努力は虹になる。
三十歳になり何か新しいことを始めたくなりどういうわけかその時の気分でヴァイオリンを始める。しかしこれがかなり難しくなかなか上達しない。特に始めてまもない頃はまともに音さえ出せない。それでもヴァイオリンを弾くのは楽しく毎日せっせと練習し一年後に初めて発表会に出ることになる。初めての発表会で弾いた曲はスピッツの「空も飛べるはず」初心者向けに簡単にしたものを弾いたのだ。しかし緊張のあまり本番は玉砕。途中で間違えさらに弓も震えてしまうし聞くに耐えない最悪の演奏をしてしまう。一年間一生懸命練習してきたのに発表会は最悪の形で幕を閉じる。あぁ最悪だ。もう死にたい。
ヴァイオリンは数ある楽器の中でも習得するのが難しいと言われる。まともに音を出すためにはそれこそ十年近くかかってしまう。だから僕みたいに一年とかそこらで普通に演奏できるはずがないし失敗して当然なのだ。それは判るけど辛い。
最悪の発表会を終え僕はヴァイオリンをする気がなくなってしまう。月に三回あるレッスンも休みがちになりそろそろ辞めようかと思ったところに不思議な老人が現れる。その老人に会ったのは仕事帰りの駅のホームだ。僕は神奈川県川崎市の溝口というところに住んでいて溝の口駅のホームに着き改札に向かおうとした時後ろから声をかけられる。
「青年、ちょっといいかね?」
声の方を向く。全く知らない小柄な老人が立っている。茶色のコートに灰色のスラックス、黒の革靴という格好だ。サングラスをかけているから表情は判らないけど優しげな雰囲気を纏っている。
「なんですか?」
「君はヴァイオリンをしているね」
「してますけど…どうしてそれを?」
「ふふふ。先日の発表会で君の演奏を聞いたんだ。正直酷いものだったね。しかし素人の演奏なんてそんなものだ。さて前置きはこれくらいにして、私が聞きたいのはヴァイオリンが上手くなりたいかということだ。君はヴァイオリンが上手くなりたいかね?」
「僕には無理ですよ。実はそろそろ辞めようと思っていて」
「それはもったいないな。では、もしも突然ヴァイオリンの技術がプロ級になったらどうする?」
「そんな夢みたい話あるわけないじゃないですか」
「さてどうかな?これを君に渡そう」
老人はそう言うと着ていたブラウンのコートのポケットの中から何やら腕輪みたいなものを取り出した。それはやや半透明の変わった腕輪で手首に付けるのにちょうどいいサイズだ。
いきなり声をかけてきた老人が変な腕輪を取り出しそれを差し出してきたからかなり面食らう。この人は何者なんだろう?新手の霊感商法だろうか?無視して帰ってもよかったがヴァイオリンが上手くなるという言葉に少しだけ心惹かれる。確かに今の僕は酷い演奏しかできないけど仮にプロ級の演奏ができるようになったらそれこそヴァイオリンを弾く気持ちが再び湧き上がるかもしれない。
「これは?」と僕。すると老人は「ヴァイオリンが上手くなる腕輪だよ」「冗談でしょう」「冗談じゃない。これを付けている限りはヴァイオリンが巧みに弾けるようになる」「でも高いんでしょう?」「いや無料だ。お金は取らない」「もし仮にその腕輪が正しいのだとすると何かリスクとかあるんですか。例えば寿命が半分になるとか」「そんなものはない。ただヴァイオリンが上手くなる。それだけの腕輪だ。それ以外には使えない」「まぁリスクがなくて無料っていうのならもらってもいいですけど」「ふふふ。これさえあれば君はヴァイオリンが上手くなるし努力の重要性が判るだろう。ぜひ使いなさい」老人はやや強引に僕に腕輪を渡すとそのまま静かに人の波の中に消えて行く。残された僕はやや半透明の腕輪を見つめその後にそれを着ていたスーツのポケットにしまう。
自宅に戻り試しに腕輪を付けてヴァイオリンを弾いてみる。するとどうだろう。老人が言っていたように巧みにヴァイオリンを操れるようになったのだ。まるでヴァイオリンが生きているかのように軽やかな音色が響くようになる。嘘だろ?こんなことって…。奇跡を感じながら僕は自分が奏でた音色にうっとりとする。
それからヴァイオリンをするのがもっと楽しくなる。何しろ自在にヴァイオリンを操れるのだ。それまではレッスンで注意ばかりされていたのにたくさん褒められるようになる。弾きたい曲も難なく弾けるし難しい曲だって演奏できるから嬉しくて嬉しくて嬉しくて堪らない。僕は次の発表会でスピッツの「ロビンソン」を弾くことにする。長尺で上級者向けに難しくしたけど全く問題はない。どんな曲だってプロ級の演奏ができるのだ。当然発表会は大成功だった。スタンディングオベーションの嵐。こんなことが起こるのは素人の演奏では珍しい。嬉しさが込み上げ僕の気分は最高潮に高まっていく。
しかし僕のヴァイオリン人生は順調にはいかない。まず腕輪をするだけで超絶的に弾けるから練習しなくなる。練習しなくても腕輪を付けて楽譜を見てヴァイオリンを構えて弾けばあとは勝手にプロ級の演奏ができるのだ。それまで毎日せっせと練習していたのにそれをしなくなってしまいさらに一年以上続けたヴァイオリンのレッスンも辞めてしまう。これだけ上手いのだから講師に教えてもらう必要はないしレッスンはお金がかかるし時間も必要だ。どうせできるのだからやらなくてもいいだろう。
恐ろしいのはあれだけ楽しかったヴァイオリンが逆に全く楽しくなくなってしまったことだろう。練習しなくても弾ける。弾けて当たり前。これが続くと達成感というものがなくなる。腕輪を付ける前はなかなかいい音が出せなくて苦労していたけど少しずつできるようになると圧倒的な達成感があった。それが腕輪を付けるとなくなってしまうからいつしか僕はヴァイオリンから離れていくようになる。
僕は努力の重要性に気づく。ヴァイオリンの上手い下手はもちろん大切だしどうせ弾くなら上手くなりたいと思うのは人として当然の感情だろう。しかし努力しないでできるようになってしまうと人は努力をすることを忘れてしまう。できるからやらない。何でもかんでもできてしまうから物足りなくなるしつまらなくなる。できない時は少しずつできるようになるから楽しかったのにそれがなくなってしまう。つまり何かを習得するっていうのは大変だけど努力を重ねていくところに美しさや楽しさがあるのだ。そうやって人は少しずつ成長していく。できないから挑戦したくなるのにそれが奪われてしまったら新しい何かをやる意味はない。できなくても恥ではないのだ。できないことに挑戦し努力し少しずつレベルを上げていって目標を達成する。そこに意味がある。何もかも最初から上手くできてしまっては逆にダメになってしまう。
もう腕輪はいらない。
自分の力でもう一度ヴァイオリンを弾こう。努力してヴァイオリンが弾けるようになりたいという気持ちが沸々と湧き出して来る。そうだよ。始めた時もこんな気持ちだった。ワクワクして上手くなりたいという気持ちがあったのだ。少しずつ上手くなるから嬉しいのだしやる気に繋がるのだろう。例え発表会に失敗したとしても僕はコツコツ努力してヴァイオリンを弾き続けたい。
腕輪を付けるのを止めると当然だけど全く弾けなくなる。元の素人に毛が生えた程度のレベルに逆戻りだ。でもそれでいい。今は弾けないことが嬉しいし楽しい。これから上手くなるという伸び代があるから努力のしがいもある。
そんな中僕は腕輪をくれた老人に溝の口駅で邂逅する。彼はあの時と同じサングラスに茶色のコートに灰色のスラックスそれに黒の革靴という格好だ。僕は老人に会うなり「おじいさん僕を覚えていますか?」と言う。すると老人は「もちろんだとも。ヴァイオリンは上手くなったかね?」「悪いんですけど僕はあの腕輪を使うのは止めます。あれを使うと達成感がなくなって努力することを忘れてしまうから」老人はにっこりと笑い「それに気づいたんだね。よかった。じゃああの腕輪はもういらないね。あとは君の努力にかかっている。頑張って練習したまえ」「おじいさんもしかして僕に失敗したとしても努力してできるまでの過程を楽しめということを教えるためにわざわざあんな不思議な腕輪を?」「さぁてそれはどうかな。もう君は大丈夫。自分の力でヴァイオリンができるようになると楽しいぞ。頑張りなさい」老人はそう言うと僕の前から消えて行く。
家に帰ると腕輪が粉々に砕けていた。もしかするとあの不思議な老人はヴァイオリンの神様だったのかもしれない。さて初めからやり直しだ。僕は僕のやり方で努力し何年かかったとしても必ずヴァイオリンを習得してみせる。辛いことも多いと思うけどできないことができた時の達成感ほど素晴らしいものはないはずだから頑張ろう。達成感こそが新しい何かをやる時の原動力になりそして努力は虹になる。
〈了〉