風
ウェンディの右手が輝きを放つ。
「すまない」
アルマークがうめくように言った。
「敵を見誤った。他にも魔物がいることくらい分かっていたのに」
「大丈夫」
ウェンディはアルマークの胸の傷から目を離さない。
その整った顔が、自らも苦しそうに歪む。
「喋らないで。今は傷の治療に専念して。モーゲンが何とかしてくれるから」
「そうか。モーゲンが」
アルマークの表情が微かに和らぐ。
自分たちを守るように立ちはだかるモーゲンの背中が見えた。
そうだな。モーゲンがいてくれるなら、安心だ。
アルマークは深く息を吐いて目を閉じる。
焼け付くような痛みが、徐々に和らいでいく。
生ぬるい風。
腐臭。
ボラパが甲高い声を発する。
巨大さを増した火球から、炎の蛇が二匹。それと全く同時に闇の矢が放たれた。
モーゲンは杖を高く掲げる。
化け物め。そんな声を出したって怖くないぞ。
モーゲンは目を凝らした。
先に届くのは、闇の矢だ。
モーゲンの杖が光り、闇の矢を見えない盾が粉砕する。
手に持つ杖がきしむ。
間髪いれずに襲ってくる炎の蛇をさらにその盾で防ぐ。
壊れそうになる盾に魔力をつぎ込んで支える。
ボラパは自らの攻撃を防がれても、何の反応も見せない。
何を映しているのか分からない瞳は、一応はモーゲンの方に向けられてはいるが。
攻撃が止んだ一瞬の間に、モーゲンは杖を下ろして息をつく。
しかし、次の瞬間にはボラパの声の調子が変わる。
連続で襲ってくるボラパの魔法を、モーゲンは全神経を集中して防いだ。
ああ、こんなことなら1年生のときからもっと必死に魔法の練習に励むんだった。
心の中でそうぼやく。
今までも必死にやっているつもりではあったけれど、どうも自分の取り組みがまだまだ甘かったらしいと気付かされたのは、夏の休暇での、あの事件の時のことだ。
自分に寄せてくれるアルマークの信頼を裏切りたくなくて、モーゲンはそれから毎日魔法の特訓に励んだ。
今、まがりなりにも闇の魔物の攻撃を防げているのは、ウェンディの撒いてくれた護りの水の効果もあるけれど、間違いなくあの日から今日までの取り組みのおかげだ。
ボラパの攻撃が、一瞬途切れる。
その瞬間にだけ、モーゲンは呼吸をした。
ボラパまで、二十歩。
この一瞬にこの距離を駆け抜けようとしたんだ。
モーゲンはあらためて、アルマークの強さを思い知る。
僕が息を吸って吐く、この瞬間に、アルマークはボラパを斬ろうとしていた。
そして、きっと邪魔が入らなければそれをやり遂げていた。
なんてすごいんだろう。
僕の友達は。
ボラパの火球が、また一回り大きくなった気がした。
炎の蛇が放たれる。
今度は三匹もいる。
疲れ知らずだ、このボラパってやつは。
モーゲンは見えない盾を作る。
ウェンディと違って、使える魔法の種類は多くない。
威力も心もとない。
その中で、敵の攻撃を防げるのは、きっとこの不可視の盾の術だけだ。
初めて習ったときは、まさかこんなに早く使うときが来るなんて思ってもみなかった。
僕は盾なんか使わないよ。そんな危ないところに行かないから。
授業が終わったあとに、ネルソンにそんな話をしたっけ。
ああ、やっぱりちゃんと練習をしなきゃダメだ。真面目に取り組まなきゃダメなんだ。
だって、その時がいつ来るかなんて、分からないんだから。
傷ついた友達を背に、自分の力だけを頼りに杖を構えなきゃならない時が。
モーゲンはそれを痛感しながら、ボラパの攻撃を見極める。
アルマークの認めてくれた、コルエンを驚嘆させた、その目の良さで。
今度は、蛇の方が矢より少し速い。
とととん、とん、だ。
全神経を集中して、盾を張り巡らせる。
一撃ごとに、モーゲンの身体まで痺れるほどの衝撃が襲ってくる。
一撃ごとに、盾に綻びができる。
その都度、魔力をつぎ込んで盾を瞬時に修復していく。
どうせ、今だけだ。
モーゲンは自分に言い聞かせる。
このままここで魔力を全部使い果たしたっていいんだ。
僕の後ろには、アルマークがいる。
アルマークを治療しているのは、ウェンディだ。
二人がどうにかしてくれる。
僕は全力で自分の役割を果たせばいい。
モーゲンの顔に生ぬるい風が吹き付けてくる。
そこに混ざる腐臭。
ああ、いやだ。
こんな怖いこと、早く終わらせて帰りたい。
杖を掲げる腕が震えてきた。
本当に、もっと早くから必死に取り組んでおくんだった。
モーゲンはまた考える。
そうすれば、アルマークだってあんな怪我をせずに。
ボラパの声の調子が徐々に変わってきていた。
モーゲンは一瞬の隙にちらりと後ろを振り返る。
必死な顔のウェンディ。
目を閉じているアルマーク。
傷の状態まで確認はできなかった。
でも、大丈夫だ。
ウェンディがあんなに必死に取り組んで、ダメだったことなんて今まで一度もない。
盾を展開して闇の矢を防ぐ。
そういえば、ウェンディには悪いことをしたな。
やっぱり薬草を焼いた話はしないでおけばよかった。
炎の蛇が四匹。どんどん数が増えてくる。
こっちの盾はどんどん小さくなってるっていうのに。
それでも、防ぐ。防ぎ続ける。
モーゲンの全身は気づかないうちに汗でびっしょりになっていた。
ボラパが吼える。
闇の矢が三つ。炎の蛇が四匹。
嘘だろ、魔力が無尽蔵じゃないか。
速いのは、闇の矢。三つも受けたらもう盾が限界だ。
それでも盾を出す。
どうにか三つの矢を受けた直後に、四匹の炎の蛇がモーゲンを襲った。
盾が消える。
受けきれない。
ボラパの発する声が一瞬、ぴたりと止んだ。
炎の蛇が、宙に舞っていた。
受けられないなら、受け流す。
モーゲンの手の中に渦巻く、風の力。
魔法の炎なら、魔法の風で散らせる。
イルミス先生は、僕たちに生きていけるだけの魔法を授けてくれているんだ。
まだやるぞ。
モーゲンはボラパを睨み付けた。
来るなら、来い。
その瞬間、生ぬるい風に混じる腐臭が濃くなった気がした。
悪い予感。
ボラパの双頭が、同じ声を発していた。
ボラパの前に浮いていた火球がさらに膨れ上がる。
まさか。
モーゲンの顔が恐怖で歪む。
火球が徐々に高度を上げていく。
あれを、そのままこっちにぶつけるつもりか。
モーゲンたち三人を丸々飲み込んでもまだ余裕がありそうな巨大な灼熱の塊。
防げるわけないじゃないか。
奇妙な囀ずりのようだったボラパの二つの声が、今では完全にぴたりと揃って一つの音を発していた。
あんなのを食らったら、ひとたまりもない。
絶望がモーゲンの心を包む。
どうしようもない。僕なんかの力では。
足が震える。
腕が萎える。
ごめん、アルマーク。僕の力じゃ、やっぱり。
しかしその時、モーゲンの脳裏をよぎったのはやはりあの言葉だった。
大丈夫。僕と君がいるんだ。なんとかなるよ。
アルマーク。
モーゲンは唇を噛む。
いつも君がそうやって僕を。
武術大会の時に、コルエンとの試合の後でアルマークに言おうとして、途中でやめた言葉。
モーゲンは最後の勇気を振り絞って杖を構え直した。
いつも君がそうやって僕を買いかぶるから。
だから僕はいつも、自分の限界を超えて頑張る羽目になるんじゃないか。
風の魔法は苦手だった。
でも、北の傭兵を窓の外に吹き飛ばしたあの日から。
自分の一番信頼できる魔法は、ずっとこれだ。
ボラパの二つの口が、同時に叫んだ。
限界まで膨れ上がった火球が三人めがけて落とされた。
僕は、もういい。
後は、アルマークがやってくれる。
モーゲンは足を踏ん張って、杖を高く掲げた。
全部やる。
僕の魔力は全部やるから。
もうこれで一生魔法が使えなくなってもいい。
だから、どうかこの火球を止めさせてください。
火球に向かって風が吹き上がった。
火球の凄まじい熱量。
そこに、モーゲンのありったけを込めた風が吹き付ける。
止まれ。
止まれ止まれ止まれ止まれ止まれ。
モーゲンはその一瞬に全霊を注いだ。
足元のウェンディの護りの水が最後の輝きを放つ。
火球の軌道が、ごくわずかにそれた。
モーゲンの目の前の地面に、着弾。
凄まじい爆発が巻き起こり、モーゲンは吹き飛ばされた。
ほんの一瞬、気を失っていたのだろう。
慌てて上体を起こすと、ボラパはまだそこに同じように立っていた。
生ぬるい風が頬を撫でる。
腐臭。
いけない。
モーゲンは全身の痛みをこらえて、歯を食いしばった。
立たなきゃ。
僕が立たなきゃ、二人が。
だが、力が入らない。
魔力も体力も、もはや何も残っていない。
動け。動いてくれ。
その時、モーゲンは不意に背後から吹いてくる風を感じた。
前から吹いてくる生ぬるい風とはまるで違う、身を切られるような冷たい風。
ああ、この風は。
モーゲンには分かった。
南では吹いたことのない、目が覚めるような冷たい風。
きっとこれは、北の風だ。
アルマークの故郷の風だ。
「ありがとう、モーゲン」
自分の頭の上から、そう声がした。
わずか一瞬。
その一瞬で、あの距離を駆け抜けていく。
腐臭を吹き飛ばす、冷たい北の疾風。
ほら、見てよ。
モーゲンは思った。
見てよ。
僕の友達は、あんなにもかっこいいんだ。
あれが、アルマークなんだ。




