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 海水浴場に向かう細道が広い県道に合流し、風景が少し変化する。海沿いには変わりないけれど、コンクリートで塗り固められた埠頭が見えてきた。小さな漁船から伸びるロープが結ばれたボラードがコンクリート製の辺に一定の間隔で並んでいて、どれも等しく錆びついている。


 ふいに、湾曲した岸沿いの波止場の腹から斜めにくっついた防波堤に向かって、じゅったんが走り出した。


「どうしたのー?」

「いま向こうで何か跳ねた!」

「え、イルカ?」

「かも!」

「イルカってもっと沖の方じゃないと見られないんじゃない?」

「迷い込んできたのかも」


 じゅったんの後ろ姿を追って走る。早くてついていけない。さすが陸上部である。白い背中はどんどん離れ、すぐに、長く伸びた防波堤の先端に辿り着いた。何かが跳ねる水飛沫を探して海を見渡している。遅れてじゅったんに追いつくと、タイミングよく振り向いた。


「ほら、あれ!」


 じゅったんが指差す方向で、たしかに、海面が遊ぶように揺れた。


「あっ、ほんとだ! イルカかな、飛ばないかな」

「イルカショーみたいに?」

「ラッセンみたいに」


 もっとよく見えないものかと、ふたりともしゃがんでコンクリートの角に手をつけながら、眼下に広がる海へと身をぎりぎりまで身を乗り出す。海の色は浜辺とちがって、暗い青緑色に澱んでいる。コンクリートの側面に牡蠣殻がへばりついている。水面を小さな魚が泳ぐ影。


「じゅったん、いた?」

「なんも見えねー」


 それからしばらく四つの目を凝らして海の違和感を探していたものの、結局なにも発見できなかった。溜息を吐きつつ、立ち上がる、その拍子に、コンクリートの凹みに足先をとられ、身体がよろめいた。


「優雨っ!」


 じゅったんが叫んで私の腕を掴む。けれど支えきれず、私たちは海へ落ちた。


 私とじゅったんの身体は三メートル下の海面に叩きつけられた。落下の勢いのまま、水を吸った服がそのまま沈みこんでいこうとするから、両手両足をばたつかせることでなんとか抵抗する。深さはどのくらいあるかわからないけれど、足は到底届かない。鼻と口から海水が入って、鼻の奥が痛い。でもそれどころじゃない。


 じゅったんが私を抱きかかえる。溺れそうな私とは対照的に、じゅったんは冷静だった。まわりを素早く見渡して、幸いすぐ近くに階段を見つけ、私の背中に片手をまわしたまま反対の手を段差に伸ばす。細腕が潮に浸食されたコンクリートのステップを力強く引き寄せる。


「うああ……死ぬかと思った……」

「……ごめんじゅったん、ありがとう」


 階段を上がり、再び防波堤の先端に、ふたり。けれど数分前とはちがって私たちは救いようのないほどびしょ濡れだ。


「制服と鞄、重過ぎ……凶器だろこれ……」


 じゅったんは通学用のバックパックを背負ったままで、よく自分だけでなく、私まで助けられたものだと感心する。海が凪いでいてよかった。波が荒立っていたらふたりともすぐに潮流に流されていたかもしれない。そう考えて、全身が震えた。


「寒い?」


 私の震えにじゅったんが気づき、顔を覗き込まれる。


「ううん。下手したら死んでたと思って」

「はは。優雨だけだと確実に溺れてたな」


 指先が、濡れた横髪が張り付いたままの私の頬を撫でた。


「うん。命の恩人だね」


 そう言ったら、戯けた微笑みが返ってくる。彼の後ろで、空の色がピンクとオレンジのグラデーションを描いている。夕暮れ。黒髪からたっぷりと滴る雫が、喉仏を通って、ワイシャツの胸もとに流れ落ちる。


 濡れて、淡く美しい色に染められた幼馴染は、なんだかいつもとちがって見える。


 じゅったんの家がすぐ近くだからと、私は自宅にまっすぐ帰らず、お邪魔させてもらうことになった。


 土地が有り余っている田舎なので、住宅街に並んでいるのはほとんどが庭つきの一軒家で、その中でも島一番の、ひときわ大きな庭と邸宅を持つのが花島家である。縹島は二十年ほど前、平成の市町村合併で近隣いくつかの島とひっくるめて市となったが、それ以前は一個の町だった。そして、代々町長を務めてきたのが花島家らしい。


 最後の町長であるじゅったんのお祖父さんが、帰宅した私たちを出迎えた。今は杖をついているけれど、小さな町とはいえ首長を長年務めあげた経験者らしく、ぴんと伸びた背筋に、どこか上品な立ち居振る舞いのひとだ。


 頭から足先、鞄まで全身海水に濡れた孫のすがたを見て、「また海に落ちたのか」と鷹揚に笑っている。


「また?」


 幼い頃、年の離れた兄に海に突き落とされ泣きながら帰ってきたのだというエピソードを披露する祖父から逃げるように、私の手を引き浴室へ直行する。


 脱衣所に到着し手をぱっと離したら、そのままの動きでワイシャツのボタンをはずそうとする、あまりに躊躇いのない動作にぎょっとした。


「待って、私いるのにいきなり脱ぐ?」

「え、だめ?」


 あっという間にワイシャツを脱ぎ捨て、上半身裸になったじゅったんが私を見下ろす。学校では私がいる教室内でも平然と着替えるじゅったん(なーさんも)だから、気にしないのだろうけれど、至近距離で脱がれるのはちょっと、だいぶ、目の遣り場に困る。運動部らしい、細く締まった腰に自然と視線が吸い寄せられ、ひそかにまごつく私のことなどお構いなしだ。


「あ、てか先にシャワー浴びる?」

「いいよ、じゅったん先で」

「女子のほうが髪乾かしたり、いろいろ時間かかるだろ。それにあんまり帰り遅くなると、優雨のおかあさん心配するだろうし」


 それはもっともだと思って、ありがたく提案を受け入れた。ひとりきりの脱衣所で、海水をたっぷり含んで磯くさいTシャツを脱ぎながら、「女子」と言われたことを反芻する。


 性別の差異で括られることが普段、ほとんどないから、少し驚いた。私たちはずっと、「優雨」は「優雨」で、「じゅったん」は「じゅったん」でしか、なかったのだ。なかったはずだ。


 熱いシャワーで身体を冷えた温めているあいだに、じゅったんは私の家に連絡して帰宅が遅れる旨を伝え、着替えを用意してくれていた。


 ちゃらんぽらんなようでいて、いざという時には頼りになるし気が利くなあ、同級生の女子がたくさんいたら意外とモテるタイプだっただろうなあ、と、親戚のおばさんみたいな立場で感心してしまう。貴重な高校時代を、色恋やときめきなんて皆無な、異性がひとりきりの環境で過ごしていることに今さらながら同情を禁じ得ない。


 私と入れ替わりに浴室に入ったじゅったんが、カラスよりも雑な水浴びを終えて居間へとやってくる。私は元町長のお祖父さんから麦茶をいただいていたところだった。


「ごめんなー、うち、女物のパンツ、オカンが履いてるくたびれたやつしかなくて。男物だけど新品だから安心して」


 開口一番、なにを言うかと思えばパンツ事情だった。腰の部分にブランドのロゴが入った黒のボクサーパンツを私は履いている。


「服は今洗濯してるから」

「ありがとう助かる」


 じゅったんは居間を横切り、縁側へと進んでいく。そこには、彼が愛用している通学用のバックパックに入っていたのであろう、英単語や古文の単語帳、問題集、ペンケースなどが日干しにされていた。


「うわあ。壊滅してるね」

「これで勉強するの無理すぎ。もういっそ全部捨てちまおうかな」

「こうならなくても勉強してないじゃん」

「優雨ちゃん何か言ったー?」

「いえ何も」


 じとりと睨まれ目を逸らした、そのときちょうど門扉が開き、敷地内に入ってくる男性のすがたが見えた。じゅったんの、一番上のお兄さんだ。


「あれ、優雨ちゃん?」

「お邪魔してます」

「どうぞごゆっくり」


 手を振って爽やかに去っていくお兄さんは、紳士然とした祖父の雰囲気をしっかり受け継いでいる好青年に見えるけれど、幼いじゅったんを海に落として泣かせた張本人である。


 私たちの通う高校を卒業し、大学を出たあとに島に戻り、今は観光協会で働いている。この島の数少ない二十代だ。


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