医務室
医務室で、セリアに作ってもらった薬湯を飲まされたウェンディは、そのまま目を覚ますことなくベッドで昏昏と眠っていた。
イルミスはセリアに深刻な表情で何か囁き、二人で連れ立って外に出るとずいぶん長いこと医務室に戻ってこなかった。
アルマークは念のためにと渡された薬湯を飲んだ後は、ウェンディの傍らを離れなかった。
薬湯には即効性はない。
ウェンディの顔はまだ真っ白のままで、なかなか赤みは戻ってこなかった。
アルマークはその長い睫毛を見つめながら、今日本当はウェンディに言うはずだった言葉を繰り返し思い返していた。
「ウェンディ」
目を覚まさないことが分かっていて、聞かれないのをいいことにアルマークはそっと囁いた。
「僕に、ついてきてくれるかい」
口に出してみてから、恥ずかしくなって首を振る。
とても言えたもんじゃない。
そもそも、ついてきてくれって、どこに連れて行くんだ。この季節に。
トルクめ。よく考えたら、海も山も寒いじゃないか。
場違いもいいところだ。
言わなくてよかった。
ライヌルの邪魔が入って、それだけは良かったと思う。
一人で赤くなったりもぞもぞしたりした後で、アルマークは改めてウェンディの寝顔を見つめた。
その顔を見ていると、それだけでじんわりと暖かい気持ちが込み上げてくる。
「ありがとう、ウェンディ」
別にそれは恥ずかしくもなんともない、いつもことあるごとに口にしている言葉だったが、アルマークはその閉じたままの瞳を見ながら、ゆっくりと噛みしめるように言った。
「いつも僕を助けてくれて」
長い旅を経て、この学院に入学してから今日までのことを、アルマークはゆっくりと思い返した。
魔法の灯りをともしたランプが、じじっと低い音を立てた。
最初の出会いから今日まで、ウェンディは常にアルマークの力になってくれようとしていた。
僕はどうだろう。
その恩に、どこまで報いることができただろう。
まだ何も返せていない。
僕は、ウェンディにまだ何も。
その心に、底の方から黒い雑念がよぎる。
アルマークは一瞬息を止めた。
ライヌルの言葉が蘇る。
アルマーク。鍵を護る者。
生まれながらに運命と役割だけを背負わされた、憐れな人形につけるに相応しい名前。
ライヌルに面と向かって言われたときの、あの心を全て灰にされてしまうような絶望感はもう襲ってはこない。
おそらくあの絶望感、虚無感はライヌルの闇の魔術が生み出したものなのだと、今なら分かる。
こうして静かな場所で落ち着いてじっくりと思い出してみると、はっきりとした苦しさは感じないが、それでもじわりとした胸の痛みがあった。
両親が自分の名前にどんな意味を込めたのか、アルマークは訊いたことがなかった。
物心つく前から自分の名はアルマークであり、そのことに何の疑問も抱かなかった。
アルマークがアルマークであり、ガルバはガルバで、メリーはメリーであることに意味などなかった。全てこの世はそういうものなのだと思っていた。
だが、確かに言われてみれば、父レイズと母シェティナが自分たちの子供にアルマークという名をつけたのだ。
そこには何か願いや希望、そういった意味があったのではないか。
鍵を護る者。
その意味を、自分はどう飲み込めばいいのか。
ライヌルはウェンディを、門、と呼んでいた。
そしてマルスの杖はアルス、鍵であると言った。
門を開く鍵と、それを護る者。
マルスの杖が輝いたときのウェンディの痙攣。
この先、あんなことがウェンディにまた起きるのだろうか。
自分はウェンディの傍にいてもいい人間なのだろうか。
医務室のドアが開いて、イルミスとセリアが戻ってきた。
セリアはその美しい切れ長の瞳を真っ赤に腫らしていた。
泣いたんだ、ということがアルマークにもすぐに分かった。
ライヌルはイルミスとのやり取りの中で、セリアという名前を出していた。
きっと、この3人の間にはかつて何かがあったんだろう。
セリアはウェンディの様子を見て、寝息が安定しているのを確かめると、アルマークに、あなたももう部屋で休みなさい、と穏やかな声で言った。
「いえ」
アルマークは首を振った。
「まだいます」
「もう今日は目を覚まさないと思うわ」
セリアは静かに釘を刺す。
「状態も安定しているし、心配は要らない。あなたがここにいても、できることはないわよ」
「それでも、います」
アルマークは頑なに首を振った。
「いさせてください」
セリアは困ったように片眉を上げてイルミスを見た。
イルミスは苦笑して頷く。
「セリア、好きなようにさせてやってくれ」
「ここにいるなら、夜は冷えるわよ」
セリアは諦めたように言った。
「毛布を取ってくるわ」
そう言って、また部屋を出ていく。
イルミスはそれを見送ると、アルマークの隣に腰掛けた。
しばらく無言の時間が流れたが、やがてアルマークはイルミスを見上げて尋ねた。
「あの人、ライヌルという人は」
一瞬、どう訊けばいいかと言葉を探す。
「先生とは、仲が良かったんですか」
イルミスが意外な顔をする。
「どうしてそう思うのかね」
「あの人は、ウェンディを傷つけたし、闇も操った。おそらく悪い人、なんだと思うんですが」
アルマークは言い淀んだ。
「僕はここに来るまでに一人でずっと旅をしてきたから、なんとなく分かるんです。悪い人や、良くない人が。でも、あの人からはそういう感じがしなかった。もちろん、闇を出すまでの話ですが」
「そうか」
イルミスは頷いた。
「悪い人。どうだろうな」
そう言って、考え込む仕草をする。
「どんな人なんですか」
アルマークの問いに、イルミスは考え込んだ難しい顔のままで答える。
「ライヌルは、この学院で私とセリアの同級生だった。才能に溢れた男でね。魔術も武術も、初等部から高等部までずっと一番だった」
「えっ」
アルマークは小さく声を上げる。
「イルミス先生よりも上だったんですか」
「無論だ」
イルミスは頷く。
「どんなに努力しても、工夫しても彼には敵わなかった」
「そんな」
アルマークは先ほどのライヌルの姿を思い出す。
イルミス先生よりも上だったなんて。
確かにまだ得体の知れない力を持っていそうだったが、そこまでとは思わなかった。
「それでいて彼はまるで偉ぶらなかった」
イルミスは言った。
「だから彼の周囲には人が集まった」
「でも、先生だって」
「私は知っての通りの性格だ」
イルミスは薄く笑う。
「彼のような人気者には程遠かった。友人も少なかった」
「それなら、どうして」
アルマークは尋ねた。
「どうしてあの人は、闇の魔術師になったんですか」
イルミスは苦いものを噛んだような顔をした。
「ライヌルは、高等部三年のある日、突然学院を去った」
「えっ」
「なぜ学院を出ていったのか、正確な原因は私も知らない。もしかしたら、そこに彼が闇に走った理由があるのかも知れないな」
「……そうですか」
アルマークはうつむいた。
手で、マルスの杖を弄ぶ。
「あの人は、この杖を欲しがっていました。ものすごく」
イルミスが、マルスの杖をちらりと見る。
「どうにかして僕が自分からマルスの杖を手放すよう仕向けていました」
「そうか」
イルミスは頷いた
「よく、手放さなかった。君がその杖の所有者である以上、ライヌルがそれを手に入れる方法は二つしかなかった」
「二つ」
アルマークはイルミスを見る。
「僕があの人に自分で杖を渡すことと」
「それと、君を殺すことだ」
イルミスは言った。
「ライヌルがマルスの杖を手に入れるには、その二つしかなかった」
「どうしてあの人は僕を殺そうとしなかったんでしょうか」
アルマークはぽつりと言った。
「きっと、その力はあったのに」
「君を殺して手に入れたところで、ライヌルが杖から所有者と認められるわけではないからな」
イルミスは答える。
「何か思惑があったのだろうが、はっきりとは分からないな」
「そうですか」
アルマークは、マルスの杖を持ち上げて、ランプの灯りで照らす。
「アルス」
そう呟く。
「古代語で、鍵だそうです。あの人はそう言っていました」
「そうか」
イルミスは頷く。
「他には何か言っていたかね」
「この杖は鍵で、ウェンディが門だと。それから」
僕の名は、鍵を護る者、だと。
それは口に出せなかった。
こんな状態のウェンディを目の前にして、自分の名前のことで悩んでいるとは思われたくなかった。
「門って、何なんですか」
代わりにアルマークは尋ねた。
「この杖が光ったら、ウェンディにものすごい魔力が押し寄せてきて、あの人はそれを、門が開いたと言っていました」
「門か」
イルミスは苦い顔をした。
「それを君だけに話すのは、不公平だろうな」
そう言って、眠り続けるウェンディを見る。
「ウェンディが元気になったら二人で来たまえ。その時に話そう」
「分かりました」
アルマークが頷いた時、ドアが開き、セリアが毛布を持って入ってきた。
それをアルマークの肩から優しく掛けると、セリアは穏やかに尋ねる。
「いつまでいる気なの」
アルマークは無言で首を傾げた。
「あなたがいてもできることはないからね。無理はしないで、あなたも休みなさい」
「はい」
アルマークは頷いた。
「でも、もしウェンディが目を覚ましたときに誰もいなかったら」
その時のウェンディの気持ちを想像するだけで、アルマークの胸は締め付けられる。
「きっと寂しいだろうから」
イルミスがその肩を優しく叩いて立ち上がる。
「明日が君たちの劇の本番だろう」
「はい」
「自分の思いを通すのも結構だが、クラスの仲間に迷惑はかけない程度にな」
イルミスとセリアが医務室を出ていくと、アルマークは毛布を頭からかぶった。
北育ちの彼にとっては南の冬の寒さなどどうということもなかったが、それでもすっぽりと毛布をかぶり、椅子の上で膝を抱えた。
ウェンディの寝顔をじっと見つめながら、アルマークは考えていた。
自分の運命。
名前の意味。
マルスの杖。
鍵と門。
北の傭兵。
その息子である僕は、ウェンディの命を危険に晒すマルスの杖の所有者にまで選ばれて、本当に、ウェンディの傍にいてもいいんだろうか。
静まり返った医務室の中で、アルマークはただ、そんなことを考え続けた。




