第1話:面倒事は御免なさい
※用語に関して(念の為)
セレアル→シリアル(コーンフレーク)の事。
「貴様のその力。精霊の力か。気が変わった、少し相手をしてやろう」
私に喋り掛けて来たその巨躯な生物は、おおよそ元人間とは言い辛い。2メートルを優に超える、化け物そのものだった。
「ここは通さない…私の命に代えても!」
普通の人間であれば、面と向かっただけでたちまちその場から動けなくなり、正気を保てなくなるであろう。
そんな異形なる生物に対して、敵対して喋る”私”という存在は、化け物と同等で、もしかすると人間ではないのかもしれない。
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「はっ!? …ゆ、夢?」
その時エリーゼは、右腕を真上に上げたまま、助けを求める様に、ベッドの上で硬直していた。
悪夢にうなされていたのかという微かな自覚を持つのに、僅かな時間を要したエリーゼは。今しがた見た夢の内容を思い出そうとする。
「……」
けれども夢の内容を思い出そうとすればする程、見ていた筈の内容が遠ざかる。悪夢とは得てしてそういうものだ。
「もうこんな時間。そろそろ起きなきゃ…」
今日は大事な大会の初日。のんびりとしている場合ではない。
枕元に置いてあった置き時計を眺めながら、その現状を漸く把握したエリーゼは。先程からずっと天井へと伸ばしていた腕をそっと下ろして、次の行動を考える。
すると、寝汗でべたついた首元を右手で撫で始め、それをいの一番に不快と感じたエリーゼは、シャワーを浴びようと考え、朝の行動を開始するのだった。
夏の暑い時期により薄着だったエリーゼは、衣服をさっと脱ぎシャワー室へと入る。
そして丸型の水栓を捻り、勢い良く出た線状の温水を浴びながら、壁に背中を預けて今日の予定を頭の中で確認する。
"この後は軽くお腹に何か入れて、支度をしたら受け付けに向かって登録。その後は予選よね。前回大会と同じ様な流れなら、初日は夕方前には終わる筈"
そんな事を温水に打たれながら確認したエリーゼは、程無くしてシャワー室を出てタオルで体を拭き、外行き用の軽装へと素早く着替えるのだった。
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”この世界では、武勲による功績と文勲による功績が同等に評価される。
本来、高位な爵位を得る為には、どちらかの分野に於て十分な成果を、自国の王に知らしめなければ得る事が出来ない。
エリーゼの父親であるルバートは、武勲によるこれまでの輝かしい功績のお陰で、この世界では王家の次に位の高い”公爵”の称号を国王から貰い受けている”
「うーん、お昼前まで取り敢えず保てば良いよね。…セレアルで良いかなぁ」
”頭頂部にタオルを置いたまま髪を乾かしているこの子は、ルバートの一人娘。
本来であれば、令嬢として婿を貰うか爵位の高い家へ嫁ぐ筈ではあるが、とある事情により実家を離れ、傭兵として一人暮らしをしていた”
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髪を一通り梳かし終えたエリーゼは、慣れた手つきで木製の食器棚から小皿を取り出してはテーブルへと置く。次に、戸棚から麻袋を取り出すとその麻袋を両手で持ち、テーブルの小皿へセレアルを流す。
「今日は羊乳…いや、牛にしよう」
すると、別の戸棚を開き数種類のガラス瓶が陳列している中から、牛と書かれた瓶を持ちセレアルの小皿へその乳白色の液体を流した。
元々お腹が空いていたのもあったのだろう。さっと椅子へ腰を掛けたエリーゼは、金属のスプーンで軽くかき混ぜた後、セレアルを胃へ黙々と流し込むのだった。
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「商業地区で強盗が頻発ね…。ここ周辺の治安が悪いのかしら」
軽くお腹を満たした頃、エリーゼはテーブルの隅に置いてある文字の書かれた羊皮紙を読みながら呟く。
所属しているギルドからの仕事の依頼の関係で、ここ数カ月はずっと遠くへ出払っていたエリーゼ。それを、大事な大会の為急いで昨日の夜に戻っては直ぐ寝てしまった為、自宅周辺の近況に疎いのも無理は無かったのだった。
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それから朝食を終えたエリーゼは、テーブルの食器を片付け、部屋の中央に置いてある一人用のソファーに腰掛けて軽く休憩を取る。
程なくしてふと時計を見ると。時刻は7時20分過ぎとなっていた。
参加の受付時間の締め切りが8時の為、会場へは普通に歩けば20分程度で着くものの、道具を持ちながらの移動を考えると、そろそろ出なくてはと言う事に気付いたエリーゼは。
「もうこんな時間。そろそろ出掛けなきゃ」
そう呟いてはソファーから起き上がり、この自室にはおよそ似つかわしくない、自身の身長を遥かに超えた長槍を右腕に、大きな手提げ鞄を左腕で抱えながら部屋を出たのだった。
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「あっつー…い」
ドアを開けて外へ出たエリーゼに迫りくるものは、灼熱の太陽による日差しの熱量だった。
閑散とした室内とは違い、朝早くにも関わらず遠くから賑わいが聞こえてくる。
この地方は、年中高温多湿により普段から猛暑日は当たり前。9月初頭の今時分は、熱帯夜も連日の様に続く程だった。
外へ出てから数秒足らずで、額からは僅かながらの汗が噴き出る。そんな中でも、普段からこの地方で生活していたエリーゼにとっては、何時もの事だと素直に割り切ると、無言で階段下りて行くのだった。
「お早うエリー」
そんな極暑の中、階段下にいた初老の女性は、笑みを浮かべながらエリーゼに挨拶をする。汗一つかかずに、両手で竹箒を軽やかに振る舞い、庭掃除しているのだ。
「お早う御座います、ティアーネさん」
掃除をしていたティアーネのその言葉に、階段を降りたエリーゼはその場で静止すると、ゆっくりとお辞儀をしながら言葉を返す。
「そういえば、今日は久々の大会の日だねぇ…。あたしゃ仕事で遅れるとは思うけど、あとで必ず見に行くよ。是非頑張っておくれ」
「はい! それでは行って参ります!」
普段、余り激励を貰う事の無かったエリーゼは、気を良くしたらしい。先程までの緊張した表情から打って変わり、嬉々とした表情となりそのまま街の中心部へと比較的軽やかな足取りで歩いていくのだった。
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「単純な性格は父親譲りなんだろうかね」
その時、街の中心部へと歩いていくエリーゼを眺めながら、ティアーネは独り呟く。
それと同時に、エリーゼ達を見送りながら一つの考察をしていた。
"精霊のサラマンダーがあの子を品定めしているという事は、父親のルバートは精霊にとってただの受け皿だったのだろうかね。私がこの世界を巡歴して漸く気付けたこの世界の仕組み。その仕組みに気付いた時、あの子は一体どうするのだろうか。いや、私と同じ様な過ちを。あの子が起こさない様、いつの日か教えてあげなくてはならないのかもしれないね"
そんなこの世界の理を心の中で憂いながら、ティアーネはそれを表には出さずに、いつもの日課をこなすのだった。
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街の中心部である商業地区は、コロシアムを中心に屋台が環状に並んでいる。
コロシアムの入口は、基本的に北と南の2か所しか無い為、環状に並ぶ屋台は東西を通路口としてお客を迎える。
こうする事で、コロシアムに入ろうとするお客は必然と迂回しながら向かう事になり、一定量の屋台を必ず通るので、商い側としても有り難いと考えたからだ。
「安いよ安いよー! 2日間限定の記念販売だよー!」
「ちょっとちょっとお客さん! 押さないで押さないでー! 屋台が壊れるよ!」
屋台からは商人の声が随所から聞こえるものの、次々と群がる群衆の喧噪で瞬く間に掻き消される。
街の中心部は、今日明日と2日間で開かれる4年に1度の武の祭典により、かつてない活気に満ち溢れていた。
商いをするものの中には、普段一年分で稼ぐ収入をこの二日間の祭典だけで稼ぐものもいる。
それだけこの大会が、世界的に注目度が高い事を表している証でもある。
そして、この祭典がもたらすものは、何も商いをする人だけに留まらず。
「お前、誰の優勝に賭けてるんだよ」
「へへっ、俺は前回の優勝者の前評判と同じ順位の奴に賭けたぞ」
出場選手に財産を賭け、その配当を得ようとする見物人や。
「お前がエリーゼか」
出場者が所属するギルド同士による、権力と名誉を賭けた戦いへと及ぶのだった。
「はい? なんでしょうか」
エリーゼがこの場には明らかに相応しくない長槍を抱えながら歩いている為、通ろうとする道には人の避けた跡が地面にくっきりと残っていた。
そこへ別の方角から巨漢の男が来ては、エリーゼの前に立ちはだかり、声を掛けて来たのである。
「お前、王都支部のエリーゼだろ?」
「だったらどうだと言うのでしょうか。私は向こうにある受け付けに行きたいんですが」
相手を小馬鹿にした様な口調で喋る男と、それを無視した口調で淡々と答えるエリーゼ。
「そうはいかねえなぁ。お前ら! こいつの進路を塞げ!」
そこへ、巨漢の手下と思わしきならず者が、エリーゼの周りを一斉に取り囲むのだった。
大会の規定により、大会の開催中に揉め事に関わった者は、出場資格のはく奪という制限がある。その為か、それを利用した有力選手の妨害をするという不埒な輩が前回の大会でも頻繁に出没していた。
数は真正面の男を入れて12人。武器はこの大男だけが斧、後は全員短剣ね。隠し武器の所持は…無し。
瞬時にエリーゼは、敵の武力を把握し無傷で切り抜けるのは簡単だと察するものの、反撃により後で言い掛かりを付けられては敵わない。という思いに至ると。
「はぁ…構ってられないわ」
「む?」
溜息を一つ、その後一言そう述べては直ぐさま行動を開始するのだった。
「なっ!?」
エリーゼの右の掌がお腹の前で翳された次の瞬間である。エリーゼの掌から眩い閃光が迸り、辺り一面を閃光で覆い尽くしたのである。
これにはエリーゼを取り囲んでいた男達も、そして遠くで見ていた見物人達も、皆一様に目を瞑り悶えるしか無かった。
「旦那ぁ! 取り敢えず斬り掛かりますか!?」
「馬鹿野郎! 真面に見えねえってのに! 同士打ちにしかならないだろうがっ!」
片腕で目を抑えながらも飛び掛かろうとする者と、それを止める者。それは最早、傍から見れば滑稽でしか無かった。
そんなならず者達が、未だに続く眩い閃光に四苦八苦している頃。
「エントリーをお願いします。エリーゼ=ハミルトン。槍術士です」
エリーゼは先程の場所から既に遠くへと移動しており、大会の受け付けをしている若い男性の前へと姿を現していた。
「え? あ、はい。エリーゼ=ハミルトンさんですね。念の為、身分の確認を出来る物の提示をお願いします」
「えっと…。これで宜しいですか?」
受け付けの男性は金属製のカードをエリーゼから貰い、確認をしながら用紙へ記帳をする。
「結構です。あ、それと。武器や荷物は此方で預からせて貰いますので、手に何も持たない状態で奥に進んで下さい」
「えっ、何でですか?」
エリーゼが右手に持っている長槍は勿論、革製の手提げ鞄も武器を持参しており、その中には大会中使おうと思って居た武具を幾つも入れていた。
「いえー、前回大会で懐に爆弾を隠し持ったまま参加された方がおられまして…」
「あ、はい。分かりました」
エリーゼとしては持参した物を大会で使いたかったが、そう言われてしまっては二つ返事で素直に手提げ鞄と長槍を相手に渡す事を、承諾するしか無くなってしまったのだった。
「槍だけは丁寧に扱って下さい…槍だけは!」
「は、はい…」
特にエリーゼが気にしていたのは長槍で、大事な人からの譲り物である為、とても大切なものとして扱っていた。それを行き成り預けると言うのだから、慌てるのも無理は無かったのだった。
「!?」
すると受け取った男性は、エリーゼから槍を受け取った瞬間、フラリとよろめく。
そもそも目の前に現れた時でさえ、行き成り目の前に現れただけでも驚くのに、抱えている物が予想以上に重かった事に再度驚きを隠せないのだ。
エリーゼから受け取った長槍は、穂先を布で巻いて保護してはいるものの、2mを遥かに越えるハルバードの様な斧頭と突起が付いているのが明確で、常人が持つには非常に重い。
大男が扱う様な重量武器をこの子が…。
受け取った男性は、改めてその様に思ったのだった。
「こっちの鞄は手を切ったり色々と危ないので気を付けて扱って下さいね」
続けてエリーゼはそう言うと、手提げ鞄を記載台へゆっくりと置く。
「今ゴトッって…妙な音したんですか…?」
「気のせいですよー、ふふふふ。中身を確認する時は、魔法をきちんと扱える人で開封してください。そうじゃないと、人間を起点に誘爆する危険があるので」
妙な鞄を渡してきたり本人が可笑しな事を言ってくるエリーゼに対して、一度持ち帰ってから再度お越し下さいと、思わず男性は言いそうになるが。
「…丁重に扱わせて頂きます。む、向こうに女性係員の方が居ますので、其方で所持品検査を受けてから奥にお進み下さい。後は…」
受け付けの締め切り時間が迫っている事から、男性はぐっと堪えて淡々と案内へ戻るのだった。