小説を書くのは難しくて、辛い
小説を書くのは難しい、と感じている。では、どんな所が難しいのだろう?
ちなみに、自分の言う「難しい」はそもそも小説とは、文学とは何か?という問いを含むもので、いかにして新人賞を取るか、いかにして芥川賞・直木賞を取るかというような話とは一切関係がないので、そういう観点で読む人にはなんの興味もない文章をこれから書くと宣言しておく。
ではそもそも、どうして小説を書くのが難しいのだろうか? 結論から言えば、現実や人生といったものは混沌と未知に包まれているにも関わらず、作品を作る上ではなんらかの形で全体を統合する必要がある、という点に尽きると思われる。人生は未知だが、作品を作る作者は、その内部における現実が何であるかを知っていなければならない。いわば、人に対する神の位置に立たなければならないわけだ。これが難しい。
例えば、また村上春樹に出てきてもらうが、村上春樹「多崎つくる」では、作品の最後にわかりやすく作者の人生観が語られている。簡単に言えば消費社会の中でそれなりに楽しんで頑張ろうというような事で(もう少し複雑だが)、「ダンス・ダンス・ダンス」の時に「できるだけうまくステップを踏むんだ」というように言っていたのと哲学としては変わっていない。ここに村上春樹の現実統合の理念があるが、僕はこれは消費社会・大衆社会の歴史に過渡的に現れたもので、普遍的というレベルまではいかないと思う。現実統合の理念としては、古典になるほどの高さ(俯瞰性)を得ていないように思う。
現実は多様で、冷酷で、馬鹿馬鹿しく、滑稽であり、意外でもある。人間社会は驚くほどの無節操であったり、意外な所に秩序があったり、優れた精神が見出されたりする。簡単に言えば、この混沌した多様なものをどうフィクションは捉えるのか、それが常につきつけられているように感じる。
「テンプレ」作者は、テンプレに自分の作品の構成哲学を持っていっている。利口な人は売れればいいのだという観念から、売れているものの中にある哲学を分析、応用して売れるようなものを作る。売れるものは当然、大多数の人がぼんやりと抱いている観念と一致するものになる。
ところで、この大多数のぼんやりした観念を否定して、現実の混沌、人々ないし自己の中にある非秩序をそのまま眺めたいとなると、混乱が起こる。当分は何も見えてこない。現実は統一性がない。確かに人間社会は統一性をつけようとはしているが、常にその外側に理不尽が生まれる。更には、秩序を生もうとする勢力同士がせめぎあって非秩序・混沌が生まれたりする。うまくはいかない。
こういう観点をどう統御するか? 我々は人生の只中にあって、人生の意味を知らないのである。人生の只中にいて、人生を俯瞰するのは叶わない。にも関わらず、物語を、キャラクターを作る時にはそれらの意味を知っているように振る舞わなければいけない。これが難しい。
うーん、難しい、で話は終わってしまうのだが、次の結論を言うと、最終的には、「宗教性」という位置しか答えにならないと感じている。宗教性と言うと色々想像されるかもしれないが、超越性というような意味であって、現実内部における混沌や多様は、現実の外部において解消され、秩序が与えられる、そう信じなければ「ならない」というような答えになっていく。そういう答えしかない気がする。
ただ、この答えに疑問を持つ人はたくさんいるだろう。つまり、現実における解決は可能だ、と。テクノロジーが日本を救うとかなんとか……それら全ての努力が、いい加減なレベルで妥協し、夢を見て終わらない事を僕は願う。現実における解決というものを徹底的に思惟し、その極限に思いを凝らせば、その思いそのものがある地点でひっくり返ってそれ以上進めない所が現れるはずだ。僕の言う超越性とはその「向こう」の話だ。カントの「物自体」だ。
そういう超越的な場所からでないと現実は的確に眺められない。自分はそういう場所にたどり着いてみたい。しかし、この場所にいきなり飛び上がる事は誰にもできない。そういう事をすると、それは普遍性とか超越性ではなく、単なる抽象性になってしまう。超越性が現実性を含み、なおかつそれを越えようとして現れるものでなければ、それは嘘となってしまう。
だから、本当に超越性を手に入れる為には現実の辛酸を心ゆくまで舐める必要がある。現実というものに徹底的に追従し、その限界が見えるまでこれと戯れなければならない。これは難しいのではなく、「辛い」事だ。こうして考えてみると、小説を書く、書けるようになるとは難しいだけではなく、辛い事でもあるという風になる。道は高くて険しい。
(超越性と現実性の対比については南井三鷹さんの論考「現実逃避に俳句を利用するペテンの危険性」を参考にさせていただきました)




