コート王国
視界の端、ちらつくものを目に留めてシャルは立ち止まる。
「……雪」
ひらひらと舞い降りる結晶は、地面と水平に伸ばしたシャルの手の中に落ちて、ふっと溶けて見えなくなる。
今更ながらに寒さに気づいたシャルは、収納鞄からコートを取り出して羽織る。黒いコートに映える雪は後から後から空より落ちてきて、大地にしみて濡らしていく。
吹き抜ける突風はひどく冷たく、枯れた草がカサカサとはかなげに音を立てる。
フードをかぶり、コートのポケットに手を突き刺したシャルは、長く続く平地を進み続けていく。
やがて雪は雨へと変わり、地面はひどくぬかるみ始める。
街道のない道を一直線に突き進むシャルを襲う魔物は、一太刀のもとに入り捨てられ、屍はそのまま収納鞄へと放り込まれる。
大地に残された足跡は、すぐに雨によって消えていく。
まるで、シャルという存在を、その足跡を消すように。
密林を超え、シャルは現れた都市を前にして小さく息をのむ。
降りしきる雨に包まれたそこは、水上都市であり、都市国家コート王国でもある。幅五メートルほどの巨大な水路に囲まれた都市は、おそらくはこの世界で唯一、外界と街を隔てる壁のない街。
だが、シャルが息をのんだのは、迷路のように入り組んだ水路を持つ、都市の古風な街並み故ではない。
理由は、空から降り注ぐ光。都市の上空は広範囲にわたって円形に晴れ渡って、雲の穴から青空がのぞく。降り注ぐ太陽の光を雨粒が無数に反射してきらめく。
雨で湿ったコートの不快感などもうどこかへ吹き飛び、シャルは目的地に向けた最後の旅を進める。
コート王国――そこに、霊界の祠がある、かもしれない。
円形に切り取られた青空。信憑性を高める奇跡のような光景の中、シャルはぬかるんだ大地を強く踏みしめた。
コート王国に向かうきっかけはエヴァの気づきだった。
アーサーの墓参り、あるいはベリナの報告と宣言。そのために墓前に向かったエヴァは、そこでベリナの魔法を目撃することになった。
空にいくつも生まれる、月の光を浴びた氷の花。儚く、だからこそ美しいその在り方は花火に似て、きらめく青の大輪にエヴァはただただ見とれていた。
そうしてふと、記憶に引っ掛かりを覚えた。空、青、丸――パズルのピースのごとく組みあがった記憶は、かつて目にした古代語の書物の一説をエヴァの脳裏に浮かび上がらせた。
『青の信ずるところに異界への門有り』
たった一文。もとよりその文章が記述されていたのは古代の噂をまとめた本で、話の信憑性は低かった。
ただ、エヴァが冒険者として帝国の外に赴いたことがあり、あの衝撃的な光景を目にしていなければ。
エヴァは、常に青空がありながらも雨が降る、不思議な国のことを語った。いつからか青空に愛された土地といわれるようになったそこには水上都市が発展しており、国では青への信仰がある。
その国こそがコート王国であり、現状シャルが手にしたたった一つの手がかりだった。
霊界の祠。
異界――精霊界へと続く扉の捜索の、たった一つの希望。
焦燥に駆られるシャルは、もう少し体を休めるべきだと告げるベリナとエヴァの制止を振り切り、一人コート王国を訪ねていた。
あるいは雨の国と呼ばれるくらい、この都市国家は雨が多い。
ほとんど年中雨が降り続けるという多湿な土地。それでもそこに人々が住まうのは、そこが奇跡の土地だから。
常に顔をのぞかせる青空。まるで切り取られたように空には円形に雲一つない空間が広がっていて、それを目当てに足を運ぶ観光客も決して少なくない。
また、王国と呼ばれているが、実際に王がいるわけでもなく、都市の民は一人の歌姫によって実質的な統治をされている。策略から離れた、終の住処としても人気のあるコート王国は、今日もおおらかな気風の市民が雨に負けじと声を張り上げていた。
そんなにぎわう市場の中、シャルは購入と情報収集に励む。戦果は町を囲む水路でとれる魚の串焼きと、水草と小エビのスープ、ふかしたジャガイモ。
霊界の祠の情報は一切手に入らず、それが何なのか聞き返される始末だった。
とはいえ、それは予想済みのこと。もし市民全員が知っているような有名なものであれば、今頃、シャルの耳にその噂の一つや二つ届いてしかるべきだから。
狐の嫁入りの中、シャルは新たに図書館の情報を手にして足を運ぶ。
ある程度大きな都市になれば存在する図書館。国によっては焚書などによって蔵書が偏っていることもあるが、ただ本を購入するよりもずっと経済効率がいい。最近では植物紙製の本が多く出回り始めているとはいえ、もともとは羊皮紙か、あるいは秘匿された工程によって作られるゴワゴワした植物紙くらい。
書籍産業は発展途上にあり、まだまだ本は高い。
金銭的には余裕のあるシャルも、わざわざ一度しか読まない、しかも求める情報があるかどうかもわからない本を買う気にはなれなかった。
シャルの場合は下手に大量に書籍を購入して面倒ごとに巻き込まれるのを回避する意味合いもあったが。
つる草の絡みついた円塔。趣ある図書館の入り口でコートを脱ぎ、案内された部屋にしばらく滞在して服の水気を飛ばす。
そうして湿度管理された図書館内は、どことなく軽い空気に包まれていた。
壁一面にずらりと本が並ぶ光景は非常に迫力がある。ただ、帝都の地下にある図書館ですでに似たような光景を目にしているシャルは、さほどそこに意識を奪われることなく目的の本を探し始める。
古代語の書籍。といってもシャルはほとんど古代語は読めない。魔道具作製のために多少は勉強したとはいえ、一言語を習得するような精神的・時間的余裕はシャルにはなかった。
あるいはこれを今後の趣味にしてもいいかもしれないと思いながら、シャルは乏しい知識を頼りに背表紙を、あるいは表表紙に記されたタイトルを確認して、それらしい書籍を集めていく。
吹き抜けの一階と、地下。一般の閲覧者が使用できる一階だけでも無数の蔵書があり、しかもその確認は語学能力の低さも相まってさらに時間を要する。
長期戦を覚悟したシャルは、閉館の時間になるまで書籍と格闘を続けた。
膨大な情報のインプット。なおかつ普段は使わない働かせかたをさせた脳は悲鳴を上げ、シャルはふらつきながら図書館の外に出る。
成果はなし。
相変わらず降り続いている雨は少し憂鬱で、けれど見上げればそこにある星空に、なんとなく心現れるものがあった。
町明かりがなければ、雨を降らせる星空はもっと美しいだろうにと、少し残念に思いながら街灯をにらむ。
街灯は答えず、代わりにシャルの腹が空腹を訴える。
すでに市場や露店広場は閉まっている。
どこで食事をとろうかと考え、そして、まだ宿の確保すらしていなかったことを思い出して、小走りで夜のコート王国を走り出す。
雨に濡れた石畳を踏みしめて疾走するシャルを、家の軒下に羽を休める鳥たちが不思議そうに見つめる。
町の中央、まだ賑わいの見せる方向へと走りながら、宿の看板を探す。ベッドと枕。
なかなか見つからず、代わりにいくつもの水路がシャルの行く手を阻む。
身体強化を使うことなくひと飛びで幅二メートルほどの水路を飛び越えるシャルを目にした青年は顎が外れるほどあんぐりと口を開いて驚く。
数分にしていくつもの噂を生み出しながら町を進むシャルはそうして一軒の高級宿屋を見つけて。
けれどその隣にあるにぎわう巨大な建物と、そこから香る食事のにおいに引き付けられ、自然と足が向かう。
果たして、王宮を思わせるきらびやかなそこは吹き抜けのスペースにいくつもの丸テーブルが並ぶレストランで。
入るシャルは、耳に飛び込んでくる魂を揺さぶるような歌に自然を身を引き締める。
自然と体がリズムを取り出そうとするような、陽気な曲。どこか聞き覚えのある気がする声の方向、吹き抜けの奥にある壇上に立つ歌い手へと視線を向けて。
「……歌の使徒」
長い耳を失ってなお変わらぬ神秘的な美貌の歌姫――神との闘いで共闘した元エルフの女性が、そこにいた。




