歌姫
コート王国は、便宜上王国と呼ばれているが、その実態は王を有さない都市であり、村である。
かつては小さな村から発展をつづけたこの国は、生き字引であり、人々の精神的支柱である一人の女性を中心として成り立っている。
それこそが、歌姫であり、元エルフのカシアだった。
黄金の髪に、わずかに紫がかった藍色の瞳。南国風の布地の少ない白の衣に身を包む彼女は、金の装飾を揺らしながら言葉を紡ぐ。思いを歌に乗せる。
その声は、人々の心に染み入る。
レストラン内の多くの客はすでに食事を終えていて、カシアが紡ぐバラードに聞き入っていた。
小さな少女が、歌で世界を変えたいと本気考え、村を飛び出し、艱難辛苦を乗り越えて人々の心を動かす――それはカシア自身の経験なのか、あるいはカシアの理想なのか。
十八番らしく、客の中には声には出さずとも彼女に合わせて口を動かすものもいる。
しっとりと、熱を込めて、どこか寂しさをはらんで歌は終わる。伸びやかな歌声が途切れ、ぱらぱらと拍手が起こる。
それはすぐに万雷へと変わり、シャルもまた、目いっぱいに手をたたいた。
かつて、神との、あるいは終焉の獣との戦いのときには聞いている余裕のなかった歌声。改めて聞いたそれは、人の心にそっと手を添えるような、そんな確かな力があった。
あたたかな気持ちを胸に立ち上がり、明日からも頑張ろうとそう決意をして。
退席しようとしたシャルは、けれど店員に声を掛けられて足を止める。
「歌姫様がお会いになられるそうです」
その言葉に、一斉に悲喜こもごもの歓声が上がる。
シャルの幸運を祝福するもの、自分が選ばれなかったことに落胆するもの、嫉妬するもの。
様々な視線を集めながら、これはいつもの習慣なのだと理解しつつ、シャルは案内されるままに店の奥へと移動する。
毎回、歌姫は訪れた客の一人を選び、しばしの歓談の時間をとる。それはこの村に生じている、表にはなかなか出ない課題を知るためであり、歌姫が先導してその解決にあたるための方策。
法と呼ぶようなものはなく、ただ歌姫を中心に成り立つ善意とルールによって成り立つ都市国家。その統治方法に困惑しつつも、シャルは少しの希望を胸に、柔らかなカーペットを踏みしめる。
果たして、案内された落ち着いた装飾の応接室に入室して。
「どうかお許しを」
「……は?」
床に直接座って土下座をする歌姫カシアの後頭部を目にすることになった。
「な、何をなさっているのですか、歌姫様!?」
ここまでシャルを案内した支配人が、素っ頓狂な悲鳴を上げながら近づく。何とかカシアを立ち上がらせようとするも、テコでも動かないとばかりに必死の反抗を見せる。
そのうちに、支配人はカシアの両脇に手を入れ、不敬を詫びながら無理やり立ち上がらせる。顔を上げた彼は鋭い目でシャルを睨み、「一体どういうことだ」とガンを飛ばす。
だが、聞きたいのはシャルの方だった。
「あの、よくわからないのですが、どうして私は謝られているのですか?」
「……だって、わたくし罰しに来たのでしょう?」
美しい女性。その顔は、けれど大衆の前で歌を歌っていた時から一転し、青ざめ、不安そうに瞳を揺らしていた。
先ほどまでの熱は、歌っているのが楽しくて仕方がないといった様子は、そして自信は、すっかり彼女の中から失われていた。
処罰。言われた意味を考え、首をひねり、シャルがそれに思い至ったのは一分ほどしてから。
その間、カシアは屠殺を前にした家畜のように、プルプルと震えていた。
おそらくは人生の中でも一、二を争う長い時間。じっと自分の末路を考えるカシアは、シャルの深いため息に肩を大きく跳ねさせる。
「処罰などありませんよ。……そもそも、私はファウストに言われてここに来たのではありませんし」
「本当に?嘘じゃないのよね?そういいながら抜き打ちで内情を評価しようとしているのではないのでしょ?」
絶対にない、と言いながら、シャルは心の中でファウストに毒づく。
カシアが気にしているのは、ファウストたち一部の古参エルフたちが作った取り決め。
「使徒は人々を導く存在であってはならない。」
それはかつて、大国の王として君臨した使徒たちによる大戦によって世界に大きな被害が出たことが理由で、それ以来使徒は封印によってエルフへと転じ、人間の指導者にならないように決められた。
禁止された人間の統治者に収まっている――そのことを隠してきたつもりだったカシアは、だからこそファウストとともにいたシャルがわざわざこの国にやってきたことで、自分が処罰されようとしていると判断したのだった。
処罰はない――そのことに胸をなでおろしたカシアは、支配人に「もう大丈夫」と告げて、自分の足で立つ。
緊張から解放されたその足は小鹿のように震えていて、立っているのがやっとといった状態だったが。
「改めて、私は1級冒険者のシャルといいます。先ほどは、誤解をさせてしまってすみません」
「気にしなくていいわ。わたくしの勘違いだもの……ああ、わたくしはカシアよ。コート王国で歌姫と呼ばれていて、つい先日までエルフだった女ね」
もう耳はないけれど、とカシアは髪をかき上げて人間のそれとまるで変わらない耳を見せる。
おいわしや、とどこか嘆くような顔をした支配人が印象的だった。
ソファへと移動したシャルは、そうして、カシアの背後で直立不動の体勢を取る支配人ににらまれながら、改めて誤解の解消に努めた。
自分とファウストは一応の上下関係こそあるものの、利害の一致によって協力関係にある知人に過ぎないこと。
そして、コート王国を訪れたのは、ファウストの使いとしてではなく、霊界の祠を探すためであるということ。
なぁんだ、と胸をなでおろしたカシアはソファにもたれかかり、天井を見上げて深い安堵のため息をついた。よかった、と儚げに笑いながらつぶやくその姿に、シャルは強い申し訳なさを感じるばかりで。
「それで、情報収集にわたくしに会いに来たのね」
「……もしかして」
霊界に祠に対する質問がなかったことに気づいて、シャルはその顔に喜色を浮かべる。まさか、本当に――わずかな不安と、それを上回る強い希望。
熱のせいか目は潤み、頬の上気したシャルの雰囲気にあてられたのか、カシアはやや赤い顔で咳払いをして、先ほどまでの歌姫らしい凛とした姿を見せる。
「この国の不思議さは、すでに貴女も理解しているでしょう?」
「はい。ずっと晴れたままの空。すごく不思議でしたね」
「ええ。あれが、霊界の祠よ」
「…………はい?」
あれ――それが指す言葉の意味が分からず、シャルは大きく首をかしげる。
話の流れからすれば、あれ、というのは空の穴。だが、とても祠といった感じには見えない。
シャルの混乱が手に取るように理解できて、カシアはくすりと笑う。
「もともと、確かにこの地には霊界の祠があったのよ。けれど、祠なんて物理的な形をしていれば、当然、それはいつか失われるわ」
「……そう、でしょうね」
この世界には数百年、数千年形をとどめる建造物などもあるが、それは例外。ただのちっぽけな祠など、どれほど防御を重ねたところでいつか朽ち果てる。それは大地の脈動によるものかもしれないし、人災によるものかもしれない。
そうして祠は消え、けれど精霊界と人間界が離れることはなかった。
「二つの世界をつなぐ物理的な扉は消えて、けれどつながりは残ったの。隣り合った二つの世界は、ぶつかり、少し遠ざかり、また引き寄せられる……そんな世界の境界が、あの空の穴なの」
ぶつかり合う世界の境界。まるで夢物語でも聞かされているような壮大な話に、シャルはめまいを覚えて眉間をもみほぐす。
ただ、それは確かに現実なのだろうと、シャルはそう考える。何しろシャル自身、世界を超えてこの場所にやってきた者の一人なのだから。
歌姫カシアの言葉に嘘はない。ならば、あの空の穴をくぐれば精霊たちの住まう世界に行くことができるのか――
「……空を飛べばいいのですか?」
「違うわ。門を作るの」
空に、ね。
天井を指さしながら、カシアはにやりと笑う。
同じように見上げた先、そこには真っ白な天井があるばかり。ただ、その先には今も、雲で縁取られた星空がある。
それからしばらく霊界への行き方と門を開くための紹介を受けたシャルは、明後日の邂逅に胸を躍らせながら退出しようとして。
思い出したことに一瞬で顔を曇らせ、沈んだ様子でカシアへと視線を向ける。
「この国の方のお墓はどこにありますか?」
「墓?それなら共同墓地だけれど……どなたのものか、聞いてもいいかしら?」
ためらうように唇を閉ざし、瞼の裏におうおぼろげな顔を思い出す。
短い邂逅。共闘し、倒れた彼の遺骨の一つも持ち帰ることができなかったことをいまさらながらに後悔しながら、シャルはゆっくりと唇を開く。
「雨の騎士――ソン・レインツリーさんです」
大きく目を見張ったカシアは、何かを言おうと口を開いて。
けれど胸の内で渦巻く感情は言葉にならず、ただ、空気だけが漏れ出る。
その頬を流れる熱いしずくを見て、シャルは強くこぶしを握る。
固く握りしめた手のひらに爪が刺さる痛みが、少しだけ苦しみを緩和する。
責められてしまいたい。キツイ言葉があれば、少しはこの罪悪感は軽くなるのか。
思いを言葉にせず、シャルは話の出来そうにないカシアに代わって支配人にその詳細を聞き、改めて部屋を辞した。
「……ソンが、死ぬなんて嘘よ」
ぽつり、と。
零された悲哀に満ちた言葉に、支配人はただうつむくことしかできなかった。




