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——そもそも、どうして悪いことをしたいの?
さらに訊こうとして、開きかけた口を噤んだ。
真面目に受験生をやっているのだ、ストレスが溜まることだってあるだろう。受験勉強だけじゃない。口数の少ない彼が、他人の知らない、他人には触れさせない心の内側で抱えている、いろいろなことが。きっと。
なぜかじゅったんがいなくなっていて、大きな部屋にふたりきりで、私は、流星群を見るために丘のうえに登った夜のことを思い出していた。
今度は、私から手を握ったら。なーさんはどうするだろう。拒まれないだろうか。触れてみたら、彼が打ち明けてくれないことを、少しは掬いとることができるだろうか。おそるおそる、手を伸ばした。
人差し指と人差し指が重なる、その瞬間。
「これとかどう? 兄貴の部屋で見つけたんだけど」
戻ってきた騒がしい声に、触れかけた指先は金縛りにあったかのように動けなくなる。不自然なかたちのまま静止する手。私は素知らぬ顔を取り繕いながら、目の前に腰を下ろすじゅったんの動作に視線を送る。外でからからと何かが風に転がる音がした。
「兄貴って、りっきー?」
「いや、宝」
宝くん、は花島家の三男で、現在は福岡の大学に通っている。末っ子のじゅったんを含め、男ばかりの四人兄弟だ。
これ、と差し出された手のひらの中にあるのは、プラスチックの白い長方形。上部がコの字型に抉れている。未開封のパッケージには〈安心ピアッサー〉、隅に小さく〈片耳用〉という文字がある。
「ピアス?」
「そう。そしてちょうど三つある」
「どうして三つも?」
「宝がやたらとピアス開けようとしてた可能性もあるけど、ネットで買うときに素で個数間違えた説を推す」
「だとしたら相当おっちょこちょいだな宝くん」
「あいつはそういうやつなんだよ」
一個あたり約千円としても、合計で三千円分。自室に残されているということは島にいたとき、つまり高校生の頃に買ったものだとして、高校生の少ない小遣いからすると、三千円分の余計な出費は相当な痛手にちがいない。
「ま、宝がアホだったおかげで“悪いこと”できるな」
三人だけの空間に、ピアッサーが三つ。小さな悪いこと。誰にも迷惑をかけない校則違反。確認するまでもなく、三人でこのピアッサーを使うのだ。私たちは互いの顔を見合わせた。
「本気でやるの?」
と私。
「ピアス開けるの、ちゃんと校則違反だよな。なんかわくわくする」
声を弾ませるじゅったんに、なーさんが半眼を向ける。
「明日先生にばれて、また反省文書かされんぞ」
「悪いことしたいって言ったのはなーさんだろ? で、やんないの?」
「やるけど」
ピアッサーを手に取り、躊躇いなく包装を破るなーさん。
「右? 左? 片耳だと何か意味とかなかったっけ?」
スマホで検索したら、片耳だけにピアスを開ける場合、左耳は男性らしさ、右耳は女性らしさを表すから、男性は左耳、女性は右耳にするのが一般的で、反対の耳だと同性愛者のアピールになるのだというようなことがいくつかのウェブサイトでつらつらと書かれていたけれど、「くだらない」となーさんが吐き捨てたので、それはそうだと思った。男性らしさ、女性らしさ。装飾品に託したそんなものに、何の意味があるというのか。
「じゃあさ、全員同じところにでよくない? 最初に開けたやつに倣うってことで」
じゅったんの言葉に首肯する。ピアスで耳を飾りたいのではなく、今ここでピアス穴を開けたいだけなのだから、右だって左だって、どこだってかまわない。
「でも、自分でやるの、ちょっと怖いな。この凹んだとこで耳を挟むんだよね?」
「優雨は俺がやったる」
「じゅったんにされるのは自分でやるよりさらに怖い」
「俺に対する信用なさすぎな。俺がなーさん、なーさんが優雨、優雨が俺。これでどう?」
じゅったんを起点にして、座っている位置を時計回りに矢印でつなぐ順番だ。
「てことでトップバッターは、俺がなーさん」
「俺もおまえのこと信用してないんだけど」
「大丈夫愛してるから」
「言葉通じてねえのかよ」
ちょっといやそうな顔をしながらも、大人しく従うなーさん。パッケージ裏の説明書きのとおりに、ピアッシングする位置を定め、消毒し、ピアッサーを針が耳朶に対し垂直になるように持つ、じゅったんの動作と表情は意外にも真剣だ。
「ここでいい?」
「任せる」
コの字の一画目、耳朶を挟んで後ろの部分にかけた親指を押す。ぱちん、とホチキスみたいな軽い音が鳴る。
「できた?」
「できたっぽい」
ゆっくりとピアッサーをはずす。左耳、耳朶の一番厚いところに、小さなシルバーのボールが光っている。みるみるうちに周囲が赤く腫れていく。
「うわあ、すごい、ちゃんとできてる、じゅったん上手」
「だろ?」
得意顔するじゅったんの横で、自分では見えない位置に開いたピアス穴を、見たくても見れないなーさんが微妙な顔をしている。
「どうなってる? 優雨」
「ばっちりだよ。でも赤くなってる。痛い?」
「刺す瞬間はちょっと。でも今は痛いっていうより、熱い」
「そっか」
数分前に触れられなかった指先で、いたわるように、なんてことないみたいに、触れた。赤い、熱い、耳朶の温度。夜空に浮かぶ一等星を思わせる、発光するシルバー。
「ほんとうだ。熱いね」
次はなーさんが私にピアッシングする番だ。同じとこでいいの、と訊かれ、同じとこがいい、と答えた。
耳がしっかり露わになるよう横髪を耳の後ろにかける。それでも垂れてきた髪を、なーさんが掬ってかけ直す。そのまま彼の指先は、ピアスを穿つ位置を探して、耳朶に戯れる。
他人に触られることに慣れていない場所だから、動くたびにぞくっとして、心臓が大袈裟に収縮して、そんな自分が恥ずかしくて情けなくなる。
実際にはごく短い時間だったはずなのに、気が遠くなるほど長く感じた。自分のものでない手の動き、耳に触れるプラスチックの無機質な冷たさ。針が表皮を破り、肉を貫通する、一瞬の鋭い痛み。
「終わった。どんな感じ?」
「い、いい感じ? です……」
左耳全体が脈打つようにじんじんと痺れる。自分の意思で傷をつけてしまった身体が発する抗議の声みたいだ。穴の開いた場所を指先でたしかめる。
なーさんの耳に光るそれと同じ、シルバーのつるりとした丸い感触。私の一等星。
最後は私とじゅったんだ。ふたりがピアッサーを使うすがたを思い出しながら、ふたり同様、自分の手で、幼馴染の左耳に星を灯す。
夜のうちに台風は過ぎ去り、翌日は、前夜の嵐が想像もつかないほどの晴天になった。道に折れた木の枝葉や、どこからか飛ばされてきたごみがところどころ張り付いているだけで、被害はほとんどなかったようだ。低気圧の渦があたり一面の雲をすべて取り払っていったのか、ペンキで塗ったような雲ひとつない青空に、今日も飛行機が線を描いていく。
三人お揃いのファーストピアスは案の定、朝のホームルームで担任の黒川先生にあっさり見つかり、校則違反で取り上げられてしまった。台風の夜に集まってピアス穴を開けるなんて信じられない、と先生は信じられないくらい怒っていた。せっかく開けたピアスホールは早々に塞がってしまいそうだ。
保健室で養護教諭の百合岡先生が、ファーストピアスを失ってただの傷穴になってしまったそこが化膿しないように、丁寧に手当をしてくれた。
「きみたちは悪い子だなあ」
怒るでも叱るでもなく、ただ笑っている。教師としてはよろしくないのかもしれないけれど、そういう百合岡先生が私は好きだった。
「穴開けちゃった事実は変えられないんだから、安定するまで取り上げるのは待ってあげればいいのにね。黒川先生は厳しいな」
「仕方ないですよ。ばっちり校則違反ですもん。ピアス穴ってどのくらいで安定するんですか?」
「長いと半年くらいかかるんだっけ。個人差があるから一概には言えないけど、一か月くらいでファーストピアスは外せるんじゃない?」
「一日で外しちゃいましたけど」
「ピアス側も予想外だっただろうね。あまりにも早く外されて」
「あのピアスには申し訳ないことをしました」
今は黒川先生のデスクの引き出しにしまわれたであろうシルバーに思いを馳せる。返してくれるのは卒業間際になるだろう。二度と出番はないかもしれないけれど、返してもらえる日がきたら、忘れずにちゃんと迎えに行こうと心に決めた。




