少女
魔術実践の試験が終わった。
今日まで必死に取り組んできた全ての成果を測る試験だけあって、厳しく、そして難しかったが、それでもとにかくやり遂げた。
寮への帰り道。
アルマークは心地よい達成感に浸っていた。
日はとうに落ち、すっかり夜になっていた。
今日の試験を終えた最後の生徒であるアルマークが校舎を出る頃には、他の生徒はもう既に一人として残っていなかった。
試験の終わった後でイルミスが模範解答を見せてくれたために、さらに遅くなってしまったせいもあるだろう。
2組の生徒はもちろん、他クラスの生徒の姿もなかった。
アルマークは一人、歩き出した。
この一年間歩き慣れた木々の間の道を、明かりもつけずに歩く。
夜目が利く、というほどではないが、アルマークの鋭敏な視覚は、微かな自然の明かりだけでも歩くには困らなかった。
この時間でさえ寒さがだいぶ緩んでいるのが、アルマークにも分かった。
春は近い。
蛇だったのか。
アルマークは思った。
思い付かなかった。
確かにイルミス先生に急かされたし、考える時間はあまりなかった。
だけど、あまりにも盲点だった。
蛇、とアルマークは呟いてみる。
先生の言う通り、自分でも無意識に避けていたのかもしれない。
他のみんなは、ウェンディは、すぐにこの答えにたどり着いたのだろうか。
そこまで考えてから、アルマークは自分の右手を空に掲げた。
考えたって仕方がないか。
先生が鍛えてくれた力も。
アルマークはイルミスの言葉を反芻する。
仲間が鍛えてくれた力も。
闇と戦うことで鍛えられた力も。
全部、僕の力だ。
そう心の中で呟いて、右手をぐっと握る。目には見えない、その力を握りしめるように。
手を下ろし、アルマークは暗い夜空を見上げた。
そうだ。北でもそうだったじゃないか。
今日の空には雲がかかっている。北極星は見えなかった。
だが、アルマークは思い出す。
自分一人で剣を振り続けた日々も。
父の背中を追って戦場を駆けた日々も。
南をひたすらに目指し、たくさんの哀しい出来事の脇をただ通り過ぎてきた日々も。
そのどれもが自分の剣を鍛えるための糧になった。どこからどこまでが自分一人で、どこからどこまでが戦場で鍛えられた、なんて明確に線を引けるものじゃない。
僕の力だ。
アルマークはもう一度、思った。
それが自分を生かし、ウェンディを守るために役立つのなら、力の由来などなんだって構いはしない。
そのとき不意に、アルマークはその気配を感じた。
それは、ウェンディがアルマークの背後から歩み寄ってくるときの空気とよく似ていた。
うまく言葉にすることができないが、心がじんわりとするような、胸の奥がくすぐったくなるような、優しく暖かい気配。
けれど、ウェンディとは少し違う。
どこが違う、ということもうまく言葉にはできないけれど。
「灯の魔法も使わないのね」
穏やかな声。
アルマークは、その声の方を振り向いた。
「ああ」
頷く。
闇の中に、白い肌が浮き上がるように見えた。黒髪の少女が、優しい眼差しでアルマークを見ていた。
「クラン島で会ったばかりだね」
アルマークは言った。
「君が僕の前に姿を現すときは、いつも闇の力が迫っている時だ」
そう言って、右手を少女に見せるように差し出す。
「でも、蛇の罠は全部消えたよ」
「そう。良かった」
頷いて、少女も自分の右手をそっと差し出した。
その手の上に、炎が宿る。
灯の術。
アルマークは微笑んだ。
「君は初めて会ったときも、灯の術を使っていたね」
「そうだったかしら」
灯に照らされた少女の顔が微笑む。
「暗いところで会うことが多いからかもしれない」
「そうだったかな」
アルマークは首を傾げる。
「確かに、色々なところで君に会った気はするけれど」
アルマークの言葉に、少女は頷く。
「ええ。あなたはいつも私を見付けてくれた」
「そんなに大げさなことじゃないよ」
アルマークは首を振った。
「僕こそ、君の言葉に何度も助けてもらったんだ」
最初は武術大会のときだったか。
少女の悲痛な叫びを聞いて寮へと走ったアルマークは、マルスの杖を持ち去ろうとしていた銅貨の魔術師たちを屠ることができた。
次に出会ったのは、魔術祭の前日だった。
少女の言葉は、ライヌルの邪悪な誘惑に負けそうになったアルマークの心を支えた。マルスの杖は、ついにライヌルの手に渡ることはなかった。
そして、クラン島。
少女の言葉がなければ、アルマークはマルスの杖を手にしたまま“銀髑髏”の凶刃に斃れていただろう。だが、アルマークは杖を手放して剣を握ることで活路を見出した。
少女の言葉はその全てが、闇、そしてマルスの杖に関わる危機からアルマークが逃れるための助けになった。
しかし、今日この少女が現れたということは。
アルマークは、少女の白い顔を見た。
「君が現れたということは、また闇が来るのかい」
その言葉に、少女は表情を改めた。
「アルマーク。次に来るのは、今までで一番大きな力よ」
アルマークもそれを聞いて表情を硬くする。
「今までで一番、か」
最も大きな力といえば、思い当たるのは一人だ。
「ライヌルが、来るのかい」
だがその質問に、少女は曖昧に首を傾げる。
「とても強くて、とても悲しい力。真っ黒で、ぐるぐると渦を巻いて。でもその渦の中心にその人はいない」
奇妙な、預言めいた言葉。まるで、星読みのような。
アルマークは直截的な疑問を口にした。
「それはいつ来るんだい。今日か、それとも明日か」
「分からないわ」
少女は首を振った。
「私の時間は、あなたたちとは少しずれたところを流れているから」
「そうか」
アルマークは頷く。不可思議な存在である少女が、アルマークたちと同じ時間を共有していないとしても、それはやむを得ないことのように思えた。
「でも、今までも君が姿を見せた後は、いつもすぐに闇が来たんだ。気を付けるようにするよ、ありがとう」
その言葉に、少女はまた曖昧に首を振る。
「とても強い力だけど」
少女の目が心配そうに揺れた。
「どうか、屈さないで」
「大丈夫」
アルマークは答えた。
「みんなが僕たちの力になってくれるって言ったんだ。もう、僕とウェンディだけじゃない。モーゲンも、みんなもいる」
「そう」
少女はほっとしたように頷く。
「そんな仲間が、あなたとウェンディにも」
「うん」
アルマークは力強く頷いた。
「だから、負けないよ」
目を瞬かせた少女に、アルマークはもう一度繰り返す。
「絶対に負けない」
「頼もしいわ」
少女は目を細めた。
「アルマーク。そうね、あなたならきっと」
少女の姿が薄くなっていく。それはまるで、魔術祭の劇でのウェンディのようだった。
「ウェンディを信じてあげてね」
消えかけた少女が言った。切実な声だった。
「アルマーク、お願い。信じることを恐れないで」
「……うん」
アルマークが頷くと、少女は微笑んだ。寂しそうな笑顔だった。
「ウェンディを、どうかお願いします」
少女が頭を下げる。
その姿が、風に流れるようにして消えた。
アルマークはしばらくの間、少女がいたあたりを見つめていたが、やがて踵を返した。
アルマークは足早にイルミスのいる校舎へと戻っていった。




