292不幸少女とマッドグリズリー
誤字報告、ブックマーク、評価、感想、いいね、ありがとうございます。
「すごい……」
呆然と、ただ目の前で繰り広げられる蹂躙に、座り込む少年がつぶやく。その言葉を聞き取った隣の女性は、わずかに口を動かすも何一つ言葉にならず、ただ一心にシャーロットの戦いの結末を——自分たちの生死がかかったその行く末を見つめていた。
『グルルルアァァッ』
「ん⁉」
ひときわ強い、そして純粋な混じりけのない殺意を放つ個体の出現と同時に壁に存在した闇が消える。ダンジョンのギミックによる魔物部屋は最期を迎え、死屍累々の魔物たちの中にその存在が躍り出る。
「マッド、グリズリー?」
それはもうシャーロットにとってはずいぶんと昔、ラーデンハイドの森で出会った魔物と同一の種だった。違うのは歴戦の跡がないきれいな灰色の毛皮と、あの時の個体より一まわりほど大きな体格。
かつて身を隠し、その存在が遠くへ立ち去るまで恐怖に震えながら息をひそめて時を待つしかなかった強者が、今再びシャーロットの前に姿を現した。
『グルァッ』
そのシャーロットの胴周りの二倍はありそうな四肢を使った助走もない急発進で、マッドグリズリーがシャーロットへ迫る。襲い掛かる魔物の口からわずかに赤い揺らめきが見えた時点で、シャーロットは全力で地面を蹴って突進を躱す。
「ストーンウォールッ」
地面から壁がせり上がるのと同時に、マッドグリズリーの口から灼熱の息吹が放たれる。その炎はダンジョンの壁の一部を流用したはずのシャーロットの防壁をたやすく溶かし、外套の端を燃え上がらせる。
「ッ、ウォーターボールッ」
『ガアアァァァッ』
溶けた地面から不快なにおいと共に白煙が立ち込め、マッドグリズリーの視界を遮る。外套の火を消し、その水を持ってマッドグリズリーの呼吸を封じようとしたシャーロットの攻撃は、その強烈な衝撃波をまき散らす咆哮により白煙と共に雲散霧消した。
「ストーンニードル、サンド……ストームッ」
地面から斜めに突き出した円錐状の針はただの一筋の傷を負わせることもできず、マッドグリズリーの突進により砕かれる。
速度の落ちない突撃をかますマッドグリズリーは、けれどシャーロットのもとにたどり着く少し手前で跳躍する。
その筋肉質な巨体が宙に浮かぶ。振り上げられた右腕は身体強化に類するスキルを発動したのか極端に肥大化し、毛皮の上からでもわかるほどに脈打っていた。
シャーロットの背後には冒険者たち。前方から飛来するマッドグリズリーを止められなければ、勢いそのまま大地を滑り彼らをひき肉にするであろうことは容易に予測できた。
一瞬の逡巡の後、シャーロットは背後の二人をかばう選択をする。高く分厚い壁を土魔法で作り上げ、それを時空魔法により空間ごと固定。さらに土壁の前に水の壁を作り出し、緩衝壁をこしらえる。
「空間固定ッ」
それだけやって、そこまでやってなお、マッドグリズリーはその全てを破壊し、シャーロットへその凶爪を届かせる。
「いやあぁぁッ」
鮮血が舞う。同時に、絹を引き裂くような悲鳴が狭い部屋に響き渡った。それはシャーロットの死を予感してのものか、あるいは自分の死への恐怖か。
「うる、さいです……よッ」
腕を振り下ろした格好でシャーロットへ体当たりをするマッドグリズリー、その肩を受け止め地面を滑りながら、それでもシャーロットはマッドグリズリーを抑え込んだ。
二人とシャーロットたちとの距離は数メートルを切っていた。つまり、これ以上押し込まれれば二人は分不相応な戦闘に巻き込まれ、その命は保証できなかった。
「ッ、こ、この……光よ敵を貫け!ライトニングスピアッ」
「ッ、透過せよ、ペナトレイションッ」
女性が——十代後半ほどと思われる彼女が、震えながら伸ばした手。その手のひらからまばゆい光線が放たれ、一直線にマッドグリズリーへ——その体を押しとどめるシャーロットの肩に突き刺さらんと迫る。
シャーロットの肩を貫くかと思われたその一撃は、けれど外套の肩部分をわずかに焦がし、次の瞬間にはシャーロットの体に一切のダメージを与えることなくマッドグリズリーの腕に突き刺さった。
相棒の暴挙に慌てながらも対応して男が発動した魔法により、どういうわけか光線はシャーロットの肩に一切のダメージを与えることなくすり抜けていた。
『グルアアァァ⁉』
ジュッと肉の焼ける音と共に、マッドグリズリーの腕の力が弱まる。同時に痛みからがむしゃらに振り回された反対の腕と、それから頭部がシャーロットを襲い、宙へ跳ね飛ばす。
「ディメンションシールドッ」
跳ね飛ばされたシャーロットの体が見えない壁——空間魔法によって生み出された空間が断裂した場所にぶつかり、跳ね返る。衝撃で内臓が激しく揺れ、口の中に血がにじむ。
けれど強く歯を食いしばって集中し、シャーロットは千載一遇の一撃に全力を込める。
「サンダーボール——魔纏ッ」
短刀の先に作り出された雷が、その刃に宿る。薄紅の刀身にまばゆい閃光が宿り、それが一直線にマッドグリズリーの頭頂部へ突き刺さる。手袋が血でぬれていたこともあり、柄を握る手からシャーロットの体内へ雷が流れ、筋肉が収縮してギリギリと短刀を握りしめる。その痛みを、脳の悲鳴を無視して、シャーロットはがむしゃらにその刃を突き立てた。
その丈夫な毛皮を貫き、肉へと潜り込んだ刃先から、短刀に纏わせた雷が体内を蹂躙する。
『グガアアァァァァッ⁉』
プスプスと体から煙を上げながら、マッドグリズリーの体から力が抜けて地面へと倒れこむ。そのまま深く、深く、頭蓋骨を突き破り脳まで届いた短刀の刃により、マッドグリズリーは物言わぬ死体となる。
「か、はッ⁉自己治癒……」
貧血からくる立ち眩みと雷による心不全でシャーロットがバランスを崩し地面に手をつく。幸いと言うべきか、心臓のおかしな鼓動は自己治癒スキルによってすぐに回復した。
だがそれは、シャーロットがこの戦いで初めて見せた致命的な隙で、だからこそ血に飢えた魔物はそれを見逃さなかった。
すぐそばに斃れていた瀕死のワニ型の魔物が、がぱりとその口を大きく開き首をひねる。シャーロットの体の下に下あごを滑り込ませれば、思わぬ攻撃により地面についていた手を振り払われる形となったシャーロットの胴体が、その口に真横に乗っかる。
後は自重に従った口を閉じればそれの勝利となるはずで——
「ライトボールッ」
そこで熱を持った光の球が魔物の上あごを襲い、その根元から燃やし尽くした。
『~~~⁉』
痛みと、それから熱によって脳がダメージを負って死に至ったレッドアリゲーター。その下あごの上で、魔法の余波に軽く焼かれたシャーロットが眉間に深いしわを刻みながら自己治癒スキルの効果を引き上げた。
「…………はぁ」
牢獄のように周囲を取り囲んでいた高い壁が、そこでようやく崩れ始める。音を立て、がれきとなって積み上がるそれは瞬く間に地面へと取り込まれていき、その殺戮の小部屋は消失した。




