伏せる者
狭い医務室には消毒液の香りが漂い、その空気を、窓から吹き込む冷たい秋風が押し流していく。
差し込む陽気が、清潔な白いシーツを照らし出す。揺らめく光、踊るようなそれに合わせるようにして、小さな寝息を立ててシャルはベッドに眠る。
顔色は落ち着き、けれど眉間に刻まれた深いしわをそのまま。
そんなシャルの寝顔をちらと見てから、看病役に収まっていたベリナは手に持っていた本のページをめくる。
ベリナがここにいるのは、イノセントクラウン討伐後のお祭り騒ぎ――あるいはそれは恐怖を上書きするためでもあったかもしれないが――への対応に奔走するカイセルや「オリエンテ」にシャルの看病を頼まれたから。
知らない仲でもなかったことによって快諾したベリナは、シャルの額からずり落ちそうになったタオルをつかみ、その熱に顔を少しだけゆがめる。
それから再びタオルを冷やそうと、横着にも腰に下げた氷結剣に手を伸ばしたところでハッと顔を上げ、来客へと視線を向ける。
音一つ立てずに部屋に入ってきたのは長身痩躯の男。整った顔立ちはどことなく人間離れして見えて、ベリナはそうとは気づかれないように警戒レベルを引き上げる。
間抜けにも、濡れたタオルを片手に。
そんなベリナの様子に気づいたのかどうか、医務室を訪れたファウストは片手をあげて「やぁ」と告げる。
「……どちら様でしょう?」
「そこの眠り姫の上司だよ。いやはや、たどり着くか倒れるかどちらが先かと思っていたけれど、やっぱり間に合わなかったかぁ」
眉を寄せたベリナはシャルの顔を一瞥してから、改めてファウストをにらむ。その言が正しければ、ファウストはシャルが倒れることを、その体調不良を予想していたことになる。
どうして止めないのか、問う視線にファウストはただ肩をすくめる。
「シャルが止まれと言われて止まるような人じゃないことは君だって知っているんじゃない?」
「さぁ?私には知る由もないことです」
「ふぅん……まあいいや」
ベリナに攻撃されないと理解したからか、ファウストはシャルの眠るベッドのそばまで移動する。眠り続けるシャルの前髪を軽く払い、その額に一刺し指をあてる。
そのことで手に持っているタオルの存在を思い出したベリナは、少し迷ってから近くに置いていた容器の井戸水に浸し、絞ったそれを再びシャルの額に乗せる。
そんなベリナに視線を向けることもなく、ファウストは小さく息をつく。
「…………アリス」
「はい……シャルお姉さんは大丈夫ですか?」
突然ファウストの影が盛り上がり、そこからアリスが姿を現す。一瞬にして戦意をむき出しにしたベリナにぺこりと頭を下げてから、アリスはすぐに興味を失ったようにシャルへと目を向ける。
路傍の石のごとき対応に、ベリナは緩く唇をかみしめて柄を握る手から力を抜く。
何をしようとしているのか――いぶかしむベリナの前で、アリスはファウストに言われるままに目を凝らす。ただじっと、シャルを見る。
「混ざっているでしょ?」
「そう、ですね。これって、やっぱりよくないんですか」
「使徒ならいざ知らず、シャルは普通の人間だからね。まあだいぶ人間離れしているけれど」
一つ講義でもしようかと告げて、ファウストは近くにあった空いた椅子を引き寄せて座る。アリスは少し視線をさまよわせ、それから小さく頭を下げてシャルの眠るベッドの端に腰掛ける。
いぶかしむベリナを意にも介さず、二人は勝手に話を始める。
「今のシャルは、分裂していた魂がとりあえず一つにまとまった状態だ」
「はい。だから、混じっているんですよね」
アリスは、シャルの告白を聞いている。その生い立ちを、自分の別人格と、違う人間としてそれぞれこの世界に転生を果たしたこと。その相手がオリアナ・オルベルで、シャルは燃え尽きたような状態になっていた彼女の魂から、彼女が食らったもう一人の魂を分別して、かつての己の一部を受け入れた。
「一応あのクソ神によって補強はされていたんだ。でも、そこにボロボロになったオリアナ・オルベルをくみ上げてはめ込んだところで、はい元通りなんてなるわけがない」
すっかり元通りになったオリアナから分離された魂の主、リィとは違って。
シャルは人間だ。ただの人間で、そんな人間が砕けた魂を抱えて健全な状態でいられるわけがない。
「何より、シャルは分離した状態で、長くこの世界を生きたからね。……しかも無茶に無茶を重ねて、膨大なスキルを手にして」
シャルはかつて、自分が比較的容易にスキルを覚えることができる理由について考えていた。
第一の理由は、神によって押し付けられた、ゲームの中の登場人物に関する情報。それのおかげで、特にゲーム内の「シャーロット・ヴァン・ガードナー」が覚えていたスキルは比較的容易に覚えることができた。経験のようにすら感じられる記憶は、確かにスキル獲得に役立った。
もう一つ、転生者としての思考の柔軟性も要因としてあった。
だが、その二つだけでこれほどのスキルを覚えられるはずがなかった。
「スキルは魂と紐づいている、ですか」
「そう。魂の一部の欠損と神による補強、それによって柔軟性を獲得して同時にデータ不足に陥ったシャルの魂は、まるで水を吸う乾いた砂のようにスキルを覚えたわけだね」
オリアナ・オルベルになった副人格の消失。彼女を形作っていた魂の一部の消失と、その補強によって、シャルは人の身でありながら通常の人とはやや違った魂の在り方を得た。
だから、スキル獲得が容易だった――そう、ファウストは自論を展開する。
「指向性こそあれど、同じように魂が柔軟な使徒は強力なスキルを多く覚える傾向にあるからね」
「……それで、シャルお姉さんはどうすればよくなるのですか?」
アリスの懸念はそこに尽きる。
どうすればシャルが健康になるか。自分に何ができるのか。
迫るアリスを押しとどめ、ファウストは人差し指をぴんと伸ばす。
「そのための――」
「そのための、霊界ですか」
「シャルさん!」
歓喜に心を震わせながら、アリスが勢いよくベッドのほうを見る。どこか憮然とした様子のファウストもまたシャルを見て、やれやれと首を横に振る。
起き上がろうとするシャルを支えるべく手を伸ばしたアリスとベリナは、互いに動きを止めて見つめあう。
その間に自力で起き上がったシャルは、額に乗っていたタオルが布団の上に落ちるのをぼんやり眺めてから顔を上げる。
「魂を扱うのは禁忌……ただし、それはこの世界に限ってのこと」
「そう。霊界、精霊が住まう世界はこの世界の一部ではあるけれど、同時にほかの世界の一部でもある。シャルに対して表現するならば『第二の宇宙』ってところかな」
シャルが頭に思い浮かべるのは、自分が生きる大地を含む惑星。そして、それを包み込むように、存在する目には見えない世界。そして、その空間はどこまでも広がっていて、たとえばシャルが生きていた地球につながっている。
「……神域のようなものですか」
「あれはまた別だよ。神域はこの世界に根差すもの。じゃないと神様が別の世界にいることになって不都合なんだよ。いろいろと、ね」
「ふぅん?」
よくわからないと首をひねりつつ、シャルは布団から抜け出してベッドから降りようとする。だが足に力が入らなかったのがガクンと体が傾いて、慌てて手を伸ばしたアリスとベリナに支えられる。
「シャルお姉さん、今は休んでいてください」
「まだ、だめなんですよ。まだ……ユキに、会わないといけないんです」
どこか熱に浮かされたような目で、シャルは懇願するように告げる。その姿に、アリスは頭を強く殴られたような衝撃を受けていた。
目の前の女性は、本当に自分の知るシャルその人なのか――ストイック、くじけることを知らないアリスの中のシャルという人物像からは、あまりにもかけ離れて見えた。
「……ユキ?」
不思議そうに首を傾げつつも、ベリナはその従者の腕で有無を言わさずにシャルをベッドへと戻す。
あっという間に再び横になったシャルは起き上がろうとするも、ベリナはそれを止めるべく動く。
両手で押さえ、けれどそれでは不可能だと分かったところでアリスが加わって。そうして二人がかりになってもシャルが身体強化スキルを発動するせいで押さえきれない。
「少し頼みます」
アリスに告げるや否や、ベリナはシャルから放した手を腰へと伸ばす。提げていた剣を引き抜き、逆手で握ったそれを振り下ろす。
ぎょっと目を開くアリスが何か言うよりも早く、ベリナはその刃を布団に突き刺す。
「アイスバインド」
凍えるほどの冷気が部屋を満たす。
一瞬にして剣からあふれた冷気は氷の蔓を伸ばしてシャルの体をからめとり、布団に縛り付ける。
「……本当に、君が知り合うのは変人ばかりで面白いよね」
拘束されたシャルを見ながら、ファウストはあきれた声音で告げる。知り合いが変人ばかり――他人が聞けばどの口が言っているのかと突っ込みが入るだろうが、己を棚に上げたファウストの言葉に言及する者はここにはいなかった。
氷の蔓がシャルを害するものではないと理解して、アリスはベリナの首元に突き付けていたナイフをしまう。
背筋に冷や汗が伝うほどの殺意は幻のように掻き消え、ベリナは悟られないように激しく鳴る心臓を落ち着ける。
「……脱走は許しません。彼らから看病を任されている以上、職務を遂行させていただきます」
しばらく何か言いたげににらんでいたシャルだが、やがて体から力を抜いてベッドに体重を預ける。
それを確認して、ベリナはベッドから氷結剣を抜き、そこに空いた穴から目をそらすようにファウストの方を見る。
「いろいろと気になる話題でしたが、それは置いておきます。……一つ、お願いがあるのですが」
「うん、いいよ」
「まだ何も言っていないのですが?」
わかっているよ、と肩をすくめたファウストはのっそりと起き上がり、アリスに視線で合図を送って部屋から出ていく。アリスもまた、魔法によって影に潜るようにしてその場から姿を消す。
本当に理解していたことに少し驚きつつ、ベリナは一人になった病室で、氷の蔓に縛り付けられたシャルをじっと見下ろす。




