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飛行機雲が空に線を描いている。
頭上遥か遠い場所、純度の高い青色のなかを、フリーハンドで引いたチョークみたいな白線が横切る。青空を細く裂いて進む機体を目で追うけれど、すぐに見えなくなってしまう。残された飛行機雲も末尾から輪郭を青に溶かされ、しだいに曖昧になって、どこかへ消えてしまう。
飛行機雲がすぐに消えるのは空気が乾燥しているという証拠で、空気が乾燥していると雨雲ができないということだから、つまりは今日はずっと晴れで、明日も晴れだ。朝にテレビで見た天気予報でも一週間ずっと晴れマークが隙間なく並んでいたから、きっとまちがいないだろう。
完全に飛行機雲が消えてしまう前に、スマホで写真を撮った。
そのついでに、画面の端に置いたアプリをタップする。空を飛び交う飛行機たちの航路をリアルタイムで表示しているアプリ。
地図上で現在地にピンを合わせると、大きさの異なるいくつかの飛行機が画面のなかを少しずつ動いているのがわかった。台北からの福岡行き、ボーイング777。成田からの深圳行き、ボーイング787。長崎から、行き先のわからない小型飛行機、シーラス。
さっき私の頭上を通ったのは、成田空港から上海行きの便のようだった。小さな飛行機マークはすでに広い東シナ海のうえを飛んでいた。あと数時間すれば無事に上海に着く。海のうえ、空のなかをまっすぐに進む飛行機を思い浮かべた。
空が青いのと、海が青いのはどうしてだろうと、幼い頃はずっと疑問に思っていた。それぞれの青色は明確に異なっていて、水平線は交わらない。
小学生のとき担任の先生に尋ねたら、理科に詳しくない先生はその場で答えられないことを大袈裟に詫びて、後日しっかり調べてきて教えてくれた。光の散乱がどうとかということを。とても律儀で良い先生だと子供心にも思ったけれど、物分かりの悪い私は先生の教え甲斐もなく、その原理を理解することはできなかった。
とりあえず、空が青く見える理由と海が青く見える理由はどちらも光の散乱にあるけれど、それぞれの起こり方はちがう。高校生になった今だったらもう少し理解できるのかもしれない。でも高校の先生に質問したことはない。
6月のカレンダーがびりりと破られ、7月がやってくると同時に梅雨明けが発表された。平年よりも二週間ほども早く、私たちの最後の夏はやってきた。
昼休みのあとの5時間目の授業は私だけ自習で暇だったので、こっそり学校を抜け出した。高校から徒歩十分のところにある港のベンチに寝転がっている。屋根はないけれど、すぐ傍に建つターミナルの影になっていて直射日光を浴びないこの場所は、猛暑日でも風が吹くと涼しく感じる。波が埠頭のコンクリートに打ちつける音と、蝉の音だけが耳に届く。眩しいほどの青い空。飛行機雲。
強烈な太陽光が町じゅうの建物や道路脇の植物を照らし、くっきりした影を作りだしているから、夏は世界が鮮やかだ。風が心地よくて、目を閉じればすぐに眠ってしまえそうなのに、まぶたが落ちきる寸前に視界を人影が覆った。
「おい。校則違反」
「いいじゃん。授業ないの私だけなんだし。それに校則違反を言うなら、なーさんもでは?」
はて、学校から許可なく出てはいけない、なんてきまりがあっただろうかと首をかしげる。でもきっと、なーさんが校則違反と言うのならあるのだろう、そんな校則が。大抵の場面において、私は私自身よりもなーさんの記憶や知識のほうに信頼を置いている。残念ながら私の頭は今も昔もぽんこつである。
風で少し捲れたスカートのひだを直しながら上身を起こしてスペースに作ると、そこになーさんは腰を下ろす。私と自分の身体のあいだに、手にしていた500mlのコーラを置いた。
「飲んでいい?」
「だめ。俺の」
けれど私がペットボトルの蓋を開けて(カチッと音がしたので未開封だったようだ)ひと口飲んでも、何も反応しない。素晴らしく冷えた炭酸がしゅわしゅわと弾け、舌を幸福に痺れさせる。
「買った本人より先に飲むとかおかしいと思わねえの?」
「他人が買ったコーラって自分で買ったコーラより美味しく感じるの、ふしぎだよね」
知るか。という低い声が聞こえた気がするけれど、実際は無言でペットボトルに口をつけるだけだ。ほとんど舐めただけのような私とちがって、ごくごくと良い飲みっぷりだ。少し日に焼けた喉仏が上下する。かなり喉が渇いていたのかもしれない。
「なーさん、6時間目は?」
「さぼった」
「ええー、さぼりかよ」
「うるせえ」
「なーさんがいなかったら授業にならないじゃん。先生かわいそう。じゅったんもかわいそう」
「……それより、ここ暑くないか。よくこんなところに居られるな」
眉間に皺を寄せ、話題を急転換させながら、コーラをまたひと口飲む。
「そうかな? 風吹くと気持ち良くない?」
「暑いわ。熱中症になる」
なーさんの、ペットボトルを持たないほうの手が、唐突に私の手首を掴んだ。思わず悲鳴に似た上擦った声が飛び出した。
「悲鳴あげんでも」
「だって、いきなりだったし」
へらりと笑ってごまかす。立ち上がる彼に引き摺られるようにして、ベンチから腰を上げた。
行き先は徒歩数十歩の、ターミナルの建物内。入口の重い硝子扉を押し開けた瞬間、冷やされすぎた空気が全身をそわりと包んだ。この季節になるといつもそう、冷房を効かせすぎなのだ。まるで節電だとか地球温暖化だとかいった話題は、この島と切り離された別世界のことであるみたいに。
平べったいターミナルの内側は、中央にいくつかの青いベンチが整然と並び、その両端に券売所、土産物屋、観光案内所などが設置されている。カラフルなエコバッグを横に置いてベンチで涼んでいる、買い物帰りのおばあさん、新聞を読んでいるおじいさん、券売所のおばさんと立ち話しているつなぎ服姿のおじさん、それに土産物屋のおばさん。平日、昼中のターミナルは閑散としている。
土産物屋のおばさんは店の外に大漁旗みたいな派手な幟を飾っているところで、思わず目が向けたらばちんと視線がかち合ってしまった。
「あらー? ふたりとも学校は?」
「今日は、午後は授業ないんです」
にこやかに尋ねられたのでにこやかに答えるものの、すぐ嘘だと見抜かれてしまう。
「さぼっちゃだめよう、もう三年生でしょう?」
「うちのお母さんには内緒にしてください」
「はいはい。あ、ちょっと待ってて」
そう言って店内へと引っ込んだおばさんは、すぐに戻ってくる。両手には半透明の包装フィルムに包まれたアイスが握られていた。
底がコップのように平らになった小麦色のコーン、その上に青色のソフトクリームが絞られ、コーンと同じ色合いの帽子みたいなカバーを被っている。この土産物屋のオリジナル商品であり、貴重な地元の味、青花アイスだ。この港の名前・青花港から名付けられている。
「これどうぞ。売れ残りなんだけど、賞味期限が近いから、あとで私がこっそり食べちゃおうと思っていたのよ。でも二個もひとりで食べるとおばさん太っちゃうから。ふたりで仲良く食べてね」
私となーさんはめいめいに、ありがたく青花アイスを受け取った。ふたりして行儀よくお礼を言って、青いベンチに並んで腰掛ける。
ソフトクリームの帽子ごと齧りつくと、ぱりっとした香ばしい帽子部分と、その下の青いソフトクリームのなめらかな冷たさ、口当たりのちがいが美味しい。ちなみに味は普通にバニラ味である。地元要素は名前と色だけだ。本来白いはずのソフトクリームを、着色料が絵の具みたいにくっきりとした青に染めている。美味しいけれど食欲をなくす色合いだとつねづね思っている。だから売れ残ってしまうのだ、おそらく。
「なーさんなーさん」
ちょいちょい、とワイシャツの袖を摘む。こちらを向いた顔に、んべ、と舌先を出して見せた。
「青い?」
「青い」
「なーさんも?」
「見せない」
なにが面白いんだか、という顔をしている。個人的に、これは青花アイスを食べた後に行う地元民あるあるな行動なのだけれど。ツユクサの花びらを潰した指先が青く染まるように、舌を青く染めてこその青花アイスだ。
つれないなーさんは無言でアイスを食べ続けるので、しかたなく私も黙食することになる。しばらく無言のまま、気づいたらアイスを食べているのは私だけになって、綺麗に食べ終えた隣人はスマホを触っていた。ちらっと画面を覗いたら、英単語のアプリが開かれている。
「覗くなよ」
「まじめだねえ」
「6時間目、英語だったから。学校戻ったらそっこーで単語テストされるはず」
「あー。ありうるねえ」
校則違反をして、授業はさぼっているくせに、英単語の勉強にはげむとは。なーさんは私とちがって根がまじめで、本来は優等生だ。昔から。
小学校でも中学校でも、テストでひとりだけ満点でした、と先生が誇らしげに声を張り上げるとき、そのひとりというのは必ずなーさんだったし、提出課題のノートの出来映えが一番良かったと、お手本として紹介されるのもなーさん。
もっとも、私たちの学年は幼稚園の頃から人数が少なすぎて、あまりに小さい分母のなかでの比較でしかないので、世間的になーさんがどれだけまじめで優秀であるのかはわからない。でも、このまえ覗き見した記述模試の全国順位はけっこう良かった。
片割れがスマホアプリと戯れはじめると私はあまりにも暇なので、単語テストしてあげようか、と提案すると、若干煩わしそうな顔をされたけれど、結局はスマホを渡してくる。
小さな画面の上部には「共通テストまであと196日」と表示されていた。いよいよ200日を切ってしまったか、と謎に焦る気持ちが喉もとを迫り上がってきた。私は共通テストを受けることはなさそうなのに。そもそも大学進学希望ではないのだから。
画面には英単語と、日本語の意味の四択問題が表示されている。英単語を読みあげる。なーさんが日本語の意味を答え、私が選択肢をタップする。
単語帳からランダムに出題されているためか、私でもわかるような簡単な単語もあれば、はじめて見た単語もある。知らない単語は当てずっぽうで読んでみる。大体合っているのか、それともなーさんの推測力が高いのか、読み方のまちがいを指摘されることはない。けれど「発音ひでえな」と、途中、鼻で笑われた。次々にあらわれる問題がひと段落つくと、すぐに正誤一覧に切り替わる。ほぼ全問正解だった。二十問のテストのうち一問だけ×印がつけられている。確認したら私のタップミスだったと判明したから、「もう優雨には任せない」とスマホを取り上げられてしまった。
ひとりで集中モードに入ってしまったなーさんに言葉は通じないので、私は土産物屋のおばさんのもとに行った。他愛ないおしゃべりをしながら、少し店の品出しを手伝ったらものすごく感謝されて、売れ残りのお菓子と(「内緒よ」)、売れ残りのかまぼこ詰め合わせ(「お母さんに渡してね」)をもらった。私のお母さんと土産物屋のおばさんは高校の先輩後輩という間柄で、いまでも仲が良い。素直にお母さんに渡したら、授業をさぼって港に来たことがばれてしまうではないか。
しばらくして青いベンチに戻ると、なーさんは座った姿勢のまま眠っていた。寝顔を覗きこむ。長めの前髪が目にかかっている。
触れようと手を伸ばして、なんにも触れずに指先が空中をさまよう。逆の立場だったら彼は簡単に、私の髪に触れるのだろうけれど。触れるだろう。何の他意もなく。躊躇いなく。
そう思ったら、さっき握られた手首が、今さら、じりっと焦げつくように熱くなった。




