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 午前11時、学校へつながるいつもの通学路を歩いていると、港にフェリーが停まっているのが見えた。


 塗装がところどころ剥がれて錆びついた船体に横付けされたタラップから乗客が吐き出されていくさまは、いつも、昔テレビで見た魚の産卵を思い出させる。次々と、大きな荷物を抱えたひとたちが桟橋に降り立つ。男性、女性、若いひと、若くないひと。いろんなひとがいる。平常時よりも数が多い。


 千人ちょっとしか住んでいない島だけれど、夏は一時的に人口が増える。なんといっても一年で一番の観光シーズンだ。海が綺麗で自然が多い、くらいしかアピールポイントのない島の観光資源は、海水浴、ダイビング、クルージング、あるいはキャンプなど、切なくなるくらい夏に全振りされている。


 家から学校までの徒歩十数分、港と、港からつらなる商店街を通るのが常だ。大きなボストンバッグを抱えた二人連れとすれちがった。このひとたちは何を目的に縹島へやってきたんだろうか、わからないけれど、少しでもターミナル内の土産物屋の売り上げが改善するならそれでいい。


 学校に到着すると、生徒玄関でローファーからサンダルに履き替え、その足でまっすぐにセミナーハウスに向かった。今も夏期講習期間なので、校舎本館の自習室に行けば、なーさんとじゅったんが大量の課題に苦しめられているすがたに出会えるだろう。ふたりを冷やかしに行きたい気持ちもあったけれど、私は私のペナルティを粛々と受け止めなければならない。


 平屋建てのセミナーハウスは、リノリウムの床が敷かれたいくつかの小さな部屋と、畳が敷かれたひとつの大きな和室から成っている。ぺたぺたとサンダルを鳴らしながら、最奥の部屋に入ると、先客がいた。担任の黒川先生だ。お母さんよりも少し若いくらいの女性で、いつも上品なフレアスカートを履いているけれど、今日はTシャツにジャージだ。そして私も学校指定のださいジャージである。


 六畳もないくらいの小さな区画の内部には、段ボール箱や折り畳み椅子などが雑多に押し込まれている。全体的に埃がかった、くすんだ色の空間の真ん中に、玩具みたいな色のプラスチック製のバケツが置かれている。数えきれないくらいに積まれている段ボール箱のひとつを開けていた先生が、扉の開く音に呼応して、顔をこちらに向けた。


「上木さん、遅刻」

「ごめんなさい。なにをやればいいですか」

「とりあえず、ここにある段ボールを全部、廊下に出したいんだけど」

「ええー、全部ですか?」


 げんなりした顔を作ると、「反省文も追加する?」と言われるので表情筋を引き締め直す。


「いえ結構です。頑張ります」


 それから私と先生は、しなくてもいいような雑談をしながら、部屋じゅうに積まれていた段ボール箱を運ぶ作業に精を出した。


 セミナーハウスが使われた最後の記憶は、1年生の秋の文化祭だ。生徒数の減少につれて文化祭の規模と回数は縮小されていき、縹高校最後の文化祭は、三年に一度のイベントになっていた。学園もののドラマや漫画でよくある、模擬店を出したり手のかかった劇を演じたり、は一切ない。各クラスや部活動がささやかな発表を行い、各々が作成した美術作品などを展示する。その際に、セミナーハウスの和室がお茶席として来校者向けに解放されていた。


 セミナーハウス自体が使われなくなる以前、ずっと昔から物置になっていたこの部屋の天井から雨漏りしていることが判明したのは、梅雨明けのあとに数日続いた長雨の頃。積まれた段ボール箱に残された、なにかの資料を探しに来た教師が気づいたらしい。その後は応急処置的に雨水が垂れ落ちる場所にバケツが置かれただけで、屋根の破れ目の修繕はされないのだという。


 そりゃあそうだ。使われない建物の手入れに回すほど、県の予算は潤沢ではない。養生テープとビニールシートで補強するくらいは、教室の誰かがするだろうけれど。


 そういうわけで、水濡れの被害を最小限に食い止めるために、この部屋に詰め込まれたものたちを運び出すことになったのである。


 大きさのちがう段ボール箱を両手で抱える。見た目通りに軽い箱、重い箱、大きさのわりに軽い箱、重い箱。腕力をすべて吸い取られてしまいそうな重くて大きなものは、先生と一緒に運んだ。よっこらせ、と先生が実年齢よりも老けた掛け声を出したので、ひとこと言いたくなったけど呑み込んだ。腕が付け根からちぎれそうなくらいの重さに、冗談を口走る余裕なんてなかった。


「力仕事なら男の先生がやればいいんじゃないですか」

「しょうがないじゃない、暇なの、私と上木さんだけなんだから」

「みんな忙しいんですね」


 室内と廊下を何十回と往復して、ひととおりの荷物を部屋から出し終えたときには、腕は筋繊維が残らずゴムに変わってしまったかのように力が入らなくなり、首筋を汗がだらだら流れていた。同じように滝汗をかいているであろう先生の化粧が崩れていないか心配になって、直視して良いものか若干悩みながら盗み見た顔面はほとんど作業開始前と変化はなくて、ひそかに胸を撫で下ろした。


 廊下に並んだたくさんのがらくた、そのひとつである段ボール箱を興味本位で開いてみる。音楽室の、使われず、捨てられずにただ置き去りにされた楽器たちが自然と思い起こされた。今となっては私が気まぐれに触れるだけの、美しい造詣をした、くすんだ金属のかたまり。


 持ち主のいない楽器とちがい、覗き込んだ箱の内側には明らかに誰かの私物、中には人の名前が印字されたものまである。黴の匂いのする郷土誌。十数年前の卒業アルバム。中身が多く残ったままの水彩絵の具セット。金色のメタリックテープで作られたチアダンス用のポンポン。


「あ、これ懐かしいー。上木さん、知ってる?」


 私の頭上で見ていたらしい先生が、はしゃいだ声で使い捨てのフィルムカメラを拾いあげる。


「知ってます。昔、家にあったので。使ったことはないですけど」

「そっか。使ったことないよね。小さい頃から全部スマホ?」

「スマホかデジカメですね」


 使い方は知ってる? と、私の手に置かれる、黒いプラスチック製の個体。触ってみると見た目以上に玩具みたいな感じがする。レンズを先生に向け、中央上部の小さなファインダーを覗き込むと、数百、あるいは数千分の一に縮小された先生の顔が笑った。


「先にフィルム巻かないと」

「巻くとは?」


 カメラの裏側に記載されている撮影手順を確認すると、四角いファインダーの隣に〈①巻き上げ〉という文字、そして細いダイヤルを見つけた。指示に従ってダイヤルを巻く。フラッシュを入れる。シャッターを押す。使い慣れているスマートフォンとちがって、ひとつひとつの動作に、明確にちがう指の感触があるから、やっぱり玩具みたいだと思う。玩具みたいな軽いシャッター音が鳴る。


「ちゃんと撮れてるかって現像しないとわかんないんですよね」

「うん」

「不便ですね」

「昔はなんでも不便だったのよ」


 シャッターボタンの横にある残り枚数のカウントは〈3〉で、27枚撮影可能なインスタントカメラのようだから、私が今撮った1枚分を除いて、過去に誰かが23枚の写真を撮っていたことになる。どんな景色がフィルムにおさめられているのか、気になった。


「この段ボール箱に入っているものって全部、どう処理するんですか?」

「捨てることになるだろうね」

「そうですよね……」


 当然だ、使わない建物に長い間取り残された、不要なものたちなのだから。あとは正しく分別して、廃棄されるだけ。そう考えたら、胸の奥が爪先で引っ掻かれるような、やわらかい痛みが生まれた。


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