681不幸少女と終焉の獣
終焉の獣。
それは、数多の世界を股にかけて、協定に背いた神を滅ぼすために存在する邪神であり破壊神。その本体は世界を一飲みにして余りある大きさと力を持っている、が。
今回世界に降り立った終焉の獣は、一匹のウルフ程度、全長三メートルほどのサイズをしていた。
その体も、気づけば六メートルほどに膨れ上がっていて。
シャルの時空魔法を受けても、何のダメージを受けた様子もなく、平然と宙を踏んで立っていた。
『グルァ』
ネチャリと、ヘドロのような液を伸ばしながら、大きな口が開く。
そして、その姿がシャルの視界から消える。
「ッ⁉」
襲撃を警戒したシャルの横をすり抜けて、終焉の獣は一直線に、滅ぼすべき神の下へと走り出す。
大きな口が、魔女の体を依り代に世界へと降り立った神を襲う。恐怖に体を硬直させる魔女は、無抵抗でその攻撃を食らい――
「っざけんなッ」
そんな怒気のこもった叫びと共に、魔女の体が横っ飛びに吹き飛ばされた。
魔女の体を抱きながら体当たりのようにその体を突き飛ばしたアーサーが、顔を苦悶の表情に歪める。
神を食らい損ねた終焉の獣が、大きな口で地面にかじりつく。
ガリゴリと大地を噛み砕きながら、獣はアーサーと魔女を睨む。
「……何、を」
「ふざけんなって言ってんだよ!それは魔女の体だ!魔女のものだ!自殺するのは勝手だけどな、魔女を死なせるんじゃねぇッ」
許容値を越えた感情が、涙となってアーサーの目から零れ落ちた。ようやく再開できた魔女、その体はしかし、魔女ではない者が乗り移って動かしていて。そんな怒りをぐっと抑え込んで、アーサーは魔女を逃がすために獣から離れようとして――地面を踏みしめることができずに、倒れこんだ。
「……!お前は、それは……」
神の視界には、食われて消えたアーサーの足が映って。驚愕に目を見開く神の視線を受けても、アーサーに反応する余裕はなかった。
四肢で地面をつかんだ獣が、アーサーへと跳びかかって。
「デイドリーム・ラビリンスッ」
夢の世界に相手を引き込むローザの魔法が、獣を襲う。魔物が世界に踏み入ることができるのは、ハティの件で不本意にも分かっていて、だからローザは、その獣を夢の世界に封じ込めることができると、そう思った。
漆黒の獣の輪郭が、揺らぐ。その体が、夢と現実の境界に立って――
バリン、と音が響く。
魔法が破られ、獣の輪郭が元に戻る。
『グルアアアアアアッ』
漆黒の方向、ローザを襲う。
「カースド・シールドッ」
転移でその間に割り込んだシャルが、暗黒魔法を放つ。だが、先ほどと違って指向性のある獣の咆哮の威力は段違いに高く、シャルの呪いの威力を上回る。
シャルの肌を、呪いが侵食する。その肌が、肉の一部が、消える。
まるで食われたように、その部位が感じられなくなる。
月の光が、シャルを包み込む。淡い緑の輝きがシャルを癒す――ことはなかった。その傷は変わらず、そこにあった。
咄嗟にソーマを浴びる。現在の傷ついた状態が「正常」になってしまっているとしても、ソーマと自動復元スキルが合わさればどんな古傷も呪いも癒える――はずなのに。
シャルの肌を流れる血が止まることはなかった。
「ヒスイ!」
「ディヴァイン・ブレス」
先ほどの破壊の咆哮を受けて血を流して倒れている、シリウスたちによってこの場に連れ去られた者たち。その回復を求めるシャルに応えたヒスイが、神聖魔法による回復を周囲にばら撒く。
あらゆる傷を復元とでも言うべき形で回復させる神聖魔法の聖なる息吹が周囲に広がる。
そして、その魔法を受けた者たちの傷が癒える――ことはなく。
シャルは、確信した。
この獣が与える傷は、現状どうあっても治すことができないと。
「ッ、サンダーレインッ」
さらに大きくなった七メートル、体高三メートルを超える獣へと、雷の雨を浴びせる。
ヒスイが、氷雪魔法を叩き込む。
ローザが悪夢へと相手を引きずり込む夢魔法を放つ。
イリガーが浄化魔法を、放つ。
アーサーが、片脚のまま、這うように魔女を連れて移動する。
魔女に憑依した神は、獣の出現を受けて相変わらず満足に動くことすらできず、アーサーに引っ張られる。目の前に存在する獣が、間違いなく自身より上位の存在だと、格上の神だと、そうわかってしまって。
そうわかる以上、神は抵抗する気力など持てるわけがなかった。
無数の魔法が、攻撃が、獣へと殺到して。
けれど、その攻撃が獣を傷つけることはなかった。
まるで、法則が違うとでもいうように、魔法は視界を封じることと足止めにしかならず、獣は傷つくことも力を消費することもなく、そこにいた。
「どうしろって言うのよ、ファウスト!」
悲鳴のようなローザの呼びかけに、ファウストが「ああ」と半ば呆然と言葉を返す。
その目は大きく見開かれ、神と、それから漆黒の獣を見ていた。
今なら、今の神に干渉すれば、力を奪えば、リィを生き返らせることができるかもしれない――そんな思いが、ファウストの心を揺らす。
だが同時に、最も神に近い使徒であるファウストは、目の前の獣の格を否応なしに理解してしまい、その圧倒的な力に飲まれていた。
「ファウスト!」
ローザが怒鳴る。頬が張られ、空高く音が響く。
「協力しなさい!頭を働かせなさい!何か方法はないの⁉」
この場で打開策を見いだせるとしたら、ファウストしかいないはずで。
視線を揺らすファウストには頼れないと、ローザは再び獣を食い止めるために戦場へと視線を向けて。
「……?」
ずるり、ずるりと、わずかに残る雪の上を這う極彩色の何かの姿がローザの目に映った。その色は、まるで浄化されるように、精製されるように白一色へと近づいていく。雪に、その姿が紛れて、けれど隠し切れない血の赤が、雪の中に映っていて。
「蛇?」
ぶわり、とその蛇から瘴気のような禍々しい、白い濃密な魔力が噴き出した。
頭部が半分ほど潰れてしまった蛇が、勢いよく動き出す。
漆黒の獣を斃すために集中していたシャルの周囲を、その蛇が――ウロボロスが、取り巻く。儀式に意識を奪われていたシャルは、ウロボロスが死んでいなかったことに気づけなかった。
「ッ⁉」
ウロボロスの口が、斬り落とされた自身の尻尾に噛みつく。
それは、ウロボロスの最後の足掻きにして、最大の呪い。
永遠を象徴する姿になったウロボロスが、己の全てを魔力に変換して、魔法を発動する。
「逃げるよ!早く!」
動きの止まったウロボロス。その体によじ登って、シャルに向かって手を伸ばす少女の姿が、シャルの目に映る。
「……オリアナ⁉」
反射的に、その手にシャルが手を伸ばす。転移で逃げることもできた。けれどシャルは、その手を取ることを選んで。
つるりとしたつかむところのない鱗で滑り、オリアナの体がウロボロスの内側へと倒れこむ――シャルと、一緒に。
そして、ウロボロスの魔法が、効果を及ぼす。
光に変わったウロボロスが、効果範囲内にいるシャルと、オリアナを永遠の牢獄に閉じ込めた。
「ッ、ウロボロスか⁉」
その現象の正体に真っ先に思い立ったヒスイが、顔を引きつらせる。
ウロボロス、呪いによってあらゆる魔法を発動できるSランクの蛇。その奥の手であるウロボロス最高の呪い「無限牢獄」。時間が止まり、精神時間だけが進む世界に対象を閉じ込める呪いの空間が、シャルとオリアナを襲って。
つい先ほどまでこの場に存在した儀式場、そのひとまわり小さいほどの純白の――中の見えない半球のドームが出現した。
「何なのよ⁉」
状況を理解できないローザが、悲鳴に似た叫び声を上げる。
漆黒の獣が咆哮を放つ。その呪いが周囲に満ちて――
「ホーリーブレスッ」
イリガーの浄化魔法が、終焉の獣に対抗すべく広がる。だが、威力が違う。制御力が違う。
イリガーの魔法は瞬く間に破壊の波にのまれてて、散り散りにされて――
『浄化に集中するといいいよ!』
イリガーの頭の上に乗っていた精霊猫――と融合したヴィヒテンガーが、叫ぶ。柔らかな風が吹き抜け、散らされかけていたイリガーの浄化の風をまとめ上げる。
ぶつかり合う聖と破壊の境界は、けれど少しずつイリガーたちの方へと進んでくる。
『ッ、力を望め!願いを叫べ!』
「……皆を、ローザを、守るために!力を!無力な俺に、力を貸してくれ!」
イリガーの叫びに応えて、ヴィヒテンガーの体が光のように溶け、イリガーと混じり合う。イリガーの灰色の髪が白く染まり、耳が生え、ひげが生え、手足が毛皮に覆われる。
精霊と融合したイリガーの浄化の魔法の勢いが増す。
「いっけぇええええええええッ」
浄化の風が、終焉の獣の破壊の力を吹き飛ばす。
その隙を逃さず、ローザが、イリガーが、ヒスイが、終焉の獣に攻撃を放つ。だが、それは上位の神の足止めにしては弱いもので。
獣の一鳴きで、強力な魔法はかき消される。
終焉の獣が、驚くべき速度で移動する。
まるで一瞬肉体という枷から解放されたように、光のような速度で大地を走り抜け、その咢を神に向けて――
「縮地ッ」
獣と神の間に割り込んだヒスイが、剣を振るう。その手にあるのは、先ほど吸血鬼始祖が大地に突き刺していた暗黒剣で。ヒスイに使われることを拒絶するように手のひらの中にびりびりとはじくような力が走る。その妨害を無理やりねじ伏せて、ヒスイが暗黒剣を振りぬく。
「はああああああッ」
暗黒剣は、漆黒の獣の頭部を深く切り裂いて。
一瞬で再生した獣の牙が、ヒスイの肩に食い込んだ。
「ぐ、あああああああッ⁉」
強烈な痛みが、魂を砕くような激痛が、ヒスイを襲う。
その手から、暗黒剣が落ちる。
漆黒の――どこを向いているかもわからない獣と、目が合った気がした。
ヒスイの意識が、遠のいて――
「ヒスイから離れろッ」
そんな威勢のいい声と共に、ボン、と獣の顔の側面で火魔法が爆ぜた。獣が嫌う匂いが、周囲に立ち込める。
「はあああああ!」
恐怖を押し殺して振りぬかれたレイモンドの剣が、獣の下あごに叩きつけられる。
ほんの一瞬、獣の顎の力が抜けて。
「キース!」
「――転移ッ」
莫大な魔力を消費しながら、キースがレイモンドとヒスイを転移によって救出する。
その直後、破壊の風が吹き抜ける。
魔力が残り少ないイリガーが、焦りをにじませながら魔法を発動しようとして。
「即興錬金!」
その横に並んだ少女が――ミッチェルが、錬金術で作り出した包帯を何十にも巻いたような球体を獣目がけて投げつけた。
カッ、とまばゆい白の閃光が迸る。浄化の力のこもった光が、獣の破壊の力を吹き飛ばした。
「シャルさん、シャルさんは⁉」
あたふたを周囲へと視線を彷徨わせるミッチェルが、シャルの姿を探す。
『グルァッ』
獣の咆哮が響く。ガリガリと地面を削る音が響く。
閃光が弱まり、視力が戻った視界。そこに、大地を食らい、体を大きくする獣の姿があった。
虚無のようだった獣の真っ黒な目には、けれど今、隠し切れない怒気がにじんでいた。すぐに終わるはずだった神と、世界の処分。それが上手くいかないことに憤る獣は、先に世界を壊すことに決めた。
今の神であれば直接食わなくても殺せると、そう判断してのことでもあった。
膨大な破壊の力が渦巻く。痛みに体を震わせながらも、ヒスイが立ち上がる。滅びに、立ち向かう。
けれど終焉の獣は、例え勇者という強者であっても、ただの人間一人がどうすることもできない力の化身で。
「――赤き月よ」
声が、響いた。絶望に染まる空間を、一人の男の声が走り抜ける。
鞄から取り出した儀式のための杭を、ロープを、紙を、風魔法や投擲で最適な場所に運びながら、一人のエルフが戦場に降り立つ。
「紅月よ」
空に上る真っ赤な月が、男の、リエトロの声に答えるように強く輝く。
「力を、封印の力を、世界にあだなす破壊の怪物を抑える光を!」
熱に浮かされたリエトロが、空へと手を伸ばす。ちらりと一瞬だけ視線を向けた先。こちらを見る神に、大丈夫ですと、見ていて下さいと、微笑んで。
空間をつかむように拳を握って。
そして、空から無数の血のように赤い光の鎖が、降り注ぐ。
『グルアアアアッ』
漆黒の獣に絡みつく紅月の封印の鎖。そこから逃れるべく、獣が暴れまわる。
巨体を抑えきれず、赤い鎖が次々と切れる。けれど、切れた側から鎖は再びつながって、獣を封じに掛かる。
眉間に深いしわを刻みながら、リエトロは獣を封じるためにスキルを発動し続ける。拮抗、していた。
明滅するように光り輝く月が、封印のための光を、供給し続ける。
獣が暴れる。
鎖がちぎれる。
獣の脚の一本が、しっかりと鎖に動きを止められて。
けれど、リエトロの顔はゆがむ。
気づけば、月の輝きが弱まっていた。
人為的に生み出した赤の月。その光は、有限のもの。
上位神を封じるという無茶によって、その月の光は勢いよく目減りしていく。
「……赤い、月……エルフッ」
ぼんやりと空を見上げていたファウストの顔に、生気が戻る。
訝し気なローザの視線を振り切って、ファウストは叫ぶ。
「リエトロ!この場にエルフを呼べ!」
「どういうことだ⁉」
極限の集中が必要な状況で、リエトロが苛立ちをにじませながら叫ぶ。わずかに乱れた制御の隙をつくように、せっかくつなぎとめていた獣の片脚が解放される。
「エルフをぶつけるんだよ!月の力から逆算して、エルフをこの場に召喚を――確か、キース君!」
俺か、と自分を指さしながらキースが首を傾げる。
「制御も魔力もこちらでやる。だから、時空魔法を――転移を!」
鬼気迫る様子で言われ、キースは慌てて転移をイメージする。魔力を変質させ、けれど、そこで止まる。対象も分からず、対象の座標も不明な状況でどうすればいいのか――そんなキースを誘導するようにファウストの魔力が支える。ファウストの手が、キースの額に触れる。
まるで父に抱き留められているような温かさを感じながら、キースはファウストの魔力に従って、感覚を伸ばす。
まるで空を飛んでいるようだった。自分という感覚が世界に広がり、そして、いくつもの存在を捉える。
「「――強制召喚ッ」」
言葉を重ねて、キースとファウストが叫ぶ。一層強く光り輝いた赤い月の光が急速に失われていく。
そして、その場に十人を超えるエルフたちが現れた。
「……あら、ファウスト?」
老婆姿をした冒険者ギルド総帥エレオノーレが、眉間に深いしわを寄せながらファウストを見る。
「げ、なんであんたがここに……ってどこやねんここは⁉」
小さな――少女ほどの身長の0級冒険者ミラクルが、ファウストを見つけて吠える。
「……フン」
乱雑に切られた髪を揺らす壮年の男、剣神オルドバが周囲のエルフたちに見向きもせず、漆黒の獣を睨みながら鼻を鳴らす。
「おー、他人に転移で無理やり引っ張られるのは久々だなぁ」
どこか楽しそうに、シャルの魔法の師匠でもある魔導王コニメルクが、手を握って体の感覚を確かめる。
「……チッ」
一度去ったにも関わらず無理やり呼び戻されたことに怒りをあらわにして、吸血鬼始祖エリーゼが舌打ちした。
他にも、風の使徒が、魔眼の使徒が、弓の使徒が、結界の使徒が、歌の使徒が、結界の使徒が――現在も生きている、大陸中に散らばって自由に生きるエルフたちが勢ぞろいしていた。
「さて、久しぶりだね。あるいは、始めましての顔もいるね。僕はファウスト、神によって最初に生み出されて、そして唯一神の記憶を有しているエルフだよ」
なんて挨拶は要らないよね、とつぶやき、ファウストは背後を手で指し示す。
そして、告げる。漆黒の獣の正体を。そして、世界を守るために頭を下げようとして――
「へ?」
再びエルフたちの方を振り向いたファウストの視界の中を、獣に向かって走るエルフたちの姿が通り過ぎる。
「……つまり、私たちは個である前に、世界を愛する神の欠片だってことね。心が叫ぶの。世界を守れ、この愛すべき世界を、救わなければならないとね」
小さく肩を竦めたエレオノーレがミラクルの手を取って、前に一歩踏み出す瘴気に侵されて、全盛期の力の十分の位置だって有していない二人は、けれどそれでも獣に立ち向かう。
その背を眩しそうに見送って、ファウストもまた滅びに抗うために、いったん頭からリィのことを追い出して戦うための準備を始める。
「……シャル、もしもの時は任せたよ」
視界に映った卵のような白い牢獄へとそんな言葉を投げかけて、ファウストは世界に散らばった己の力の破片を集め始めた。




