6.入り江にて
6.入り江にて
この先の入り江に竜がいる。そう聞いたのは旅を始めて数ヶ月目、とある小さな漁村でのことだった。小さな砂浜のあるその村の、寂れた酒場、年老いた漁師がカウンターに座って酒を飲みながら亭主に昔語りをする、その中に出てきたのである。カウンターの後ろの席に座っていたイサクは聞き耳を立てた。聞くと、何百年も昔からこの村に伝えられてきたという。おそらく、今イサクたちが探している若い黒竜とは違うだろう。けれど同じ竜なら、同族の竜のことを知っているかもしれない。何ヶ月もの間歩き続けていた。淡い望みをかけて、イサクは尋ねた。
「その竜というのは」
「なんだ、年寄りの昔語りにそんなに興味があるか?」
昔語りをする老いた漁師の隣で飲んでいた中年の漁師が言った。
「古い竜で、大きな目をしていた」
老いた漁師は続けた。
「わしが会ったのはまだ子供の頃だった。周りに馴染めない子供でな。ある日、一人で村外れの磯を、海に沿って歩いて行った。すると小さな砂浜があってな、その奥に波が崖を穿った大きな洞穴があった。怖いのを抑えて、恐る恐る中を覗いてみると、大きな目が洞窟の奥に光ってな、じっと見ていた。臆病だった子供の頃のわしは、一目散に逃げ出した。そのとき、後ろから大きな吠える声が轟いた。怖さで動けなくなった。勇気を振り絞って後ろを向くと、鱗を持った、大きな生き物が洞穴から出てくるところだった。そして、わしに向けて、鉤爪のついた太い腕を伸ばしてきた。その時は生きた心地がしなかった。けれどな、その後その生き物はその鉤爪をわしの前に差し出したんだ。それにそっと手を触れると、大きな掌に乗せられ持ち上げられた。少し乱暴だったが鉤爪で撫でられたよ。そしてわしを山に運ぶと、そっと降ろした。そこには野苺やぐみの木が生えていた。それを食べていいということだろうと受け取って、しゃがんで口いっぱいに頬張った。ずっと歩いて空腹だった。満腹になるまで食べると、大きな生き物の方を振り向いた。また鉤爪を伸ばしてきた。それにつかまると、今度は体の方に持って行かれた。つかまれ、ということだと思って背中に乗り移った。すると、大きな生き物は海に向けて歩みだし、そのまま海の中へと進んでいった。わしが怖そうにしているのを察すると、大きな生き物は後ろを振り返った。わしが少し緊張を解くのを見ると、海の中で泳ぎ始めた。海で泳いだことは何度もあったが、あれほど早く海の中を進むのは初めてだった。日が傾くまで泳ぐと、洞穴へと戻った。その夜は、その大きな生き物と眠った。数日それを繰り返した。数日目、家が恋しくなってきた。帰り道を指さすと、大きな生き物は洞穴の中に戻っていった」
「わしは元来た道を村へと戻っていった。村へ戻ると、大人たちは大騒ぎになった。海で溺れ死んだか、岩場で頭を打ってしまったと思われていたんだ。入り江でのことは言わないことにした。本当におかしくなってしまったと思われるのが怖かったからな。大人になるまで、わしは相変わらず寡黙だった」
「ある日、ふと思い立って、老いて漁をやめた老人に入り江での出来事を話してみたよ。すると、その老人も子供の頃、入り江に行ったことがあったそうだ。同じく大きな生き物がいて、数日をともに過ごした、と。村に戻ってその話を老爺にしたところ、やはりその老爺も大きな生き物と会ったと語り、おそらく、その鱗を持つ生き物は、昔話に聞く竜だろうと」
「今では老人になり、竜の話を伝える側になってしまった」
「その竜のいる入り江というのは」
イサクは尋ねた。
「この村からどちらに?」
「北に向けて磯を歩いて行った所に。そこを歩いていくと小さな入り江があって、その奥には大きな洞穴があって、大きな目が」
そう言って老人は入り江での出来事の話の三巡目を話し始めた。
「な、しょうもないだろ」
同席していた漁師が言った頃には、イサクはもう勘定を済ませ、北に向けて歩きはじめていた。
入り江への磯は海に沿って続く崖の下の、険しい道だった。故郷では嗅いだことのない、強い潮の匂いが鼻をついた。干潮を待って二人は歩き始めた。鋭く尖った岩が、不規則に転がっていた。それらは、天草や、海壺や、その他沢山の海の生き物で覆われ、滑りやすかった。小柄なロンは岩を乗り越えられず、あるいは何度も転びそうになり、そのたびに、イサクはそれを助けた。所々にまだ海藻がついていない岩があった。ふと見上げると、新しい岩肌が剥き出しになっていた。つい最近、落石があったのだろう。別の場所を見ると多くの岩が、今にも落ちそうになっていた。
日が傾き始めた頃だった。潮が満ち始め、見る間に足元を波が洗うようになった。ちょうど崖が途切れ、山の斜面に差し掛かったところだった。潮が満ち、膝の近くまで海水に浸かり、足元も確認できなくなった。子供の足でこの長く険しい磯を干潮の間に抜けられたとは、さすがあの老人は海の子というべきか。イサクは急な斜面を登り始めた。潮風で捻じ曲げられた灌木が行く手を阻み、濡れた足に落ち葉が纏わりついた。何度だろうか、斜面を登り、下りを繰り返したところだった。斜面を登りきると、眼下に白い砂浜の入り江が見えた。奥には老人の言った通り、波で削られてできたであろう、大きな洞穴があった。イサクは慎重に斜面を下ると、ゆっくりと洞穴を覗きこんだ。
何も無かった。ただ暗闇が広がるだけだった。
「行くか。」
イサクはロンを振り向いた。ロンは小さく頷いた。乾いた枯れ枝を探すと、イサクは持っていた油紙と火打ち石を取り出して、紙から枯れ枝へと火を移し、同じく探してきた流木を差し込み火の気を集めた。流木は明るく輝き始めた。これでしばらくの間、明かりに困ることはないだろう。イサクはロンの手を引き、洞穴へと足を踏み入れた。
入るとすぐに巨大なドームだった。左右に灯火をかざしてみたが、暗闇が広がるのみだった。壁に沿って進むことにした。ドームの底には砂が広がり、所々に岩が落ちていた。それらを跨ぎながら進むと、奥に向かう穴が開いていた。壁を探りながら進むと同じような穴がさらに三つ。イサクは一番右の穴を選ぶと、壁に手を添わせながら奥へと進んでいった。穴は、途中で広くなり、狭くなり、枝分かれしながら続いていた。方向感覚を失えば、生きて外に出ることはできないだろう。進むと岩壁に突き当たった、枝分かれ全てが。イサクは、今度は二番目の穴へと歩みを進めた。今度はすぐに水中に没していた。三番目の穴も同じく水中に没し、最後の穴は砂の中に埋もれていった。
イサクは首を横に振ると、光の差し込む入口へと向かってドームの下を歩いて行った。ちょうど真ん中だった。足元に、輝く、大きな雲母のような物が落ちていた。何だろう、と拾おうと伸ばしたイサクの手を、ロンが払いのけた。
「触ってはだめだ」
今までにない真剣な声と気迫に、イサクは手を止めた。代わりに、少し屈んで足元の物体を見た。銀色のそれは、大きな鱗だった。
「これは、竜の」
間違いなく、ここに竜がいたのだ。では、今どこに? イサクは鱗に足を触れさせないように注意しながらそれを跨ぎ越え、洞穴の外に出た。
砂浜には、魚籠を背負った、長い髭を生やした男が、釣竿を持って立っていた。年のほどは窺い知れなかった。
「お前さん達、こんな人里離れた所で何をしてらっしゃるのかね」
「いえ、魚を探していたら迷ってしまって」
「網も釣竿も持たずに釣りかね。変わったものだな」
イサクは口籠った。
「まあいい、今日は私の庵に泊まっていきなさい。直に日が落ちる」
沖を見ると、赤くなった日が、僅かに上端を残すのみになっていた。
男は自らを「大公不望」と名乗った。
「まあ、号のようなものさ」
そう言って不望は笑い、入り江から少し林に入った大きな岩の陰に二人を招いた。そこには、萱で屋根を葺いた粗末な天幕のような小屋が建っていた。中は、屈んでいないと頭をぶつけてしまうほど狭かった。不望は奥の壺の灰の中から熾火を1つ取り出すと、小屋の中央に切った炉に置いた。その上から松葉をかけて、イサクに木の筒を差し出した。
「火起こしが宿賃だ、早くしろ。あと、あまり強く吹くなよ、屋根が燃えるからな」
不望はまた、からからと笑った。火が起こると、不望は鍋を取り出した火にかけた。
その日の夕食は、海藻の汁物と干魚だった。不望は素焼きの器に汁をよそい、二人に勧めた。ロンが飲み終わるのを見ると、今度は串に刺して火で炙った干魚を差し出した。
「ほれ、坊、ちゃんと食え、病人みたいじゃないか。若造もな」
イサクは肋に手を当てた。旅の疲れからか、すっかり痩せてしまっていた。
干魚を小さく齧るロンを見ながら、不望は語り始めた。不望は元々は騎士だったという。子供の頃から武術を教え込まれ、戦場も幾度も経験した。ところがあるとき、人を殺めるのが馬鹿らしくなり、妻子に領地を譲り、庵を結んで隠遁生活をするようになった。干魚を作っては街に売りに行き、パンを買って帰ってくる。不足は妻の治める村から届けてもらう。冬には妻の館に戻って、書を読み、村の子供たちと毬遊びをして過ごす。そんな生活も三年か四年目に入るという。
「最近の悩みは、海鳥や獣に獲物を横取りされることでな。釣りをするとき、後ろで日に干すんだが、いつの間にか減っていく。金網に入れてあるんだがなあ」
そう言って、不望はまたからからと笑うのだった。
「ところで、客人方は何をしに?」
イサクはこれまでのいきさつを話した。竜の子を探していること、諸侯の元を巡るも全く手がかりが無いこと、漁村で入り江の竜の話を聞き、磯を通ってやってきたこと。
「竜か」
不望は遠い目をした。
「優しい竜だった。いつもあの洞穴で寝起きをしていた。私が初めてこの入り江に洞穴にいて、驚く私に、野の果物が実る場所を、魚が釣れる場所を教えてくれた。庵ができるまでは、大きな体で潮風から私を守ってくれた」
「ところが、1年ほど前のことだ、北の教団に竜が連れ去られてしまったのは。月の夜、入り江に数隻の船が現れた。話し声に起きて浜に出ると、大勢の者が洞穴へと走っていくところだった。私は庵に戻って剣を手に取った。恩人の竜の命に危機が迫っていると直感したからだ。再び浜に戻ると竜が引き出されていくところだった。竜は紐で縛られ、紐が絞められる度に、稲妻のような光が走った。私は剣を抜き、斬り込んでいった。その時、1人の者が、振り上げた私の手を掴んだ。
『動くな。動けば命はない』
尚も私が剣を振り下ろそうとすると、腹に何かが当てられ、そこから全身へと激痛が走った。体が痺れて動かなかった。竜が連れ去られ船に乗せられるのを、ただ見ていた。何も為す術が無かった」
そう言うと、不望は声を震わせた。
「あれは、おそらく、北の教団が作った、何と言っただろうか、エレキテルという物だったのだろう。大勢で竜を生け捕りにするのも、他の騎士ではあり得ない。竜の力を求めているというあの教団の者達に違いない」
涙ぐむ不望に、イサクは何と言葉をかけてよいか分からなかった。
「さあ、今日はもう寝よう。明日は近くの町まで送って行こう」
不望はそう言うと、残り火に灰を掛けた。
翌朝、日の出とともに一行は発った。海風の吹きすさぶ丘を越えて歩き続け、街に着くころには日は高く昇っていた。イサク達と不望は市場で別れた。
「じゃあな、坊主、若造、達者でな」
そう言うと、不望は干魚を数片イサクの手の中に握らせ、喧噪の中へと消えていった。
その日の午後は、旅の物資を揃えて過ごした。