十八
その時、何が祥雲を変えたのか、彼自身もよくわかっていなかった。
ただ突然生への使命感が彼の中に生まれ、行動が思考を介さず彼を動かした。
それは地幻獣と遭遇しながらも生きているという自信か、はたまたその場にいた仲間を守るという正義感か、正しく形容する言葉は祥雲の中にも見つからなかった。
あの瞬間、妙に頭がしんと冴えわたって、冷静になったことは覚えている。まるで凪のように穏やかな心象風景だけが記憶として残っていた。
「まあ、そんなもんだろ。とりあえず戦えるってわかってよかったな」
晴姫の磨かれた螺細細工のような靴音に被って聞こえる言葉に、あるいは自分の存在証明だったのだろうか、とも思う。
「でもなんか不思議なんだよな」
「なにが?」
H―3地区。午後三時。二人は店の買い出しに出ている。
「おれ、今まであんな大きい範囲で水出せたことなくて。しかもあんな風に人を守るように使うなんて、考えもしてなかった。おれよりもずっと賢くて能力のことわかってる人が使ったみたいで、なんか信じられないんだよ」
「……」
沈黙で同じる。
アルテミス入団の希望を持って旧都にいた頃から晴姫が感じていた違和感。
自分の実力と経験に見合わないほど強力な力の発現は、言い方を変えれば暴走でもある。
同じ感覚を祥雲も持っているということは、この街がそうさせているのだろうか。知識も常識もこれまで培ってきたものは何一つ通じないこの日本という国から切り取られたような街に、どんな秘密があってもおかしくはないが、これもまた、そうなのだろうか。
そう思えば、晴姫は旧都という街を甘く見ていたのかもしれない。
大怪災以降、新都へ移らず、東京近郊へ父とふたり居を構えなおし、その後専門高校の寮へ移り住む中で、自身が暮らしていた旧都という街がこんなにも大きく変化していることを、晴姫は予想もしていなかった。晴姫の思い描いていた旧都は東京の延長であり、自分の故郷の面影を持っているものであった。しかしそれは勝手な思い込みに過ぎず、地幻獣に蹂躙された街にもう祥雲と飲んだあたたかいミルクティーの思い出は存在しない。
こうして歩いていても地幻獣の出現に特化された対策と新しいシステムが街を彩り、あんなに多かった人はまばらで、もうここは旧都であって、東京ではないのだ。
旧都で生きていくということの意味が、ほんの少しだけわかったような気がして、晴姫の胸に影を落とした。
そんなことを考え込みながら歩いているうちに、ふと隣の気配が消えていることに気が付いた。
「祥雲?」
あたりを見渡しても、祥雲の姿はない。行き交う人々の隙間から探してみても、その見慣れた人影を見つけることはできなかった。
祥雲は、晴姫からそう遠くない位置にいる。が、晴姫からは目に入らない位置である。
晴姫との会話が途切れて歩く間、祥雲もまた、彼の思考とリンクするように旧都という街の存在について思考を巡らせていた。
自分が今足をつけて歩いているこの地は、祥雲の幼少時代の記憶を秘めた場所ではなく、地幻獣の現れたあの場所なのだと、祥雲にもようやく理解ができたような気がした。
そんなことをぼんやりと考えながら歩いていたからだろうか、祥雲の右の足が左の靴紐の端を踏んで、白いスニーカーの紐はいとも簡単に解けてしまった。
立ち止まってしゃがみ込み、なるべく急いで結びなおす手つきは不器用である。縦結び。
それでもすぐに晴姫に追いつこうと立ち上がった時、彼の左斜め後ろ四十五度あたりから、声がした。
「すみません」
女性の声だった。祥雲にかけられたものなのかすらも定かではなかったが、顔だけで振り返ってみる。
すると、目が合った。
四十代、にしては少し若いだろうか。女性の年齢を見分ける目が未熟な祥雲には、正確な年齢層もわからなかったが、綺麗な女性だった。
「あ、僕ですか?」
「ええ。ちょっと道に迷ってしまって……」
困ったときに声をかけやすい人相でもしているのだろうか。旧都に来る列車の中でも女性に声をかけられたことを思い出す。
「スカイツリーの方まで行きたいんですけど、端末の調子が悪くって。代わりに調べていただけませんか?」
このご時世、道を他人に聞くことも、聞かれることもほとんどないことだといえるだろう。人は一人一台以上の端末を所持しており、新都の方には数十メートル歩けば道順を端末へ転送してくれる便利な自動道案内スクリーンが設置してある。
祥雲も誰かに道案内をするのは初めての経験であったが、端末がなければ何もできないと言っても過言ではないこの時代、彼女のように不具合に見舞われれば他人に聞かざるをえないのも納得であった。
祥雲は女性の頼みを快諾すると、自分の端末で目的地までの道順を調べる。ものの数秒で結果は出る。
「よかったら転送しますよ」
当然の優しさである。簡単に端末上の情報をやり取りできる時代なのだから、祥雲でなくてもきっと同じ行動をとっていただろう。転送アイコンを押して、受信端末一覧を開こうとする。
しかし。
「いえ、大丈夫です!」
女性は焦ったようにそれを拒否した。
予想外の反応に祥雲の少し開いた口からは思わず、驚きの声が漏れる。女性の顔を見ると、彼女は否定した自身の勢いを少し恥じるかのように俯いていた。
「あの、もう覚えたので大丈夫です。どうもありがとう」
「あ、はい……お気をつけて……」
女性はそのまま会釈をすると、最後まで祥雲の顔を見ることなく立ち去った。落ち着いた雰囲気を纏っていただけあって、祥雲は思わず面食らってそのまま彼女の後姿を目で追いかける。
が、ぼんやりと驚きに浸る間もなく次の衝撃。
今度は精神的なものではなく。
「うわっ」
誰かの腕が思い切り祥雲を突き飛ばした。予想もしなかった身体的な衝撃に、祥雲の体はぐらりとバランスを崩す。後方にしりもちをつくのに備えて腕が反射的に後ろへ伸びた瞬間、今度は誰かの手がユニフォームの襟を掴んでその体を引っ張り上げた。そのまま少しだけ引きずられたかと思えば、路地裏の一角に投げ捨てるように体を放り投げられ、結局は地面に倒れこむ。
この数秒に何が起きたか全くわからないまま、祥雲は途中から固く瞑っていた目をうっすらと開く。
ぼやけた景色の中で、ふたつに結ばれた赤い髪が風に靡いていた。
「あっ!?」
その瞬間、記憶が鮮明によみがえる。旧都に来たその日、赤い髪の少女の甘言に乗せられて待機室を後にしたこと。そこで謎の部屋に閉じ込められ、地幻獣と遭遇した挙句、入団試験すら失格になったこと。
「なんで今まで忘れてたんだ……」
倒れこんだ祥雲を見下ろすこの赤毛の彼女こそが、すべての元凶であったというのに。祥雲は自身の記憶の曖昧さに失望すら感じていた。
「なぜまだ旧都にいるんですか? アルテミスの入団試験は失格になったでしょう」
赤毛の彼女は祥雲の様子など気に留めることもなく、しんと冷えた瞳に彼を映しながら尋ねる。どうやらその目的はこの問答のためらしいとすぐにわかるほど、余計なプロセスを挟まない冷たい意志がありありと見えていた。
「あなたこそなんであの時おれたちのこと邪魔したんですか!」
「質問しているのはこちらですが」
「あんたのせいで散々だったんですよ! 地幻獣には会うし試験は受けられないし、それでなんか中華料理屋さんに行くことになって入区許可も変な方法で取らなきゃだったし!」
「話を聞かない坊ちゃんですね」
赤毛の彼女がゆっくりと近づいて、未だ地面に倒れこんだ姿勢のままの祥雲の前髪を細い指で掴んだ。華奢な見た目とは裏腹な強い力に、痛みを感じる。
「瑞城祥雲、あなたはもうここにいる必要がないんですよ。さっさと旧都から出て行ってくれませんか」
口調だけが丁寧だ。
「なに言ってるんですか? おれはまだやらなきゃいけないことがあって」
「やらなきゃいけないこととはなんですか?」
「それは……」
また頭に靄がかかっている。今までよりも濃く、もう何もわからないほどの靄が脳を覆っている。自分が何のために旧都に来たのか、何かとても大事なことがあったはずだ。しかし何かが思い出せない。何も思い出せない。
赤毛の彼女が掴んでいた髪を乱暴に離す。じんじんと脈打つような痛みが頭皮に残っていても、頭ははっきりとしない。
「答えられもしないくせに使命感だけはご立派なんですね。忘れるくらいどうでもいいことならそのまま全部忘れて新都へ帰ってください」
彼女が光の無い眼で祥雲を見つめる。祥雲に向けられている明確な嫌悪と悪意が恐ろしかった。名前も知らない彼女がなぜそこまで自分のことを嫌い、こんな手間をかけて旧都からおいだそうとするのか、祥雲にはわかるはずもない。
「で、できません……」
彼女の舌打ちが聞こえたような気がした。彼女はもう一度しゃがみ込むと、今度は軽く祥雲の鼻先に触れる。指先が冷たい。
その瞬間、世界が変わった。
今いる場所、今いる時間、この世界、自分、誰か、現実、過去、未来。何もわからなくなる。
ここまでどうやって生きてきて、そしてこれからどうやって生きていくのか。今、どうして生きているのか。自分はだれで、目の前の人間は何なのか。なにもわからない。なにも。
まるで自分という歴史がすべて白紙化されたように、真っ白な海の上を航行する一隻の船になったように、前後も左右もわからないのだ。そもそも自分とは?
怖い。怖い。怖い。なにもかも失われた世界。視覚も、聴覚も、思考も、すべてが正常であるのに、すべてが理解できない。だからこそ、恐ろしい。
彼女がまた、鼻先に触れた。その指先の冷たさは、祥雲には初めての感覚だった。
戻ってくる。時間の感覚。この世のすべて。祥雲。瑞城祥雲。肉体という中身のない殻が、精神で満たされる。
今のは、一体。
「何もかもを忘れたくなければ、すぐにここを出てください。あなたがここにいる意味なんて、最初からなかったんですから」
目の前にあった彼女の存在感がふっと消える。彼女は立ち上がると、祥雲をまた冷めた瞳で見下ろした。
「あなたはこの街に不要な存在。あなたにとってこの街も不要です。わかりますよね? 坊ちゃん」
アルテミスの団服を着ていることに、そこで初めて気が付いた。膝上のプリーツスカートが翻り、彼女は祥雲が瞬きするよりも早く、人の間へと姿を消してしまった。
先ほどの恐怖の感覚に、まだ息が荒くなっている。
時間にして僅か数分間の出来事が、祥雲に夢と現実を不本意に往復させられたような気味の悪さを残していた。
誰かが見ている。
地幻獣の出現に備えた体制が完備されているこの街に、死角はない。
街角の些細な出会いも、軒下の小競り合いも、路地裏のやり取りも。どこかで誰かが、必ず見ている。
「なにあれ」
翠翠飯店という名の中華料理店。その地下一階。並んだモニターの中央のひとつに、大きく街の一角が映し出されている。そこに映るのは、鮮烈な赤毛と、脆弱な子羊。画面越しにそれを見るのは牙を隠した狼に、穏やかな死神だ。
「中野霧南か」
「中野……霧南……。僕、知らない人だよね」
「逆にどこで面識が生まれるんだ?」
「だよね」
ライトは少し安心したような、しかしどこか腑に落ちないような眼差しでまたモニターを見つめた。
その間に、右下のモニターには翔榎がアルテミスのサーバーにアクセスして手に入れた中野霧南の情報が隙間なく表示されている。
「アルテミス第三師団副師団長。ふだんは第三師団長カゲロウのサポートに徹する助手的存在か。アルテミス内では目立った人物じゃなさそうだが、仮にも副師団長が旧都に来たての学生に何の用があるんだ?」
「さあね。わざわざアルテミスの副師団長が出てくるような身の上が祥雲くんにあるとは思えないけど」
薄暗い部屋の中で、モニターの光がぼんやりとふたりの顔を照らしている。翔榎がハッキングしている防犯カメラは映像のみの記録で、音声は入ってこない。霧南と祥雲がどのようなやり取りをしているかまでは二人に伝わっていなかったが、祥雲のおびえた表情は鮮明にキャッチされていた。
霧南が祥雲を脅さなければならない理由は、翔榎にも見当がつかない。彼が今知っている限りの情報では、霧南に関するものも、祥雲に関するものも、とにかく少なかった。
「瑞城……」
しかし、ライトが言うように祥雲の身の上が何の曇りもないごく普通のものであるかと言われれば、それにも賛同できない勘があった。瑞城という名がどこか引っかかって聞こえるのだ。
瑞城祥雲は数日前に初めて会った少年であるし、翔榎の長い記憶を探っても瑞城という名は出てこない。
それでも翔榎はこの瑞城という名に何かを感じずにはいられないのだった。
ただ今は、情報が足りない。
ふと、アルテミスに登録されている中野霧南の情報のページを指でスクロールする。翔榎の知りたい項目は、当然記載があった。
〈五二三遺伝子能力に関する詳細〉
At型、Sタイプ。触れることで対象に関する情報を即座に知ることができる。対象範囲は人に限らず、モノ、あるいは地幻獣にも発動可能であるため、物理的な弱点、効果が増大する五原柱等情報を得ることで戦闘を有利に運ぶサポート能力に期待ができる。
翔榎の思案は深いところまで沈み始めていた。
ひとつの可能性が浮かぶ。考慮すべき事案は中野霧南ではなく瑞城祥雲の方にあるのではないか。彼の内側にはなにか重大な情報を隠されていて、それを中野霧南は読み取ったのではないか?
普通の少年、に見える祥雲がもし、信ずるに値しない思惑を抱いていたとしたら。
データの上だけでは計り知れないものは必ず存在する。ぼんやりとした波乱の予感が翔榎を覆った。
「えー、なにこれ? 集合写真?」
そんな翔榎の思考を破ったのは、机の片隅のフォトフレームに触れたライトだった。
彼の手に持たれている写真では翔榎、ライト、時雨、風雅の四人が翠翠飯店の円卓を囲んでいる。もはや小宇宙とも呼べる翔榎のカオスな卓上をほんの少し整理した際に顔を出したものだ。
「ああ。前に撮ったやつだな。お前と二人の写真もあるはずだぞ」
「ほんと? 見たいな」
ライトが嬉しそうな微笑みで写真を指でスワイプする。が、指が四人の上を滑るだけで写真は一向に変わらない。
「翔榎、これ壊れてるよ」
「ああ……それは紙の写真だからな」
「紙!?」
ライトが珍しく大きな声を出して驚く。
写真と言えばもう何十年も前からデジタルフォトフレームが主流で、紙にプリントされた写真も、ガラスに覆われた写真立ても、もはや絶滅したと言ってもよかった。
ライト自身も見るのは初めてである。なぜ翔榎がそんなレトロを通り越した古のアイテムを有しているのかは全くわからないが、しばらく正面から側面からじろじろと眺めていた。
「待ってろ、今後ろから取り出してやるから」
写真立てには紙の写真が数枚重なって入っているようで、翔榎はライトから写真立てを受け取ると、丁寧に後ろの留め具を外した。その少し骨ばった細い指で写真数枚を取り出す。
そして、見つけた。




