4不幸少女と夜の森
血の匂いがする柿の木のそばの危険地帯から全力で逃走したシャーロットは森の奥の方へと向かった。
視界が闇に閉ざされかけたところで、シャーロットは自分が何とか登れる高さに枝を持つ木を見つけ、その木の上で一夜を明かすことにした。疲労で重い手足を酷使して何とか樹上に上ったシャーロットは、ようやく一息つけると体から力を抜いた。
水魔法で水分補給をしつつも思考は止めず、考えるのは先ほどの戦闘と今後のこと。
「ウォーターボールの魔法は成功。ただし魔力消費と魔法速度が喫緊の課題ですね。後は対複数戦闘でしょうか。速度と精密性の高いニードル系の魔法で眼球を狙い撃つのが最適。となると射撃訓練ですね。それから食料と寝床の確保が必要ですよね。いくら気が抜けないといっても木の上ではロクに体が休まりませんし、雨天時のことを考えると洞窟を見つけるべきでしょうか。この状態で風邪でもひいたら一巻の終わりですよね」
戦闘から時間がたつほどに、自らの手で命を刈り取った嫌悪感は薄れていき、代わりに達成感だけがシャーロットを興奮させ続けていた。次の戦闘を想定するとともに、今後の生活を模索していくシャーロットの頭には、先ほど自分がゴブリンに一撃当てるのにどれほど気力を振り絞ったかなど、すっかり記憶に残っていなかった。
この世界で逆境の中生きてきた「シャーロット」の記憶があるぶん、明らかにシャーロットは日本で生活していた頃より図太くなっているのだが、本人にその自覚はなかった。
シャーロットが練った計画。まずすべきは生活空間の確保であった。雨と、できれば魔物の接近を妨害できる環境である。
「土魔法で洞窟を作って、入口をカモフラージュ。蔓で鳴子を作って、魔物の接近を感知しましょう。落とし穴なんかの罠も必要ですよね。土魔法も習得してから脱走しておくべきだったのでしょうかね。無計画がすぎますか……まあこれ以上あの環境にいるのはごめんでしたし、それに、正直に言うと公爵家に見つかって連れ戻されるのも断固拒否ですからねぇ……はぁ」
ないものねだりをしても仕方がないのだが、シャーロットには足りないものが多すぎた。戦闘能力、索敵能力、この世界の一般常識、武器防具やカバン、安全空間。
なければ手に入れるか、なくても大丈夫な応用力を身に着けておくべき。それはきっと、地球という生温い環境を思い出す余裕がある状態ではなく、逆境の中でこそ得られるものだ。
故にこそ、シャーロットは「死」という身の危険が大きい森の中へと足を踏み入れたのだ。
「死」を超える苦痛をシャーロットは知っている。「死」を超える悪夢の日々を過ごした経験が、シャーロットを逆境の道へといざなっていた。
『ワウォーン』
静寂を打ち破る咆哮が森一帯に響き渡り、シャーロットは浅い眠りから覚醒した。
高鳴る鼓動を抑え込み、息をひそめて闇夜をにらみつける。静かだった森は生き物の活力に当てられたようにざわめき、異様な空気感を生み出していた。
がさがさと葉がこすれる音が響き、シャーロットのいる場所の空気が少しずつ重くなっているように感じられた。
(近づいてきている⁉何が?なぜ?大きな音は出していないはずです。魔力感知系であれば手も足も出ないけれど、それは高位の魔物の力のはず。私を狙う理由は低い。……考えられるのはゴブリンの一件?だとしたら血の臭い?……なら、賭けに出てみるしかありませんか)
握りこぶしで胸を打ち、空回りする思考を引き戻す。考えていられる時間は少ない。
歯を食いしばり覚悟を決め、シャーロットは闇を見据える。
夜、森、咆哮、魔物との戦闘。
高速で回転する思考は、偶然にもシャーロットに最適解を引き当てさせた。
「(ウィンドフィールドッ)」
小声にて紡がれたのは風魔法。自身の周囲を取り囲む風の檻を作り上げ、匂いを上空へと逃がしていく。
代わりにガサガサと枝葉がこすれる音がして、シャーロットは樹上で身を縮こまらせた。
(消費魔力が大きい!それに音が……でも他に選択肢は浮かばなかった。……後は運勝負!)
ガサ、とシャーロットのいる場所の少し先から葉音が響く。魔力が抜けていく虚脱感に襲われつつも、太い枝に身を隠したシャーロットは闇の先をにらみ続ける。
(何かが光っている?二つの……瞳⁉)
視線の先、ぎらぎらと剣吞な光をたたえた深紅の瞳が揺れ動いていた。その瞳を見た瞬間、シャーロットの全身からどっと汗が吹き出し、心臓は縮こまり、シャーロットに死の恐怖を叩きつけた。
奇しくも、シャーロットとよく似た赤系の瞳。けれど両者の眼には狩る者と狩られる者、明らかに対照的な光を宿していた。
(……ッ勝てない!これが高位の魔物⁉こんなのが大群で各地を襲撃するバッドエンドを回避しろってあのクソ神ッ)
ゲーム知識に存在するバッドエンドの一つ、魔物の大反乱。敵国との戦争の秘密兵器開発時のミスによって引き起こされるそれは、各地に発生した大規模な魔力溜まりから生まれる強力な魔物に人々が蹂躙されるシナリオだった。
戦争では爆発エンドなどいくつかの理不尽な分岐はあるが、それはさておき。
思わず荒くなる思考は、理不尽な世界に自分を放り込んだ神への呪詛を多分に含んでいた。
『グルルルル……グゥ』
枝葉の隙間から差し込む月明かりに照らされ、魔物の上半身が闇に浮かびあがった。一メートルはありそうな体高。鋭い牙が生えそろう口から滴る唾液。濁りをもった仄暗い瞳は深淵を覗いているような根源的な恐怖を引き起こす。
数秒か、数十秒か。永遠の時に感じた対面は、魔物の再びの咆哮によって終わりを迎えた。
くるりと反転した狼タイプの魔物は、そのままわずかな葉音を立てて再び闇に沈んでいった。
喪失した圧迫感と魔力がなくなりそうな無気力感からあわてて魔法を解除する。
深い深呼吸を繰り返し、思考が安定してようやく、シャーロットは先ほどの魔物の瞳に感じた恐怖の中の一抹の違和感に思い当たった。
獲物を見定める剣吞な光の中にあった濁り。それは——
(——ひょっとして、目が見えてなかった?それにあまり耳もよくなかった?……だとすると、本当に幸運だったのでしょうかね……はははははっ)
ダークウルフ。
冒険者ギルドが定めるDランクの魔物にして、別名森の掃除屋。
厳しい生存競争の中、夜間死体を食べることによる食糧供給の確保によって種の生存を勝ち取った魔物。血肉を見つけ出すための嗅覚に特化し、代わりに視覚と聴覚のほとんどを失った狼タイプにしては珍しい魔物。
命の危険が去り、シャーロットは全身から力を抜いて幹にもたれかかり、ただただ小声で乾いた笑い声を上げた。
(あの化け物に、萎縮せずに立ち向かえることが第一関門ですかね)
ひとしきり理不尽な環境を笑い、そこへと自ら飛び込んだ自分の浅はかな行為を笑い、それからシャーロットは急に真顔に戻って空を見上げる。
葉と葉の隙間。闇の先には、輝くほどの星がちりばめられており、夜の森に確かな光を注いでいた。
シャーロットは手のひらを突き出し、星へと手を伸ばす。まるで届かないものに必死になって手を伸ばす幼い子供のように、憧憬を目に宿らせたシャーロットは、ただただ空を見上げ続けた。
この魔物との出会いによって、シャーロットは戦闘能力向上へひと際力を入れていくこととなる。