マッサージ
続きます。
「あっ、いい。そこっ……んっ」
なまめかしい声が響く。シャルの声――ではない。顔を伏せているのか、くぐもった声は扉一枚隔てているにしてもはっきりせず、けれど聞きなれたそれではなかった。
女性の声であり、自分にとってなじみがない――答えに行き着いたローザは、ノッカーに手をかけたまま、何をしているのかと嘆息する。
真っ白な息をいっぱいに吐き出してから、ええいままよとばかりに、勢いよく扉を開け放つ。
「朝から何を……ん?」
教育に悪いからやめなさい――そんな説教文句は、けれど当のドルイド本人が飛び跳ねる姿を目にしたことで尻すぼみになる。
ローザの視界に映ったのは、何やらソファの上で跳ねていたらしいドルイドと、見守るシャルとアリスの二人。サラの姿は見当たらず、おそらくは玄関口からはソファの背もたれになって見えないのだと判断。
「……で、何をしているの?」
ようやく気持ちを切り替えて尋ねるローザに、シャルは端的に告げる。
「マッサージです。ローザもしますか?」
「してほしいわね。……あ、私がするのは別にいいわよ」
ローザから家に訪ねてくる珍しさに首をひねるシャルをよそに、ずかずかと踏み入ってシャルの隣に座るローザ。アリスからの険しい視線などものともせず、どっかりと座って深くもたれる。
そうすれば視界にはドルイドと、踏まれるサラの姿が映る。しばらくローザのことをじっと観察していたドルイドは、やがてローザが自分に何もしてこないと判断し、再びサラの上でぴょこぴょこと跳ねはじめ、顔をクッションに伏せたサラの口からくぐもった声が漏れる。
「私に、やってくれていいのよ?」
「…………」
「いつも面倒ごとを押し付けているんだから、たまには私の疲労回復に貢献してくれてもいいと思うのだけれど?」
ますます冷たくなるアリスの視線を物ともせずに繰り返すローザ。シャルは嘆息しつつ立ち上がり、ローザの肩に両手を置く。
「いいわね……」
「私もそこそこサラのマッサージをしてきましたからね」
「いーなーいーなー」と繰り返すサラ。ヒスイとの訓練の時間が迫っているドルイドは最後の一押しとばかりにサラの上で足踏みを繰り返す。
サラが羨ましがっているシャルのマッサージを受けているローザはと言えば、あざけるように唇の片方をつり上げて見せる。
「あ、別に気持ちよくはないわよ? ただ、シャルにマッサージをさせているっていう優越感がすごいの。こう、いつも厄介事を押し付けてくれやがる相手をこき使っている感じがたまらないわね」
目元にクマを浮かべたブラックローザは、今日も完徹。もはや疲れているはずなのに精神はさえわたり、眠気は遠くに去ってしまったまま戻ってこない。ソファにもたれ、あまり気持ちよくないシャルのマッサージを受けたところで睡魔はやってこず、内心ではがっかりしていた。
「ローザ、今生殺与奪権を握っているのが私だということ、忘れていませんよね?」
びくり、と肩を跳ねさせたローザ。それは目の前に座ってにこにこと――背筋が凍り付くような笑みを浮かべているアリスを見たからで、さらには背後から体の芯から凍えるような気配を感じ取ったから。
恐る恐る振り向けば、そこにいるのはにっこりと笑うシャル。
「……」
「今、私の手はあなたの肩に置かれているんですよ?」
「ッ、シャルを扱き使えて最っ高よ!」
早口でまくしたる。それはまるで、鼬の最後っ屁、あるいはライオンにおびえながらもとびかかる手負いの獣のごときふるまい。
当然、凄みのある笑みを浮かべていたシャルは肩にかけた手に全力を込め、バキゴキとローザの肩が悲鳴を上げる。
「っ、遠慮ってものが無いわけ!? もうちょっと力を抜いてくれたっていいでしょ!」
「最後の捨て台詞が無ければもう少し手心を加えたかもしれませんね」
「いつもの私の心労を思い知ればいいのよ。一体私が、どれだけシャルが拾ってきた半魔たちに振り回されていると思っているのよ!?」
「徹夜して私のところにやってくるくらいに? あるいは、こんなにガッチガチに肩が凝るくらいに?」
「そうよ。まあ、王国の再興のせいもあるのだけれど」
「つまりは自業自得ということですよね。そもそも、手が足りないから人員を補充したいとぼやいていたのはローザでしょうに」
「一から教育をして性根を叩きなおさないといけないような人材は求めていなかったのよ」
やってられるか、と吐き捨てるローザ。一応は迷惑をかけている自覚のあるシャルは、やれやれと苦笑しつつ丁寧にローザの肩をもんでいく。
言葉通り、がちがちに凝り固まったローザの体は一筋縄ではいかない。そうこうするうちに時間が来て、ドルイドはアリスに連れられて出発していった。
「シャールー、私もやってほしいなー?」
「貴女はさっきまで彼にやってもらっていたじゃない。今は私が至福の時を享受しているのよ。もう少し後にしなさい」
「でもシャルが約束したもん。マッサージしてくれる、って」
「はいはい、後でちゃんとやりますから」
「絶対だからね? 嘘ついたら絶交……はしないけど、シャルが恐れ慄いて、白目をむいてひっくり返るようないたずらをしちゃうからね?」
「気になるわね。それはつまり、シャルにとっての弱点の話よね?」
「んー……まあ思いつかないけど!」
だったら今の会話は何だったのか、と遠い目をするローザ。ドルイドに踏みしめられて多少体のこわばりが取れたサラは、だらりと液体のようにベッドに伏せながら、視線だけ上げて「いいな、いいな」とシャルの手元を眺める。
「それで、わざわざ出向いたということは、何か用事があったんですよね?」
「そうね……用件は二つ。一つは、依頼しておいた異常気象解決が確認されたわ。ありがと。アグリ・スピリットだったかしら、まさか元精霊が原因とは思わなかったわね」
「狂っても精霊、ということなのでしょうね。まあ、任務ですからお礼を言われる筋合いはありませんよ」
「私も頑張ったんだからね?」
「報告で聞いているわよ。揃いも揃って無茶をした、と」
シャルは、アグリ・スピリットの能力こそ詳細につづったものの、自分が陥った状況などは詳しくローザまで報告していなかった。
しばらく考え――るまでもない。ローザがシャルの無茶を知っている理由など一つ――一人しか心当たりはない。
「……アリスですか」
「そうよ。どこぞの危機を過小評価して報告書を作るどこかの誰かとは違って助かるわね」
「そうだよ! シャルはもうちょっと自分を大事にするべきなんだから!」
「もっと言ってあげなさい。じゃないといつか帰ってこない日が来るわよ。大体、シャルは懐に入れた人を大事にしすぎるあまり、自分の優先度を下げすぎなのよね」
「あ、わかるよ! シャルってそういうところがあるよね」
話が弾む中、シャルは賢く口を閉ざして聞き流す。意識はローザの首に集中。神経を痛めないように、けれどこわばった筋肉をそっともみほぐす。
「で、用件の二つ目は?」
「あ、ごまかした」
「誤魔化したわね」
「で、二つ目は何ですか?」
ぶー、と唇を尖らせるサラは幼児退行している。朝のランニングで疲れ、シャワーを浴びて体を温め、更には朝食を済ませお腹がいっぱいなところでマッサージ。
最初こそドルイドに踏みしめられて苦しくならないのかと心配したものの、サラにとってはゆりかごを揺らされるような心地よさであったらしく、目は眠気を帯びてとろんとしており、それが言動にも表れていた。
「二つ目は、新しい依頼よ」
「もしかして、また戦闘? シャルに危ないことをさせるの?」
「今回はお使いの側面の方が強いし、貴方たちから持ってきた話の続きよ。……幻影魔法用の魔法陣がある程度形になりつつあるわ」
「本当!?」
異世界でアニメを作りたい――サラとホノカによる企画はローザにも話が上がっており、ネクロの研究班も交えて魔道具開発の話はしていた。
ただ、まさかこれほど早く開発が進むとは思っておらず、シャルにとっても寝耳に水と言ってよかった。何しろ、具体的に開発を進めるという言質ももらっておらず、そもそも企画段階だったはずなのだから。
「作る、という話にはなっていませんでしたよね?」
「彼らはそう思っていたみたいよ? 何しろ話に参加していたシャルもサラも、制作が確定しているような口ぶりだったらしいもの」
言われて、そういえば、と思い出すように遠くを見る二人。勢いのままに突き動かされていたサラはもちろん、サラに頼まれたシャルもまたさっさと魔道具を完成させる腹積もりだった。つまり、相談ではなく制作することになった報告会に等しいものだった。
「あと、研究者たちの琴線に触れたみたいね。三日三晩開発詰めで試作品ができたらしいわ」
「それはまた……まあ、この世界の魔道具で娯楽的なものはほとんどありませんでしたしね」
「アニメ、アニメだからよ! アニメは人の心を動かすもの!」
がばりと体を起こし、眠気など吹き飛んだ様子で鼻息荒く告げるサラ。その勢いに気圧されつつ、果たして「アニメ」なるものはそれほど素晴らしいものなのかとローザは内心で首をひねる。
「……で、魔法陣は作れたものの、肝心の本体部分がうまくいっていないらしいわ」
「それは、どういう面でですか?」
「機構的にも、素材的にも、ね。現時点で彼らだけの技術では作製困難と判断して、だから私のところまで話が上がって来たわ……というか、執務室に乗り込んできて直談判されたわよ」
ふんふんとうなずいているサラとおそらくは同様の熱量をもってまくしたてる研究者たちを想像し、シャルはご愁傷様、と心の中でローザを憐れむ。
口にしなかったのは、ローザの苦労よりも、サラが傷つかない方がよほど大事だから。
「そういうわけで、必要なのは素材集めと技術開発。素材の方は転移ネットワークを駆使するとして、シャルにお願いしたいのは後者よ」
「私一人がくわったところで対して議論は進みませんよ?」
マッサージの手を止めて、シャルは唸る。サラの期待のまなざしが突き刺さるも、できないものはできない。すでに空き時間のほとんど全てを幻影魔法的効果をもたらす魔道具及び魔法陣開発にあてて、なおかつ行き詰まりを感じていたのだから。
「もちろん、シャルにはシャルにできることをしてもらうわ」
「……もしかして、犬猫のように技術者を拾って来いと?」
「よくわかったわね」
「声音がどこか皮肉げでしたからね」
かつてネクロの実験体かつ戦争用の兵士として肉体を改造された、魔物の因子を埋め込まれた「半魔」たち。戦争中に、あるいはネクロ内部がガタガタになった際に散っていた彼らを拾い集めてきたこれまでの行動を思い出しながら、けれど望まれる高い腕を持った技術者がそこらに浮浪者として転がっているはずがない、と首をかしげるシャル。
「技術者……レリウス皇国ですか?」
「そっちも考えたのだけれどね。どうせなら一石二鳥にすればいいじゃない、ということで、行くわよ」
「どこへ?」
「もちろん――ドワーフ王国よ!」
高らかに告げたローザは、それからシャルと情報共有を重ね――その間、サラはシャルによる全身マッサージに、だらしのない笑みを浮かべていた。




