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晴れた空を横切っていく飛行機を廊下の窓から眺めていると、そっと誰かが隣に立った。顔を向けなくとも正体はわかる。昼休み。
「あの飛行機、どこ行き? そういうのわかるアプリ入れてるんだろ」
「うん。大阪発の上海行きだって。ボーイング767」
ふたりとも飛行機が残していった雲を見上げている。
「デート?」
「そっちこそ」
「俺とあいつは、そんなんじゃねえから」
「ふうん」
「知ってんだろ」
「まあ」
「おまえは」
「私?」
「永純のこと、好きなの」
「どうしてそんなこと訊くの」
「別に。興味本位」
「どうして興味あるの」
きっと、本当は、訊くまでもなくわかっているはずだ。ちがうって、わかっている。わかっているくせに。あえて言葉にして訊くなーさんが、わからない。なんのために。知らない。
もしかしたら、ただ、苛立っていたのかもしれない。なにに。いろんなものに。自分を取り巻く環境に。境遇に。すべてのものに。あるいは自分自身に。
なにか言ってやりたくて、悪戯に意味のない質問をしてきた彼を、どうしようもなく傷つけてみたい衝動にかられて、口を開きながら隣をふり仰いだ。
同じタイミングで彼も私のほうを見る。言いかけた言葉は言葉にならず、吐息だけが空中に霧散していく。開けっ放しの窓から入り込む風は少し冷たい。
少年の手が髪に触れる。ひと束を指先に乗せて、鼻先を寄せる。口付ける。港の朝、じゅったんがやったみたいに。
でもあいにく、ヘアミストはつけていないから、奈織と同じ匂いはしない。花束を抱いているような、あの、奈織の香水の匂い。いい女の匂い。清純派アイドルの匂い。
今の私の髪には、ドラッグストアに売っている安っぽくて人工的なシャンプーの香りしか残っていない。あの匂いをつけてくればよかった、と、後悔しても意味はない。
あの可愛らしい小瓶は、部屋の宝物置き場に飾っている。きっと島にいるあいだは、あれをつけることは二度とない。この田舎町で、洗練された香りをまとっていて許される未成年は奈織だけだ。私が奈織と同じ匂いをさせていたら、あまりにも滑稽だから。
「……なーさんは、奈織に、好きって言わなくていいの?」
彼の手が粗雑に動く。解放された髪の毛が、ぱらぱらと降るように視界の隅を落ちていった。
「おまえに関係あんの」
それから、なーさんが口をきいてくれなくなった。
「ふたりが喧嘩したら俺困るからやめてって言った……」
互いに一切口をきかない冷戦状態に突入して一週間。あいだに挟まれたじゅったんだけが、突然の情勢変化にあたふたしている。
私の机に顔を突っ伏して泣きそうな声を漏らしているじゅったんは可愛い。頭を撫でると、されるがままになりながら変な呻き声を出すから、どんな反応だ、と思う。まっすぐな黒髪は一本一本が細くて柔らかくて、気持ちがいい。ちょっとだけ将来が心配になる髪質だ。いつまでも毛根が無事であることを勝手ながら祈っておく。
「言ったっけ、そんなこと」
「言ったわ。高校入学するときに、これから三人しかいねえんだから喧嘩はなしな、四人だったら二対二で分かれられるけど三人だとそうはいかないから、ふたりが喧嘩したら残ったひとりの立場がつらいだろ、って」
「ああ。そういえば」
「なんで喧嘩してんの」
「そもそも喧嘩はしてない、はず」
「じゃあなんで無視し合ってんの」
「あっちが無視するから、同じことしてるだけ」
「ガキかよ。ふたりして」
「ガキなのはなーさんだよ。高校生にもなって無視とか幼稚すぎ」
「どっちもどっちだわ」
「いつも冷めた顔してクールぶってるけど、肝心なところ子どもっぽいよね。なーさんは」
「それは言えてる。でも、あいつがブチ切れることなんか滅多にねえし。なにか、怒らせるようなこと言ったんじゃねえの、優雨が」
「……まあ」
傷つけるために放った言葉だ、反省も後悔もしていない。今の私たちを喧嘩中と表現するならば、先に喧嘩をふっかけてきたのはなーさんのほうである。ただ予想外だったのは、思った以上になーさんを刺激してしまったこと。
ポケットの中でスマホが震えて、メッセージ受信を伝える。確認すると奈織からで、放課後に喫茶店に行かないかという誘いだった。手早くオーケーの返事をしてスマホをしまう。
喫茶店に行くと、すでに奈織のすがたがあった。島に帰ってきたばかりの頃と比べると、ショートヘアが少し伸びて、色気が増した気がする。ざっくり編みのオーバーサイズのニットから、華奢な首筋と浮いた鎖骨、細い手首が出ている。透き通るような肌の透明感も相俟って、あまりにも繊細なつくりの身体が、心もとなく見える。
私に気づいた奈織は読んでいた文庫本を閉じた。図書館の管理バーコードが貼られた表紙。ジッドの『狭き門』。作者名とタイトルは聞いたことがあるけれど、内容は知らない。
「その本、面白い?」
「うん。面白いよ。でも難しくて、よくわからないところも多くて、それが残念」
「帰ってきてからもうかなり本読んでるんじゃない?」
「そうかも」
中学生のときの奈織が読書家だったイメージはないけれど。暇潰しなのか趣味の変化なのか、島での奈織はよく本を読んでいる。
コーヒーを注文したら、頼んでいないはずのケーキとセットで給仕されてきた。なにかの間違いでは、と店主のおじさんに尋ねると、サービスだと返ってくる。私には濃いピンク色のイチゴのムース。奈織にはシンプルなチョコレートケーキ。クリスマスシーズンの新メニューの試作品なのだという。
「もうすぐ12月だもんね」
私たちはおじさんにありがたくお礼を言って、スイーツにフォークを刺した。ムースの中にはとろりとしたソースが隠れていて、濃度のちがう甘酸っぱさが口の中で混ざり合う。美味しい。チョコレートケーキをひと切れ口に運んだ奈織も、美味しいと綻んだ。けれどすぐに、表情がこわばる。
「純ちゃんに聞いたんだけど。朝陽と、喧嘩してるんだって?」
「ああ……喧嘩っていうかね。ちょっと、私が怒らせちゃった」
「珍しいよね。優雨と朝陽が喧嘩するの。というか、同級生の中で喧嘩が起こること自体」
「たしかに」
同級生の人数が少ないから、仲違いして、じゃあ代わりに他の誰かと仲良くして、というわけにはいかない。今日喧嘩してしまったとしても、明日も明後日も、片手で収まる人数しかいない教室で顔を合わせなければならないのだ。新学期になってもクラス替えなんてない。島を出るときまでみんな一緒。
だから、みんな、お互いに居心地が良い関係性でいようと、気を配ってきたのかもしれない。あるいは、多少の諍いが起こったとしてもすぐに謝って終わりにしていた。そうしないと教室の雰囲気が最悪になるから。
「ごめんね」
奈織が俯き加減に呟く。
「どうしてなっちゃんが謝るの?」
「私が朝陽とふたりで出かけたことを、優雨、気にしちゃったのかなと思って」
「そんなこと、」
「プレゼントをね、買いに行ったの。長崎のデパートに」
「プレゼント?」
「うん。出産祝い」
「あ……そっか。いつ生まれるんだっけ」
「予定だと年内ぎりぎりかな。来週、帰ってくるんだ。里帰り出産ってやつ。すごいんだよ、お姉ちゃんのお腹、大きくて、ぱんぱんで。あそこに人間が入ってるなんて信じられないよ。一昨日、写真が送られてきたんだけど、見て」
奈織のスマホに映し出された写真には、ふたりの人物が写っている。
つい最近、見た記憶のあるふたりだ。すっかり大人になっているけれど、高校生の頃の面影はしっかり残している。なーさんによく似た男性と、奈織と同じくらい美人な女性。暁人さんと結菜さん。ぱんぱんに膨れたお腹を抱えて、カメラに向かってピースサインをする若い夫婦。もうすぐ生まれてくる新しい命。
結菜さんと奈織は、姉妹だ。この町で一番の美人姉妹と、幼い頃から評判だった。ひとりっ子の私は、昔は、美人なお姉さんをもつ奈織が羨ましかったことを覚えている。
「すごいよね。このお腹に別の命が入ってるなんて」
「うん。すごいね」
「私と朝陽、もうすぐおじさん、おばさんになっちゃうよ。笑っちゃうよね。まだ十八なのに」
「なっちゃんが『おばさん』は似合わなすぎる。一生呼ばせなくていいからね」
「ふふ」
ささやかな笑い声とともに、奈織の表情が弛緩していく。
「だからね、私と朝陽のは、デートじゃないから。ただの買い出し」
「買い出し」
「優雨と純ちゃんのほうこそ、デートしたんだよね?」
「デートというか、あれは……うん」
「あれは?」
「まあ、大きく分けると、デートだった」
きゃあ、とわざとらしい黄色い声を上げる奈織に、どんな顔をすればいいのかわからない。色恋とは無縁に生きてきた十八年間、唯一の同性の友人として、家族以外だと一番多く会話してきたであろう奈織相手だって、恋愛話をするのは慣れない。意図的に避けてきた節すらある。
逃避するみたいに、なーさんのことを考えた。
自分と奈織、それぞれと同じ遺伝子を半分ずつ持って生まれてくる新しい命を祝福するために選んだプレゼントのことを、考えた。




