右手
フィッケが倒れたという話は、もう2組の教室にも広まっていた。
ネルソンやレイドー、ピルマンたちがその話をしていたが、どうやらそれを昨日のモーゲンの話と結びつけて考えている者はいないようだ。
ネルソンが冗談混じりに、
「トルク、お前が武術大会でフィッケの胴を思い切り突いたせいじゃねえのか」
と言い、それにトルクが
「そうかもな。お前と戦ったエストンはぴんぴんしてるもんな」
とやり返したことで、二人の間にピリピリした空気が流れたくらいのもので、皆、フィッケの容態を少し具合が悪くて倒れてしまった程度のものだと考え、深刻に捉えていないようだった。
モーゲンも今日はバイヤーと料理の話を延々としていて、昨日の自分の話はすっかり忘れているように見える。
アルマークは極力フィッケの話には触れないように過ごした。
昼休みに、イルミスのもとを訪ね、今日の補習を休ませてほしい旨を話す。
イルミスはアルマークの顔をしばらくじっと見つめた後、何も聞かずに許してくれた。
授業が終わり、アルマークが帰り支度を手早く整えていると、それを見たウェンディが声をかけてくる。
「あれ、アルマーク。今日はイルミス先生の補習はないの?」
「うん。そうなんだ」
アルマークが頷くと、ウェンディの顔がぱっと輝く。
「それじゃあ一緒に帰らない?」
「ごめん」
アルマークは謝る。
「今日はダメなんだ」
「そう……」
がっかりした顔のウェンディに、後ろ髪を引かれながらも、それを振り切るようにアルマークは校舎の外に出た。
アインとは、日没前に図書館で待ち合わせをしている。
秋が深まり、日が沈む時刻が早くなってきている。
急がないと。
アルマークは、足早に寮に戻ると、自室で支度を整え、また寮を飛び出した。
アルマークが図書館に着いたころには、辺りを薄闇が支配しようとしていた。
しかし遥か西にまだ太陽は、残っている。
「待ったかい」
アルマークの言葉に、図書館の入口近くで所在なげに立っていたアインは、遠慮なく頷く。
「まあね。日が沈むかと思って冷や冷やした」
そして、にやりと笑って付け加える。
「だが、あそこまで言ったからには尻尾を巻くわけはないと思って、我慢して待ったよ」
「すまない」
「いいさ。間に合ったんだ」
そう言ってアインが、図書館の入口に向き直る。
アルマークもその隣に並ぶ。
「覚悟はいいな。この先何が起きてもそれぞれ自分の責任だ」
アインの言葉に、アルマークは頷く。
「ああ」
「行こう」
二人は並んで、図書館に入った。
受付には昨日と同じようにタミンが座っている。
今日もちらりと二人を見るだけで、何も言わない。
二人はそのまま受付を通りすぎて、閲覧室に入る。
残っている学生は数名。
そのまま、一般書庫に入る。
採光用の窓からはまだ日の光が入ってきている。
赤い光。西日だ。
書庫にはまだ一人学生がいたが、二人と入れ違いに出ていった。
その背中を見送った後、アインがアルマークを振り返る。
「さあ、ここからだ」
「ああ」
二人は、それぞれが別々に、増設された本棚がよく見える位置に陣取った。
「闇になるのは一瞬だそうだからな。見逃すなよ、アルマーク」
「君こそ。僕の方からは見えない棚は君がしっかりと見てくれよ」
お互いにそう言い合って、位置を微調整する。
そして、しばらくの沈黙。
「日が沈む」
アインが呟いた。
採光窓から差し込んでいた赤い光が、ふっと途切れた。
日没。
まだ外には残光が残っているのだろうが、書庫の中は一瞬、闇に包まれた。
アルマークはその闇に、目を凝らした。
「あった」
「あれだ」
二人が同時に声をあげた。
暗闇の中に、ぼんやりと淡い光を発する本が、確かに一冊あった。
その瞬間、じじっ、と音を立てて、壁のランプの灯りが灯った。
書庫の中が再び明るくなる。
すると、その灯りで、本の淡い光はすぐに判別がつかなくなってしまった。
「見たか」
アインがそう言いながら、本に近付く。
「ああ、見た」
そう答えながら、アルマークも同じ本に近付いた。
しっかりとした装丁の、深緑色の表紙の本だった。
『奇妙な植物たち』。
本のタイトルを見て、アインが、やはりな、と呟く。
「見ろ。僕の見立て通りだ。これは植物の本だ。おそらくこの中でキツネメソウも紹介されている。そしてその蓄光作用という性質をこの本そのもので説明するという、なかなかしゃれたやり方をしてるんだ」
「どうもそのようだね」
答えながら、アルマークはアインの慧眼に内心舌を巻く。
このアインという少年は、一を見てたちどころに十を知る。そしてそれを断言する自信もまた、すごい。
「魔力は感じない」
アインはそう言って、ためらうことなくその本を手に取った。
ぱらぱらとページをめくり、ふん、と鼻を鳴らす。
「あった。キツネメソウの項目だ。蓄光作用の説明。それと、この本にもその顔料が使われていると書いてある」
「完璧な正解だな」
アルマークは感心のため息を漏らす。
アインは険しい顔で首を振る。
「正解だが、何の解決にもなっていない。フィッケには何が起きたんだ」
そう言って、何かの手掛かりを掴もうと本のページを繰る。
その必死な表情を見て、アインも責任だの何だのと難しいことを言っていたが、何のことはない、結局はフィッケを本気で心配しているのだ、とアルマークも気付く。
「アイン、君は」
と言いかけて、アルマークは不意に口をつぐんだ。
アインの手に取った本の、隣にある本。
何の変哲もない本に見えるが、そこから、さっきまで感じなかった奇妙な魔力を感じる。
「アイン」
アルマークは鋭い声を発した。
「そこから離れろ」
アインがアルマークを見る。
遅い。
アルマークはその胸ぐらを左手で掴むと、片手で一気に自分の方に引き寄せる。
「ぐぅっ」
アインが苦しそうにうめくが、気にしている余裕はない。
アルマークの視線の先で、その本がひとりでに、ゆっくりと開いていく。
「アイン、見ろ」
振り返ったアインも目を見開く。
「あっちが本命か。だが、あの本」
アインが呟く。
「裏表紙に印がなかった。ここの蔵書じゃない」
あの一瞬で、そこまで見たのか。
「さすがだ。でもどうする」
「触るのは絶対にまずい。距離をとって……おい、アルマーク、何をしている!」
アインが驚きの声をあげた。
アルマークが右手を伸ばして、その本を掴んでいたからだ。
「僕じゃない」
アルマークは叫んだ。
「君の手だ」
アインが叫び返す。
確かにアルマークの右手だった。
アルマークの右手が、まるで別個の意思を持ったかのように突然動いたかと思うと、本を掴んだのだ。
金の蛇。
アルマークの脳裏で、蛇の指輪が揺れた。
「放せ、アルマーク!」
アインが叫ぶ。
アルマークの掴んだそばから、本の表面にじわりと黒い染みのようなものが広がってきていた。
染みが描く奇妙な模様。
アルマークには見覚えがあった。
武術大会の日。
アルマークと対峙した奇妙な魔術師たちの正体だった銅貨や銀貨。
それは、その表面に描かれていた模様と似ていた。
「ちぃっ」
アインが手を振る。
見えない強い力が本を弾き飛ばす。
だが、もう遅かった。
床に落ちた本から、突如、無数の手が伸びた。
それがアルマークとアインを掴む。
掴まれているのは、肉体ではない。
アルマークにも感覚で分かった。
掴まれたのは、魂だ。
たちまちのうちにアルマークとアインの魂を肉体から引きずり出した無数の手は、そのまま本の中へと姿を消す。
後には、静寂。
本がふわりと浮いたかと思うと、もとの場所に収まる。
そして、床には意識を失った二人の肉体だけが残った。




