境界の森
シリアスです。
長く枝葉を鳴らしていた驟雨が止んだ森の中。木の葉を踏み鳴らす小さな足音がひびいていた。
雨の途切れを歌うように小鳥たちが鳴く様は、この森の豊かさを示しているようで。
「……ここに、いるのか?」
ぽつりとつぶやいた一人の冒険者、この森の中にいる異物は、大剣を背負う革ベルトを握りしめ、遠くに広がる薄闇を睨んだ。
冒険者の名前はキド。
「クソッタレ」という冒険者パーティーのリーダーを務める男は、けれど仲間の一人もなくただ捜索を続ける。
彼がいるここは境界の森。その名前の意味するところ、すなわち何の境界であるのかが、キドが森に足を踏み入れている理由だった。
境界とはすなわち、生と死の境界。あるいは、此岸と彼岸の境界。
アドリナシア王国辺境にあるこの森は、ごく一部の者たちの間で「死者に会える森」と噂されていた。一部で、というのは、ここが魔境の一つであるため。
弱き者が侵入すれば生きて生還することは不可能。そう呼ばれるだけの脅威がいる森だが、その危険を冒すだけの価値はあるとキドは判断していた。
彼の脳裏にあるのは、ただ一人の女性の姿。その姿ももうほとんどがおぼろげで、彼女の声は聞こえず、言葉も消えていき、ただ一枚だけ残っていた姿絵の中で笑っている顔しか思い出せなくなっていた。
エリシア。幼馴染であり、将来は共にナターシャ侯爵家を、ひいてはその一員であるラナを支えて行こうと誓った同士にして妻。冒険者パーティーのメンバーとして共に生きていた彼女は、ある日何者かに殺された。
なぜ殺されたのか、何があったのか、キドはそれを知ろうとはせず、ただ残された娘を守るのに必死だった。
そうして、キドは間違えた。
守るべき娘の心を、キドは守れていなかった。
娘は、妻が――母が殺された現場を目撃していた。母を殺した相手が、両親の友人でありパーティーメンバーでもある男であることを、目撃して知ってしまっていた。
その秘密を抱える彼女は、母を殺した犯人との交友を続ける父に心を開くことができず、口を閉ざし続けた。
その苦悩を知った時、キドは誓った。もう二度と、大切な人たちを傷つけないと。
誓って、そして。
キドは再び失敗した。
大切なパーティーメンバーが、国家の言いなりになる決断をして、娘のように思っていた少女を国に売った。裏切りに悲鳴を上げていた仲間の苦悩も、裏切られてすさんだ目を向けて来た少女の苦悩も、キドが回避できるもののはずだったのに。
少女、シャルを切り捨てた決断について、キドは何度もラナに理由を尋ねた。
たとえアドリナシア王国で嫌われている「赤目」であったとしても、シャルを追い詰める作戦に自ら参加する理由はないはずだと。
果たして、ラナは青い顔をしながら縋るように言った。
お願いだから。私はもう、大切な人を誰も死なせたくないから――と。
ラナは何かを知っている。そしてそれはきっと、亡き妻に関すること。
だから、キドは一度は死んだ妻との再会を望んだ。そしてそれは、幸運にも実現することになって。
「あの日、エリシアと話せていたら……いや、死者に口はないものか」
帝国を混乱に陥れたネクロマンサーの力によって死霊として再会を果たした妻は、キドに何かを語ることはなかった。ただ、慈愛の笑みを浮かべて別れを告げた。
それだけ。
それで、満足をしているつもりだった。十分だと思っていた。
けれど真綿で首を絞められるように、心の中に少しずつ、ぬぐい切れなかった疑念が首をもたげて来た。
道を塞ぐ藪を切り払いながら、キドは心の中で問い続ける。
どうして、妻は殺されなければならなかったのか。
その答えを知らなければ、自分は新しい幸福に、新しい家庭を築くための最後の一歩を踏み出せないと判断した。
過去との決別のために、キドは一人こうして、魔境を進んでいた。
魔境。それは魔物の領域たる自然の中でもひと際危険だと判断されるエリアのこと。AランクやSランクの魔物が跋扈していたり、そもそも人が生身で踏み入れば数秒で死に至るようなとてつもない危険地帯であったりする。
その魔境にしては、目の前の森は静かすぎた。
何しろ、森に踏み込んでからすでに一時間近く歩いているのに、魔物の一匹も姿を見せないのだから。
穏やかに泣き続ける鳥の声が、この森が安全である証。悪名高い魔境ともなれば、そもそもただの獣である鳥が求愛の歌を歌って無事ですむはずがない。
吹き抜ける風も穏やかで、キドは一度止まって補給に臨むことにした。
座ることはせず、幹に体を預けながら油断なく周囲を見回す。
安全であると、そう誤認させる魔物がいるかもしれない、あるいは突如として死に神の鎌が首に掛かるかもしれないと、集中を絶やさない。
吹き抜ける風が、地面より蒸発した土のにおいを運ぶ。枝葉が擦れる音は、歌うように重なり合う。ひと際高く、鳥が鳴く。
その、ごく普通の穏やかな森の中に。
わずかな違和感があるのをキドは感じ取った。
「……なんだ?」
大剣の柄に手を伸ばし、けれど剣を構えることはなく森の先を睨む。未だに、森は穏やかそのもの。けれど異様な空気は少しずつ強まっていた。それは、違和感としか表現できない、自然すぎるというおかしさ。
戦闘経験が、キドにささやく。何か、得体のしれないモノが近づいていると。
緊張感を高めながら、ほんの些細な前兆も逃すまいと神経をとがらせる。梢の音、鳥の声、土のにおい、木々の揺れ。それら全てを、肌で感じるキドの額を、汗が一筋流れ落ちる。
果たして、まるではじめからそこにいたように、緑と茶色ばかりだった視界の中に、その白い人影は現れた。
長い髪が、揺れていた。体の前で両手を合わせ、静かにたたずむ楚々とした姿に、キドは妻の姿を見た。
「エリシア!?」
噂は本当だったのかと、キドは我を忘れて歩き出す。
一歩、一歩。近づくほどにはっきりと顔が見えるようになってくる。
まるで霧が集まったような姿を見せる白い影は、確かにエリシアにそっくりだった。
「なぁ、アリシア。お前、なんだよな?」
懇願の声は、震えていた。
そうであってくれと、ただ一心に望めるほどには、キドは純心ではなかった。
自分を騙す何かの存在を警戒し、それでも心は三度の再会に震えていた。
また会えた。今度こそ、言葉を交わせるはず。なぜならここは、生と死の境界にある森だから――。
震える足がもつれ、つんのめりながらもキドは後数メートルのところまでたどり着く。
風が、吹く。
冷たいそれは、森の大地のにおいはしなかった。
「は、ははっ」
乾いた笑い声が、喉から洩れる。
わかっていたことだと頭の中で繰り返しながら、自嘲の笑みを浮かべる。
本当に死者に会えるとは、思っていなかった。ただ、死者には会えないということを、あの一度が奇跡だったのだと自分に言い聞かせるために、この森に来たに過ぎなかった。
だから、本当に妻が現れて動揺した。なまじ一度奇跡を知っているがゆえに、今度もまた自分の祈りが通じたのだと、そう信じたい思いがあった。
けれど歴戦の冒険者としての感覚が、何よりも夫としての直感が、キドの心に伝えていた。
目の前のコレは、妻などではないと。
それを証明するように、確かに微笑んでいるはずの影の笑顔は、ひどくいびつなものに見えた。まるで、顔だけ取り繕って中身が伴っていないような、そんな笑み。
それが疑似餌のごときものだと、獲物をたぶらかせるための笑みだと理解して。
一瞬にして心を憤怒に染め上げたキドは、大剣の柄を握り潰すほどの力で掴み、全力で振りぬいた。
真っすぐに、その影の首へと――迫って、そして。
横薙ぎは、首の数センチ手前で、ぴたりと止まった。
「はは、できる、訳がねぇよな……」
偽物だとわかっていた。亡霊などでも抜け殻でもない、ただの幻覚だとわかっていた。
それでもキドには、剣を振りぬけなかった。妻の姿をしたソレを、傷つけることができなかった。
これは優しさなどではないと、キドは心を叱咤する。これこそが、自分が変えないといけないと思っていた弱さだと、そう心が叫ぶ。
妻が殺された。その犯人を探し出して復讐するという選択を、キドは選ばなかった。娘のドルチェのためだなどと言い訳をしながら、その実、ただ怖かったのだ。
エリシアが殺された真相、知ってはならない者を知って大切な者がさらに失われてしまうのを恐れた。妻の死に、何かの危機を感じた。
「弱さから目を逸らすための、ただの言い訳だ。だけどなぁ、これが俺なんだよ。どうしようもなく弱くて、優柔不断で、未だって傷心ぶってこうしてエリシアに会おうとして、ラナもドルチェも放置するような、ろくでもない男なんだよ。……そんな俺に、エリシアを切らせようとするんじゃねぇよッ」
憤怒に顔が染まる。その激情に誘発されるように、キドの体から魔力が放出される。
それは決して膨大とは言い難い。ただの剣士として育ってきたキドに、魔法使いのような莫大な魔力など備わっていない。けれど暴風のごとく溢れ、吹き荒れる魔力が、エリシアの形をした霧――そこに込められた魔力を乱す。
ゆっくりと、人影がゆがんでいく。その先に、いびつに笑う死に神の姿が、浮かび上がって――
「嘘……」
声が、足音が、した。
目の前の敵から視線を逸らすことが愚行であると理解しながらも、キドは背後を振り向いた。
果たしてそこに、ごく一般的な市民らしい装いをした女性が立っていた。歴戦の猛者どころか、戦闘経験者とも思えない、ただの衣服に包丁だけを握る女性。顔色が悪いのは、ここまでの険しい道のりを踏破した疲弊によるもの。
驚愕に見開かれた目は、キドが大剣を突き付けている影へと向けられていて。
震える両手でしっかりと握られた包丁の切っ先は、影ではなく、キドへと向けられていた。
「いや。そんな、また殺されるなんて……」
震える足で、女性は一歩を踏み出す。その度に、恐怖は消えて、ただ憎しみの炎が瞳の奥で燃え上がる。
その炎は、かつて見た町が焼ける光景。
燃え盛る家屋、夜を切り裂くような悲鳴と怒号。剣戟の音、逃げる足音、翼を頂いた空に立つ赤目の怪物。
彼女はかつて、アドリナシア王国王都に住んでいた。そして、吸血鬼事変、あるいは王都動乱と呼ばれる戦いに巻き込まれて家族を喪った。
その、死んだはずの家族の姿が今、彼女の目の前にあった。
噂を耳にしたのは偶然だった。境界の森で死者に会える――逃げ帰った田舎の村に一つだけある酒場に立ち寄った元冒険者の旅人が酒の場で語ったたわごとを、彼女は信じた。
愛する者たちに、もう一度会いたい――その一心が、彼女をここまで運んだ。足を運ばせた。
そうして今、目の前に大切な人がいた。それは夫であり、娘であり、幼い息子であった。
その彼らが今、またしても奪われようとしている――怒りと憎しみ、そして正義感に突き動かされた女は走る。
ただ、家族を救うために。
燃え盛る憎悪の炎に当てられて、キドは一歩も動くことができなかった。
ふと、その目に失意の瞳が重なった気がした。それは誰のものであったか――思考が、体を止めて、そして。
女の包丁が、キドの脇を叩いた。
切っ先は、防具に阻まれてキドの体には届かなくて。
それでも女は、何度も、何度も、包丁を突き、振り下ろし、攻撃を重ねた。
「やめてよ!もう私から、これ以上奪わないでッ」
涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら、女は包丁を振るい続ける。
その姿を見ながら、ふと、キドは考えた。
もしかしたら妻も、こんな理由で殺されたのではないかと。
妻を殺したグレイは、国に仕える暗殺者だったという。そのグレイの暗殺の背後には、自分たちの行動によって家族を喪い、憎しみに突き動かされた者がいたのではないか。
キドは覚えている。自分たちが数時間間に合わず、魔物に滅ぼされた村のことを。その生き残りが、自分たちに憎悪の目を向けて、罵声を浴びせて来たことを。
『どうして助けてくれなかったんだ!』
『もっと早く来ていれば……ッ』
魂からの叫びが、耳の奥で響く。
斜め下から突き出された包丁が、防具の隙間を塗って脇を貫く。
一瞬だけ冷たくて、続けて燃えるような熱さが傷口を襲った。
ぱっと花が開いたように血の匂いが周囲に広がって。
そうして、霧の人影は、ニチャァと、悪趣味な笑みを浮かべた。
目の前の存在は、魔物だった。直感が告げていた通り、即座に排除すべき敵だった。
そう理解して、武器を振りぬこうとして。
大剣は、何を切り裂くこともなく虚空を走り抜けた。
霧が、その手を伸ばす。
傷口が痛み、バランスが崩れて倒れこむ。
キドの頭上を、エリシアでもないのっぺらぼうの人影の腕が通過して、血濡れた包丁を握る女の首をつかみ取った。
一瞬、世界から音が消えたような錯覚があった。続いて、それが強烈な悲鳴だと遅れて脳が理解する。
生理的嫌悪、あるいは根源的な恐怖を抱かずにはいられない悲鳴。存在そのものから、己という芯から壊されるような絶叫に、鳥たちは堪らず飛び立ち、恵み豊かな一面を見せていた森は一瞬にして冷たい素顔を晒す。
どさりと倒れた女を横目で確認して、キドはわずかに顔を歪める。
そこには、およそ人が浮かべるべきではない表情を見せた死者の姿があった。その苦しみ、痛みのほどを知らしめる亡骸を前に、キドは体の震えが止まらなかった。
白い影が、ゆらりと動く。その手が、真っすぐに倒れるキドへと伸びる。
動かなければと、体が叫ぶ。脳裏で、ラナが、ドルチェが、必死に叫んでいた。
それでも、体は、動かなかった。
怪物を目の前に、体が言うことを聞かなくて。
キドにできることはただ、固く目をつぶってその苦痛に耐えようとすることしかできなくて。
頬を、一陣の風が吹き抜ける。その風は、どこか自然のものとは思えない不思議さで、キドの体にまとわりついた。
ノイズ混じりの絶叫が響いた。それが自分のものではないことを、キドは闇の中で呆然と聞いていた。
「……ソウルイーター。Aランクの魔物だけあって強いのはわかるけれど、掃除しきれないからって呼び出すのはおかしいと思うんだけどね」
聞こえて来たのは、この場には似合わないのんびりとした声。
ゆっくりと目を開いた先、枝葉の切れ間から降り注ぐ陽光によって逆光になった人影は、キドへと白魚のような細い手を伸ばした。




