私的作家論-無頼派は新しい文学を創造できるのか?
私は近代日本の作家にみられる“無頼派”とよばれる人種があまりすきではない。
永井荷風、太宰治、織田作之助、坂口安吾、中上健次といった類の文学者である。
戦後日本の文学青年さらには現代の文学マニアにもこの“無頼派”とよばれる人種に憧れる人間が少なくない。
しかし考えてみてほしい。“無頼派”に心酔してその生活スタイルを真似したりしても“作家”として“作品”を産み出すことが本当にできるのであろうか?
答えは否である。
私自身本格的に“小説家”を目指したのは2014(平成26)年7月、27歳のときであった。
私は高校生のころから“歴史学者”や“小説家”、“詩人”“作詞家”“脚本家”などといった言葉-ことばを用いた職業に従事していけたらいいなあと思っていた。
しかしながら学生のときはどうも“作家”を一生の仕事にしていくことに躊躇しすぎていた。
躊躇しすぎていたがゆえについついデビューの機会を逃してしまうのである。
自分はなぜ今まで“作家”として世に出ることを躊躇しすぎていたのか?
それは“作家”という職業が“政治家”や“宗教家”、“大学教授”などといった世間一般でいう社会的ステイタスの高い職業と比較すると“やくざ稼業”とみられてしまいがちで自分としても肩身の狭い思いはしたくないというのが一番の理由である。
確かに“政治家”や“宗教家”、“大学教授”といった職業や身分というものが保障されている。
道徳に反した行為を平気で行う人間も大勢いることも事実ではあるが、世間的なイメージからすると“立派な職業”と見られている。
ところが“作家”というのは“無頼派”や“昭和の文豪”に代表されるような破天荒な生活スタイルもしくは“飲む・打つ・買う”に堕落していくような私自身のイメージで強かったために“作家”として世に出てこのような生活に走り周囲から鼻つまみものにされたくない不安が脳裏にあったのである。
そのためか私は“無頼派”というものを毛嫌いしている面があり、学生のころはむしろ“政治家”“宗教家”“外交官”“法律家”“大学教授”などといった聖職者と呼ばれる職種にあこがれを抱き続けていた。
このこととあいまって私は高校から大学にかけては、太宰治を筆頭とする“無頼派”の文学作品を読む気にはまったくならず代わりに高名な政治家や法律家、宗教家などの伝記や追想録を読むことが多かった。
なぜ私は物書きではなく高名な政治家や法学者などの伝記を好んで読んでいたのか?
それは“私”という人間が“落伍者”にはなりたくない、“高尚な人間”でありたいと願っていたからだ。
現代日本で活躍するする作家先生のなかにもこの“落伍者”のような人間が数多く存在する。
酒、タバコ、女、ギャンブル、ドラッグさらには反社会的な行為にまで手を染めてしまう輩までいる。
また彼らのなかには“正義の味方”になったつもりで権力政治を批判するような人間もいるが、このような“落伍者”に等しい人間が発言しても“単なる小銭かせぎ”に映ってしまうしそう共感してくれる人間もいないだろう。
このことから私は“高尚な人間”になるべく大学の頃は専攻の歴史学はもとより、法学、政治学、社会福祉学、宗教学、言語学など様々な学問を習得することにつとめた。
ところが大学3年のころテレビや映画に影響されたなのからなのか、“無頼派”に憧れてしまい、様々な要因も重なって“高尚な人間”になることができなかった。
“高尚な人間”になりそこねた私の2014年までの数年間は自分との闘いでもあった。
“自分という存在は一体何なのだろうか?”“自分はどう生きるべきであろうか?”
そんなことを考えながら日々自分と格闘していた。
闘いも中盤にさしかかり“自分のハンディ”を自覚することになった2013年、26歳の時に私は改めて“高尚な人間”になるべき人間であったことを改めて自覚していった。
“高尚な人間”になることを自分で辞めてしまった自分は暴力にはしることもしばしばあり“背徳者”そのものであった。
人間は信仰や道徳を柱にして自己を律することが重要なのである。
2014年7月-私は母親と職場の上司の人に“作家”という職業を目指すことを自らの口で伝えた。
職場の上司は仕事が終わった後に「日々精進して作品を書くように」と叱咤激励してくれた。
母親も私が“作家”として大成してくれることを望んでいた。
私自身も“作家”として“作品”を産み出すことを心に決めた。
だが私はここでも精神的に未熟なせいか“無頼派”や“昭和の文豪”の生活スタイルに憧れてしまい、“作品”を産み出すこともせずに遊びに遊んでしまい私生活も乱れてしまった。
このような経験からわかったことは“無頼派”や“昭和の文豪”に憧れたって“作品”そのものが産み出すことなどできない。
図書館で借りてあった小説マニュアルの本でも述べられているように、日々作品を書き続けることと“ビジネスとして作品を産み出すことを心がける”というプロフェッショナル意識が最も大切なのだ。
堕落した生活スタイルから抜け出して日ごろから“知的生産者”として“自己を律すること”と“ジャンルにとらわれない多作”を心がけていきたい。
月日は一日また一日と流れていくのだ。“生産すること”は“自分と格闘すること"と言ってもいい。
ましてやこれからこの国で文学を生業とする人間は“高等遊民”であってはならない。
表現者はもとより、創造者-クリエータ・多くの人を楽しませる存在-エンターティナー・起業家-アントプレナー・科学者-サイエンティスト・活動家-アクティビストでならなければならない。
そのためにも“無頼派”や“昭和の文豪”の生活スタイルに憧れて“文学者”とは名ばかりの堕落した人間であってはダメなのである。
“自称文学者”なんかではなく“知的生産者”であることをどんな些細なことでもいいので心がけてほしい。もちろん自分もそうありたい。
この国の文学のさらなる飛躍と発展を願うために。