見送る者
フィレッツェン帝国、グランドメジャス領、領都アーサー。
その中央に位置するどこか武骨なつくりの、どこか砦を思わせる建物。その一室で娘のアデルマーサを膝に乗せながら仕事をしていたカイセルは、部屋に入ってきたエヴァに気づいて顔を上げる。
「おかあさん!」
「ただいま、アデル」
ぴょん、とカイセルから飛び降りたアデルマーサは、とてとてとエヴァに走り寄って飛びつく。腰をかがめたエヴァは抱き着いたアデルマーサを抱き上げる。
頬を摺り寄せるアデルマーサの柔らかさに、全身から愛を示すその姿にいとおしさを覚えて頬を緩ませる。
そんな二人を目を細くして見つめていたカイセルは、ソファから腰を上げ、手に持っていた書類を置く。それからふと窓の外へと視線を向ける。
「もう行ったのか?」
どこか不思議な色味を帯びた双眸のまま、カイセルはエヴァに問う。
「はい。相変わらず忙しいようですね」
「本当に忙しないよな。もう少し滞在してくれてもいいんだが」
そうは言いつつも特に歓迎の用意をしていたわけでもなくて。そのことにつっこまれたカイセルは、逃げるように顔をそむける。
皇子という立場のカイセルには、友と呼べるようなものは少ない。心許せる数少ない知人は、今も帝都で仕事をしている。宮廷魔法使い、騎士、役人、その他多くの立場につく彼らの存在が、帝都から遠く離れたカイセルに、帝国国政の最新情報をもたらしてくれる。
得難い友人だと、カイセルは思う。だが同時に、彼らと自分の間に、どうしようもない隔たりがあるのを理解していた。
自分は皇子で、彼らは貴族あるいは代々騎士や宮廷魔法使いなどを輩出してきた由緒ある帝国の家柄。どうしたってその立場はこれまで連綿と受け継がれた家の立場に紐づけられ、一線を引いて交流することになる。
帝国は実力主義だが、実力によって成り上がる者は少ない。何しろどれだけ才があったところで、その才能を伸ばす機会を手に入れられるのとはまた別の話だから。相応の家柄に生まれた者たちは、その血に宿った才能を、家の力によって開花させる。
市井に生まれた者はたとえ英雄になりうる才があっても、その才を開花させることなく貴族などに消耗されて芽を摘まれる。
あるいはごろつきとして生き延びて力をつけた冒険者たちもまた、その地位で満足してさらなる高みを目指すことはなくなる。
成り上がり貴族など久しく、学を持ち貴族と交流を行えるようになるぽっと出の平民などさらに珍しい。
だが、そんなことは知ったものかとばかりに、一人の少女はカイセルの前に颯爽と姿を現した。
シャル。
流れの冒険者としてやってきた彼女は、あっという間に冒険者ランクを駆け上り、気づけば1級冒険者に至っていた。その存在があるだけで小国が大国の侵略を受けることなく反映できる存在――土地によっては王族レベルで優遇されるほどの力を持った存在。
それは、カイセルが欲してやまなかった対等な人間の出現だった。
友人と、そう呼べるくらいには近しい関係になったと、カイセルはそう思っていた。
戦地を共にした。
帝国の危機を共に乗り越えた。
けれどその背中はあっという間に遠くなり、自分は今、完全にその背中を見失っていて。
「……おとうさん?」
「ああ、いや。何でもない」
おいて行かれたか何なのだと、己に言い聞かせ。
不思議そうに首をかしげるアデルマーサの頭をなでながら、カイセルは相貌を崩す。
自分は、幸福を手にしたのだと。望む者を手にしたから立ち止まって、戦い方を変えたのだと。
兄のクロノスとの帝位争奪などごめんだった。何よりこのいとおしいぬくもりを守るために、そんな戦いに身を投じるなどあり得なかった。
再婚相手の連れ後。皇室の血をひいていないアデルマーサの存在はカイセルのアキレス腱であり、もしカイセルが皇帝にでもなろうものなら、帝国を揺らがしかねない難題へと転じる。
そんな数奇な運命をたどってほしくなかった。宮廷の闘争に巻き込む気などなかった。
心許してくれていることがわかる、なんの気負いのない笑み。
この笑みを手に入れるために、守るために、自分は帝都で生きる道を捨てたのだ。
そう思えば、その選択が間違いだったと思うはずがなかった。
後悔、するはずがなかった。
ただ、ほんの少しだけ、ありえたかもしれない可能性を思っただけだった。
例えば自分が、帝位継承権はもちろん、皇族としての立場すべてを放り出したとして。
例えば、エヴァに、アデルマーサに会うことなく、シャルと関係を築いていっていたら。
もしかしたら今、自分は彼女の隣に立って、ともにこの世界を、戦場を駆け巡っていたのではないかと。
闘争の日々。血沸き肉躍る戦いの日々。
ありえたかもしれない可能性が芽吹くことはない。
「……エヴァは、冒険者の活動はどうするんだ?」
闘争の日々。そこから離れつつあるエヴァは、少しためらいがちに口を開く。
「しばらくは時々続けようかと思います。体がなまってしまってはいざというときに困りますし、それに、私にできることはそれだけですから」
確かに、とカイセルはうなずく。
武力があるに越したことはない。たとえ力かなわぬ超常の存在を前に蹴散らされることがあるかもしれないが、その力が悲劇を回避する可能性だってある。
アデルマーサを守るためにも、自分たちは強くある必要があるのだから。
ただ、エヴァに戦ってほしくないと、安全なところにいてほしいと思うのはわがままなのだろうかと。
考え、そしてカイセルは口を閉ざす。
それからただ黙って、アデルマーサをエヴァをまとめてその両腕で抱きしめる。
「……俺がいつもどれだけお前によって安らげているか、知らないわけじゃないだろうに」
腕の中で身をよじって抜け出したエヴァは、恥ずかしげに頬を染めつつ、咳払いをして空気を、気持ちを変えようとする。
「カイセルとアデル、それからリシュたちくらいにしか、この手は伸ばせないのです。そのくらいの人を守れるだけの力しか、私にはありませんから。でも、私は、あなたの妻で、グランドメジャス領の領主の妻です」
「だが、お前の作ったギガント・シャルが街を守ったのも事実だ」
「けれど、あれはこの町の『守り神』とするのでしょう?」
少しだけ残念そうに告げるエヴァに、カイセルは胸が痛むのを感じた。
グランドメジャス領は広い。何しろ元は一国の領地だったのだから。当然、その領地を完璧に守るだけの戦力は今のカイセルの手元にはなくて。けれどギガント・シャルが領内を回るようになれば、戦力の補給は十分だった。
ただ、ギガント・シャルがいない間、領都の危険は高まって。そのせいでエヴァとアデルマーサに万が一がある可能性を思えば、カイセルは虎の子を都から動かす気にはなれなかった。
自分が仕事で帝都などに行くときにも、エヴァたちは大丈夫だと安心できるために。
そんな己の都合で戦力を領都に留めて、助かるはずだった者を死なせている。
その罪悪感に眉を下げるエヴァにかける言葉は見つからなかった。
自分の弱さに、どこか自嘲気味に笑って。
けれどすぐに領主の顔になって、カイセルはまっすぐにエヴァを見据える。
「騎士を増やそう。この広い領を守れるだけの騎士を育てるんだ」
「はい。それから、魔法使いと、隠密舞台と、魔道具ですね」
「錬金術師のほうは頼む。魔法使いは……帝都から人員を呼び寄せるか?」
「それもいいですが、実は相談があるんです」
「ああ、リシュクロアとトビスのことだろう?」
冒険者パーティーの仲間の二人。けれど戦力不足で最近はあまり仕事のできていな二人を、エヴァは領の新人教育指導者として雇えないかと考えていた。
そんな考えをカイセルに見透かされていたことに、エヴァは驚いて目を見開いて。
気づかないわけがないだろう、と笑いながら、どこか不機嫌そうにカイセルは表情をゆがませる。
「俺はそんなにお前と、お前の周りの人に対して無関心だと思っているのか?」
「いえ、そういうわけではないのですが……お忙しいでしょう?」
だからリシュたちのことに気を遣う余裕などなかったはずだと問うエヴァに、カイセルは飄々と肩をすくめる。
「帝都にいたころの方が何倍も忙しかったからな。騎士団の業務に、皇族としての仕事。それに姦しい貴族連中の相手で無駄に時間がつぶれて……」
指折り数えるカイセルは、やや頬を膨らませたエヴァを見て首をひねる。
「あ、おとうさん、めっ!」
「待ってくれアデル。なぁ、俺は何か変な事を言ったか?」
「……していたんですよね」
ぼそぼそとつぶやくエヴァの声が聞き取れず、カイセルはずいと身を乗り出す。じっと見つめるエヴァのその瞳に、自分の顔が映り込んでいるのがはっきりと見えるほどの距離。
腕が届く距離になったためにぺちぺちと頬を叩いてくるアデルの攻撃を黙って受けながら、カイセルはじっとエヴァの言葉を待つ。
もごもごと口を動かし続けるエヴァだが、やがて覚悟を決めたように大きく息を吸う。
「貴族の淑女の方たちが訪ねてきて、デレデレしていたんですよね」
「……いや、そうは言っていないだろう?」
「ほら!否定しないじゃないですか!」
「していない!鼻の下など伸ばすものか!あんな女狐どもと一緒にいて気が休まるなど内に決まっている」
これ以上おかしな勘違いをされてたまるかと、カイセルは再びエヴァを抱きとめて口づけをする。
くわと目を見開くエヴァの頬は一瞬で真っ赤に染まり、アデルマーサは二人の様子に目をぱちくりとさせる。
「……いきなり、何をするんですか。しかもアデルの見ている前で……」
やがてエヴァは片手でカイセルを押して距離を取り、息も絶え絶えに告げる。うるんだ瞳、上気した頬。それが、カイセルの劣情を刺激する。
こみあげる愛おしさと嗜虐心をぐっとこらえ。カイセルは努めて平静を装って笑う。
「俺が妻一筋なのを示そうと思ってな」
「……自分が愛されていることくらいわかっています」
「いいや、わかっていないさ。俺が昨晩、どれだけ気をもんでいたと思う。眠るアデルを抱きながら、ずっとお前を思っていたことをわかっていないだろう?」
かつて惚れていた男の墓に足を運ぶ――そのことで、心にさざ波が立たないわけがない。ただ、それを隠し、どっしりと構えた男らしさを見せていただけに過ぎないのだと。
強く訴えるカイセルの言葉に、エヴァはもう沸騰しているのではないかと思うほどに顔が熱いのを感じていた。
「アーサーという男が、いつまでもお前の心の片隅にいることは許そう。それほどのことをなした英雄で、俺もまた、そのような存在が帝国に生まれたことを誇りに思っている」
だがそれはそれだ、と横に置いて。
「アーサーのことを今でも恋する乙女のように思っている姿を見て、嫉妬しないわけがない。亡き人を思い出して顔を曇らせるお前を見て、英雄が許せないと思う。悲劇にとらわれたお前を、俺が解放してしまいたいと思う。ドロドロに愛して、愛しつくして、俺以外の男が目に入らないようにしてやりたい」
涙で潤む瞳をまっすぐに見据えて、カイセルは言葉を重ねる。
一歩近づくほどに、エヴァは一歩遠ざかる。
やがてその背中が入り口扉にあたり、それ以上下がれなくなって。
「あ、午後からリシュと約束があるのでした!」
失礼します、と。
かつてない速さで部屋から出て行ったエヴァと、きょとんと首を振りながら「またね」と手を振ってくれたアデルマーサ。
二人を呆然と見送ったカイセルはしばらくそこに立ち尽くして。
「…………俺はなんてこっぱずかしいことを言っているんだよ」
ずるずるとその場にしゃがみこんで頭を抱える。
「いや、愛しているさ。それに嫉妬もしている。だからってそれをつまびらかにしてどうする。しかもアデルのいる前で。ああ、そうだよ。俺は今もまだエヴァの心の大部分を自分以外の男が占めているという事実が気に食わないんだ。うらやましいんだ。だから――」
「あの、カイセル?リシュとトビスの件ですが――」
再び扉が開かれ、ひょっこりと顔をのぞかせたエヴァと目が合う。
頭を抱えながら視線を上げたカイセルは、しきりに瞬きを繰り返すその目に、無様な己が映っていることを自覚し、頬に熱が宿るのを感じた。
「……ええと、失礼しますね」
他人行儀な声音で義務的に告げ、エヴァは扉を閉める。
それから数秒後、執務室にカイセルの悶絶が響き渡った。




