どこに行くんですか?」

 こつこつと一定のリズムで鳴るハイヒールが、エレベーターの中で止まる。行先ボタンはない。

「地下研究所だ」

 扉が閉まると、エレベーターは即座に動き始める。高速で動く体にGがかかり、ふわりと浮くような感覚が襲う。

 時間にして数十秒。しかし距離はかなり下へ進んだだろう。

 また、無音で球の前面が開く。

 このエレベーターの球体を弧の中心として、半円状に研究室は広がっていた。円の外側から中心までは高さがついており、一段の広い階段が中心へ向かって続いている。

ここから見下ろせる半円の中心部分は机やホワイトボードがいくつも並んでいて、少々雑多な印象だが数多の研究員たちが議論を交わしながら忙しなく動いている。階段の上半分ほどは緩やかなカーブを持った本棚や器具棚がいくつも円の弧に従って通路を成しながら設置されていて、その様相はさながら芸術的でもある。またその棚の通路の先、円の弧の部分には等間隔で扉が見えており、その奥にもより専門的な施設が続いていることを窺わせた。

 研究室らしく白を基調としたアカデミックなその場所は明るく、知恵の力に満ち溢れていて、祥雲は思わず感嘆の声を上げたのであった。

「おお、驚いている」

 そんな祥雲の様子を見つめてアンナが一言。

「アルテミスの地下はこんな風になってたんですね」

「まあ、秘匿された存在ではあるが、アルテミスだからな」

「秘匿? 翔榎さんもライトさんも知ってるみたいでしたけど……」

「公には秘匿されている。はずだ」

 頼りない語尾を聞いて、祥雲は思わず顔を顰める。先ほどから真面目そうな口ぶりとは裏腹にツッコミどころの多い人物だ。それが祥雲を安心させる要因ともなっているのだが、そのことにまだ幼い祥雲は気づかない。

「さあ、母親と対面だ。ついてこい」

 アンナは階段を下りずに、そのまま弧に沿って通路を歩き始めた。祥雲もそれについて後ろを歩く。先ほどまでとは違い二人の位置が直線になったからか、そこからの会話はなかった。

 数十秒。歩いた先の扉の前で、アンナは立ち止まる。今はもう鈴ではないが、呼び鈴ボタンに右手首をかざせば、ドアの向こうで五十嵐アンナと微かに聞こえた。

 扉の向こうで、来客が許可されたのだろう。こちらとあちらを取り仕切る壁がやはり消えるように開かれ、また白に包まれた小部屋が現れた。

 そこは研究室というよりは居住スペースという方が適していて、簡素ではあるがベッドがひとつとテーブルがひとつ、最低限の生活を営むには十分な空間が作り上げられていた。

 そしてそのテーブルに肘をついて、誰かがこちらを見ている。

 青い眼。祥雲が鏡の中に見るものと、同じ色。あおいいろ。どこかで見たような。ずっと前から知っているような。

 祥雲は目の奥が痛むような感覚に眉間を押さえる。

「平気か? まあ座れ」

 アンナが祥雲をテーブルへ促す。対面に、部屋の主がいる。肩まで伸ばされた茶色い髪の揺れる様、どこかで見たような。

「街で会った時のことは覚えてないのか?」

「その後霧南が接触してたみたいだから、きっと忘れてるはずよ。あの子のことだから、私のためにって」

 部屋の主の女が口を開いた。祥雲には理解できない会話に、頭が痛む。

「まあ、まずは自己紹介から始めましょう。あなたにとっては初めまして、だものね」

 少し女性の顔に陰が落ちる。祥雲は少しばかり不思議に思ったが、もうすでに勘づいていた。

「おれのお母さん、なんですよね?」

 女性が一瞬、下を向いて、そしてまた顔を上げた。

「そう。私があなたの母親。瑞城水面よ」

 水面が右手を出した。祥雲はそれを握りながら、

「瑞城祥雲です」

 と名乗る。手は暖かく、柔らかく、少し小さかった。

「知ってる。だって私がつけた名前だもん」

 水面が肩を震わせて笑う。

 祥雲はまだどうして良いかわからず、ごまかす様に愛想笑いをした。

「親子水入らずか。私は失礼するぞ」

 祥雲のぎこちなさに気付いているのかいないのか、どこか読めないアンナはくるりと背を向けて部屋の開扉ボタンに触れる。

「アンナ。ありがとう」

 その背中に、水面が柔和な笑みとともに礼の言葉をかけた。振り向いたアンナは言葉こそ返さなかったものの、その微笑みにどこか嬉しさのような、しかしそれだけでは説明しようのないような不思議な感情を含ませていて、祥雲という第三者に二人の間柄をわからなくさせた。

「さて。何から話そうか」

「あの、おれの記憶ってなくなってるんです、よね……?」

 上機嫌な水面に翔榎から聞いたままの情報をぶつけると、彼女はうーん、と大げさに考えるそぶりを見せてから、口角を僅かに上げて祥雲を見た。

「ごめんね。自分勝手だけど、そういう話は今日はしないってことになってるの。あなたは私のこと母親だと思わなくていいし、そう緊張だってしなくていいから、最近の祥雲が何を好きで、どんな生活をしていて、何にときめきを感じるのか、とか。そういう普通のことを話したいの。わがままなお願いだけど、聞いてくれる?」

 そのように頼まれて、祥雲には断る力がなかった。今の彼は記憶をなくした状態だと聞かされて、自分の存在すら曖昧に感じている迷える子羊なのである。挙句誘拐までされて連れて来られたこの見ず知らずの空間で、彼女の半強制的とも言える「お願い」を強く跳ね返すことなど、できようもないのだ。今の祥雲はただ言われるがまま、どのような状況に置かれても流れに逆らう力など持ちようのないただの子供なのである。

「わかりました……」

 そう言うことしか、彼にはできない。

「じゃあ、さっそく聞いてもいいかしら。お友達はいるの?」

 祥雲はそれから、当たり障りのない質問に、当たり障りのない返事をした。

 それでも彼女は終始にこにこと笑みを崩さずにいて、それは意図してそうしているのではなく、ただ笑みがこぼれて仕方ないというようだった。祥雲にはそれがどこか不気味でもありながら、どうしようもない哀愁を覚える自分が不思議に思えた。

 母親という存在を母親と名乗る女性に意図的に消された自分。

 しかしその理由を聞くことすらも許されず、水面の淹れたあたたかなミルクティーをすすっている。

「晴姫くんが一緒にいてくれたんだ。それはよかった……」

 祥雲がここまでに経験したことを話すと、水面の表情はころころと変わる。それは祥雲のその時々の感情に共鳴するようで、不安げであったり、心配そうであったりするのであるが、最後には必ず安心したように微笑むのだ。

 水面は祥雲が旧都に来る前のことも詳しく聞いた。

 旧都に来る前の祥雲は、新都の一人部屋にしては大きすぎるマンションの一室で、誰かの手配した家事代行サービスとぽつりぽつり会話を交わす、そんな生活だった。もちろん、学校には友達がいて、それなりに充実した学生生活を送っていたが、彼の心はいつもどこか満たされないまま、ただ温かいだけの夕食をひとり口に運んでいた。

 だから祥雲にとって、旧都でのこの数日は今までにない感覚を与えてくれていた。誰かと一緒に食卓を囲む暖かさと、おはようとおやすみを言い合える空間の幸福感。当初の目的は打ち砕かれて、地幻獣に出会い命の危険を感じても、そのぬくもりだけで祥雲は、旧都に来てよかったと思えるのであった。

 その話を聞いた水面は、寂しそうな、同情するような、嬉しそうな、複雑な表情をして俯いた。

 気づけば、誘拐されてから数時間が経過しようとしている。窓のない地下の研究室からはわからないが、もうじきに暗闇は取り払われて、太陽が顔をのぞかせるであろう。

「そっか。ありがとう、祥雲。あなたの話が聞けてとっても嬉しかった」

 祥雲が口をつけただけのミルクティーはとっくに冷めて、液面は微動だにしない。静かだ。

「祥雲。あなたに言わなくちゃいけないことはたくさんあるんだけど、これしか言えない私を許してね」

 祥雲は不思議な顔をして、水面を見上げた。この数時間で、水面とかなり打ち解けられていたのは、二人の間にある血の繋がりも関係していたのだろうか。少しばかり考えてみて、やはり記憶の欠落に阻まれる。

「祥雲。あなたの運命を受け入れてね。この先あなたにどんな変化が訪れたとしても、きっと私と、あなたにつながる記憶があなたを正しい道へ導いてみせるから。変化を恐れないで。運命を拒まないで。意味がないように思える一日だって、すべては未来へ繋がっていくんだから。それから……」

 水面は量の減っていないミルクティーと、祥雲の表情を見た後、困ったように笑ってみせた。

「ごめんね。私、やっぱりあなたのお母さんじゃなくちゃ嫌みたい」

 そう言うと水面は静かに立ち上がり、白衣のポケットから試験官と注射器のようなものを取り出した。

 試験官の中で揺れる薄い緑色の液体を慣れた手つきで注射器に移し替えると、もとより腕まくりしていた白衣の袖をぐっと上げて血管に沿わす様に針を置く。

「え?」

「ミナモ! 何しようとしてる!?」

 祥雲の素っ頓狂な声にかぶさるように、扉の外からアンナの焦る声が飛び込んでくる。同時に来客ブザーが部屋にこだまするが、水面は気にも留めず、祥雲に一度微笑みかけると、針を差し込んだ。

 水面の頭の先から、つま先から、半透明に変わってゆく。その表面は揺蕩う水紋のように揺れて、あっという間に彼女の全身を覆ってゆく。

「ミナモ! 開けろ!」

 ドアをたたく音と、アンナの叫び声が聞こえたかと思えば、水面の体はもうその原型をなくして、大きな鯨の形に変わっていた。

 鯨は部屋にとどまるはずもなく、ばしゃりばしゃりと岸壁に打ち上げる波のような音を上げながら、小部屋を破壊してゆく。

 アンナの叩いていたドアも鯨の体躯の水圧で破壊され、ようやく中の状況を知ったアンナは一瞬ぽかんと口を開いた後、サングラスをその場に捨てて大きい声を上げた。

「総員退避! くそっ、これだから母親ってやつは……!」

 誰かが非常ボタンを押して、アラートがけたたましく研究室内に響き始める。

「ほら、お前も行くぞ!」

 アンナが部屋に残された祥雲の手をとって研究所内を駆け出した。エレベーターは放棄され、開け放たれた非常階段から巣穴に湯を注がれた蟻のように研究員たちが退避するのを見る、祥雲の瞳は、あおいいろ。


 同時刻。アルテミスよりほどなく近い或る道を、配達用バイクが三台走っていた。

「こんな時も配達用バイクってダサくないすか」

「せめて免許取ってから文句言ってね」

 晴姫の呟きが、前でハンドルを握るライトに両断される。

 祥雲が金髪の女に柔らかに誘拐される様子は、街のカメラにしっかりと映っており、その行先を追いかけるとあっけなくアルテミスの地下研究室への入口は見つかった。奇しくも二つの目的の行先が同じところとなった彼らは、軽く翔榎の手当てを行ってからアルテミスへと向かうべく出発したのだ。

「とはいえ、中にどう入るかですよね。顔認証に登録されてない人だと駐車場すら入るの難しそうでしたし」

 マイクを通して風雅の声が流れ込んでくる。

「もうなんかいっそ研究所の方からばーんって爆発とかしないかな? なんか失敗とかして」

「どんな研究所だそれは」

 時雨と晴姫が緊張感のないやりとりをした、その時。

 ばきばき、めきめき。それは紛れもなく、破壊の音。

 同時に、目的地と定めていた場所から土煙があがるのを見る。

「ちょ、ちょ、ストップ、ストップ!」

 ライトがバイクを急停止させると、それに二台も続く。

 ヘルメットリングのボタンを押して、プラスチック部分を収納させると、そこには。

 アルテミスの正面広場の地面を破って、巨大な鯨が姿を現し始めていた。

「地幻獣だ。大きいな……」

 翔榎の驚きが声色を通して伝わってくる。アルテミスから少し距離のあるこの場所からでも、見上げるほどに大きい鯨がそこにはいた。

「とにかく近くまで行かなくちゃ。祥雲くんが危ない」

 バイクが発進する。夜明けの街を裂くように進む。電気エネルギーのためにエンジン音は鳴らない。


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