十
「は」
はるき。口の動きでそう言ったとわかった。しかし、晴姫の耳に届いたのは最初の一文字のみである。続きを掻き消したのは、
轟音。轟音。轟音。
なにかが破壊される音。それも、彼らの近くの何かが。
それから、衝撃と、強風。砂埃が煙幕のように視界を塞ぐ。
瞼の裏が一気に眩しくなって、身体の周りの温度が一気に上昇した。
「なんだ!?」
咄嗟に声を出すことができるのは、晴姫のみだ。けほけほと祥雲の咳き込む声で無事を知ると共に、視界が晴れてゆく。
「まさか……」
破壊された壁面の向こうに、夏の日差しが降り注いでいる。祥雲たちのいた部屋の床と、外のコンクリートにわたってひとつの大きな穴が開いていた。
地下から何者かが穴を開け、壁面を破壊しながら地上に現れた。
そんなものは、ひとつしかない。
息が荒くなる。完全に視界が晴れたその先に、絶望の深淵の向こう側。
外界との仕切りが消えた空間には、透き通った身体が表面に水の波紋のようなものを広げながら威嚇するように両の爪を振り回している。蟹。に似ているが。
「あ……、ち、地幻獣だ……」
晴姫は古琴のような声でゆっくりと時間をかけて言葉を発する。
生きている地幻獣に遭遇するのは、十年前にこの怪物が故郷を蹂躙して以来、祥雲のみならず晴姫も初めてのことであった。
体表で青蟹色が水面に反射する太陽光のように煌いている。
晴姫は懸命に培ってきた知識を思い出そうと努力するが、十年前の記憶が邪魔をする。
目の前で喰われる同級生、祥雲の赤く染まった靴の裏、それだけで地獄へ落ちることのできそうな不快な音、死のかおり。なにもできない。しかし目を逸らすこともできない恐怖。
「はっ、はっ、はっ」
自分の呼吸音が他人のもののように聞こえた。その声を聞きながら、晴姫は自身へ語りかける。どうすべきか。なにができるのか。実際に順序だてて考える冷静さはなかったが、晴姫はすぐにひとつの選択をした。
あの時と違う点はひとつ。戦えるようになったことだ。戦うんだ。
両足に力がこもる。
あの日、暖かな部屋を失った。親友とは会えなくなった。小さな少年を取り巻く環境は変わった。世の中が変わった。すべて、変わった。そして晴姫自身も、変わったのだ。
晴姫の五二三は火の五原柱に属するTk型、祥雲と同じく、皮膚を介して力を物質化するSタイプ能力である。ふう、と左手に息を吹きかけると、五本の指先には蝋燭のような炎が灯った。
一方の祥雲である。地幻獣を前にして、彼の身体は蝋人形のように固まっていた。身体中を熱い血液が巡る。死ぬ。そう思った。あの日と同じように。血の匂いがする。草の匂いがする。呼吸が乱れて、汗が垂れ落ちる感触だけが皮膚に残る。
「あ、うあ」
錯乱。幼い時よりもずっと研ぎ澄まされた感覚と、成長した脳が、かえって彼を混乱に陥れた。
死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。死ぬ。
あの日と同じように。
が、瑞城祥雲は生きている。
あの日と同じように。
あの時。鼻先に触れるまで死を目の前にしたあの時。
瑞城祥雲はどのように生き延びたのだろう?
祥雲の思考回路はもう恐怖の刃に切断されきっている。
ただ顔面に怯えだけを表して動けずにいる祥雲を横目に見て、晴姫の白い頬は五本の炎に照らされていた。
戦わないと。そう思う勇気と、こっちを見るなという臆病な自分が晴姫の体内で混じり合っている。
攻撃をして傷を負わせる。それは同時に彼の標的となることだ。その一歩がなかなか踏み出せずにいた、その時。
ごう、と顔全体に熱と風が当たった。何事かと思えば、彼の指先の灯がごうごうと音をたてて周囲の空気を巻きあげ始めている。
「なんだ、これ」
炎はみるみる勢いを増し、やがて掌全体を包みながら一本の火柱に進化する。
晴姫は今日この日に至るまでの訓練で、当然自身の能力を知り尽くしていた。晴姫は炎という戦闘に恵まれた能力をもちながら、しかしその限界はライターより少し大きい程度の威力に留まっていたのだ。それが悔しくて研鑽と努力を惜しまなかったが、今日までついに限界を突破することはなかった。
だが今は、アルテミスの団員として申し分ないほどの大きな力が、彼の左手に宿っている。
未知の力に対する僅かな恐怖と、危機を脱する鍵を見つけたような高揚感が彼を支配した。
これなら、いけるかも。
といった彼の期待は、一瞬で打ち壊される。
左手の火柱は晴姫が対象に向けてぶつけようとする前に、ひとりでに皮膚から離れて空中を闊歩し始める。晴姫の造り出したものであるから、晴姫の意思どおりに動くのが定石だが、その火柱は彼がいくら念じようと左手を振ろうと、その思惑に従うことなく空間を滑ってゆく。




