十一
晴姫の脳内に、ひとつの記憶が映し出された。
今朝、東京に到着してからというもの、能力のコントロールが上手くできていなかったこと。炎は水をかけられたようにひとりでに消えたり、彼が火玉を放とうとしても彼の指先にしがみつくように残っているか、もしくは狙っていた方向とはまるで違う方向へ飛んだりしていたこと。
教師に気にするなと励まされていた僅かな不調が、今ここで生死を分けるのか。
冷や汗が背中を不快に滑っていった。
それでも、最悪は終わらない。
ひとりでに動き始めた火柱は、ごうごうと音を立てながら緩慢な移動の動作を見せる地幻獣の方へ向かい、その注意を上手く惹いたのである。
おそらく視覚の宿っているであろう部分が、こちらに向く。
晴姫は咄嗟に左手に息を吹きかけたが、今度は長い爪のように炎が細長く上に立ち昇っていくばかりで、どう扱えばよいのか見当もつかない。
どうすれば。
考えなければ答えが出ないと言う事は理解しきっていても、脳が勝手に考えることをやめようとする。
脳が死を受け入れる。
蟹の脚は多い。こちらへ来るスピードも速いなあ。
そんなことを思った。
立ち尽くす四本の脚。それを食らいに来るのはその倍、八本の脚。
半透明の身体の向こう側に、黒い鴉が透けて見えた。一羽。二羽。三羽。
「……?」
違和感。多い。鴉はどんどん数を増して、真黒な塊となって蠢きながらこちらへやってくる。
そして。
「あっ」
と思わず声を出した時には、こちらへ向かう蟹にみるみる黒い鳥たちが群がって、その表面を覆ってしまった。
ぶつり。脚が千切れる音。黒い塊から放り投げられた一本の脚は、空中で水の粒となりコンクリートに染みをつくったかと思えば、暑さですぐに消えてゆく。
ばさばさと羽ばたきのぶつかり合う音と、茹で蟹に鋏をいれる時のような音が無限に続く。
少年たちは自分の瞳にうつるものに対して、まったく理解が及ばなかった。瞬きすら許されないまま、時間だけがただ過ぎてゆく。
やがて。
巨大な蟹は真黒な闇の中に啄まれ、跡形もなく水滴となって飛散した。地幻獣の死である。
死んだ。生き残った。生きている。まだ、生きている。
「祥雲……」
晴姫がゆっくりと祥雲へ目を向けると、彼も同じようにした。青い瞳が揺れている。
「メヴィウス!」
ふたりの静寂を破るように、穴の向こうから聞こえた鋭い声は、名前を呼んだらしい。蠢く真黒の群れは一瞬にして飛び去り、一羽の鴉だけがその声に反応して翼を広げた。
と、同時に壁の崩れた穴の向こうから、ひとりの人間が顔を出す。
風になびく明るい茶髪の一本が陽の光を受けて煌くのに対して、彼女の腕に止まった鴉はすべてを吸い込む暗黒であった。
からからと、瓦礫が落ちて地に当たる音と共に、ブーツが穴のこちら側に踏みこんでくる。
彼女はそこで顔をあげてようやく、
「……」
大きく口を開けて固まる二人の少年の存在を目にした。
「なんで人がいるんだ?」
それは祥雲と晴姫こそ最も知りたい疑問である。




