二話
大海原が広がるそこには、一隻の元帆船があった。それは三本のマスト全てが折れ、ただの木造船と化していた。
その甲板には一人の少年がいた。
「はー。ようやく終わった」
少年の名はアンドゥ。そしてこの船は少し前まで大勢の人を乗せていた。アンドゥを除く船に乗っていた者たちは、手漕ぎ船に乗り込み陸地を目指しているのが、遠くに何とか見えた。
アンドゥは奪った船の中まで検め終わると、手を耳元まで持って行った。
「あーあー。こちら、こちらオプトレア。アンドゥ・オプトレア。聞こえてますか?」
少しして首を捻るアンドゥは再度声を出した。
「こちらオプトレア。フィアさん、聞こえてますか?」
険しい顔になったアンドゥは何度も声を出す。
「おーい、おーい。……おかしいな」
今度は困った様子で、耳元から手を放そうとすると、
「――――うっさい」
アンドゥの耳元から女性の声が聞こえて来た。
「うわあぁあ!」
「うっさいわよ! バカっ!」
アンドゥは気を抜いていたのか、急に聞こえた声に驚きの声を上げた。その叫びに相手方は苦言を呈した。
「ってこの声、お前アズヤードか?」
「はあ、何言ってるの。あんたから通信して来たんでしょ!」
「えっ!? 俺はフィアさんに掛けたつもりなんだが」
「はあ! まちがいぃ。間違いで私の安眠を妨害をしたって言うの! 極刑よ極刑! 極刑ものよ! 今すぐ私の部屋に来なさい、刑を執行してやるわ」
「いや待ってくれアズヤード。俺は今、任務中なんだ。すぐには行けないし、行きたくもないっ」
誰もいない場所に片手を振りつつアンドゥは応えた。
「はぁ? 任務ぅ? ……えっ、今あなた外なの?」
「ああ」
「――――たーはっはっはっ、はぁ。なに、あなた今地べた? 地べたなの。たははっ、ウケるんですけどー。チョーウケるんですけどー」
うっぜぇ。そんな顔をアンドゥはしていた。
「ああアズヤードごめん。手元が狂ってお前に掛かったみたいだ。帰ったら付き合ってあげるから。じゃあ」
アンドゥが耳元から手を離すと、女性の声は聞こえなくなった。
「んーー? あー、フィアさんは左耳だった」
しばらく思案顔だったアンドゥは、今度は左耳に手を掲げた。
「こちらオプトレア。フィアさん、聞こえますか?」
「――こちらフィア。オプトレアさん、どうされましたか?」
先程とは声の主が変わり、アンドゥはほっと安堵の表情を浮かべた。
「ああよかった。今度はちゃんと繋がった」
「何かあったんですか!?」
「ああいえこちらの話です、気にしないでください。それで用件の方ですが。船の鹵獲に成功しました」
「おめでとうございます。これで初任務達成ですね」
「はい。ですので……」
「承知しています。あとはこちらで牽引しますので、オプトレアさんはどうされますか? ご要望でしたら擬体との接続を今から切断しますが」
「――もうしばらくこのままでいいでしょうか?」
「はい、大丈夫です。接続を切りたいときはいつでもお申し付けください」
「ありがとうございます」
アンドゥは耳から手を離した。
「――これで、よかったのかな」
アンドゥが遠くを見ながら物思いにふけっていると、船のそばに荷車程の大きさの物体が浮上して来た。そうするとアンドゥの耳元から先程の女性の声が聞こえて来た。
「聞こえますかオプトレアさん。今から牽引用の綱を射出します。係留中揺れると思いますがご了承ください」
「はい」
耳に手を置き虚空へ返事をするアンドゥ。そうすると浮上して来た物体から金属製の綱が射出された。その綱は元帆船の前と中央のマストの間に綱が掛けられた。
「ごめんなさいフィアさん。マスト全部折っちゃって」
「大丈夫ですオプトレアさん。今確認したところ、総合的な損壊は軽微。破損部分も回収しますので、補間再現率は百パーセントに漸近します」
難しげな顔をするアンドゥだったが、何だか怒られずに済んだみたいだと安堵の表情を浮かべていた。
「係留完了。今から牽引作業に移ります」
綱に引っ張られ、元帆船が移動を開始した。
「風と関係なく進む船。何度見ても不思議だ。――それに、この体も」
アンドゥを乗せた船は目的地へ向けて進んで行った。
その日の夕刻。アンドゥを乗せた船は目的地に到着した。
そこには何もなかった。いや、遠くに小島が一つ見えると言えば、何もないわけではないが、近くには海水しかなかった。
「目的地到着。今から昇降用コンテ……昇降機材を浮上させます」
「はい。それと大丈夫ですよフィアさん。こちらの言葉に無理に翻訳しなくても。見れば何となくものが分かるようになってきましたから」
「すみません、こちらの語彙不足で。標本数が揃えばもっと平易な表現ができると思うのですが」
「その標本って俺の事でしょ。貧弱な辞書でごめんなさい。でもだからこそ、こっちがそっちの表現に慣れた方がいいと思うんだ。こっちはこれからすぐに増えるとはいえないから」
「「…………」」
二人の間に沈黙が落ちていると、
「――辛気くっさ」
アンドゥの左の耳元からフィアとは違う別の女性の声が響いた。
「なっ。アズヤードか、この声。何で!?」
驚きと疑問顔のアンドゥの疑問にフィアが答えた。
「アズヤード様。全端末への管理者権限があるとはいえ、通信への割り込みは、はしたないですよ」
「ある権限は使わないともったいない。それに我の代行者殿の初任務となれば、その報告が待ち遠しいと思うのは人情というもの。人情というのはかくも恐ろしきかな」
「いやあんた、俺が任務に出てたのさっきまで知らなかったじゃん。それに人情って、あんた人じゃないじゃん!」
アンドゥは最後に出たセリフに、やっべと口を噤んだが、出た言葉は既に引っ込められない。
「――はい。私及びアズヤード様は、人ではありません。」
「ご、ごめん」
「謝る必要はありません。事実を誤認識する言動こそ高等生物の証拠。我々では計器の誤作動という形でしか認識できないものです。大切になさってください」
淡々と紡がれるフィアの言葉に、よく内容が分かっていない顔のアンドゥであった。
「不毛。ふもー! 不毛よこんな会話ー! アンドゥ、もうあんたの出番ないでしょ。さっさと元の体に戻ったらどうなの」
「アズヤード様もこう仰ってることですし、オプトレアさん、切断シークエンスに入ってもよろしいでしょうか?」
「……お願いします」
少し思案してアンドゥが肯定と答えると、アンドゥの体の動きが止まった。
ある広い部屋。そこには一人の人がいた。
背はアンドゥと同じ位、全身を肌にぴったりと張り付くスーツに、頭部に機器を取りつけた装いの人であった。その者は頭に取り付けられた機器を外し、頭部を覆うスーツ部分を脱ぐと頭部が外気に触れた。
「ふー。終わった~」
外気に現れた顔は少年のもの。黒髪の坊主頭に左頬に走る古傷の跡が印象的な少年であった。
少年が頭の装着していた機器を手に持ち、部屋の出入り口の方へ歩き始めると、壁に埋め込まれたモニターが映った。
モニターには、薄水色と自然にはあり得ない髪色の髪を伸ばした女性が映っていた。
「オプトレアさん、元の体はどうですか? これ程長時間の擬体との同調は初めての事。体に不具合はありませんか?」
「……大丈夫みたいですフィアさん。訓練の時との違いは特に感じません」
モニターに映る女性はフィア。そして、体の調子を確かめ答えた坊主頭の少年は本物のアンドゥであった。
「分かりました。先程までオプトレアさんが使っていた擬体は、あとはこちらで格納しておきますので、アズヤード様の部屋にお向かいください」
不服そうな顔をしつつもアンドゥは頷いた。
アンドゥは帆船行き交う世とは思えない程無機質な部屋の出入り口をくぐった。服装はぴったりしたスーツからラフなものに変わっていたが、とても一介の者が着れないような、ほつれや補修跡がないものだった。
部屋の外も同様に、無機質な白っぽい廊下らしきものが広がっていたが、この光景も慣れた様子のアンドゥは、廊下の壁にあるボタンを押した。そうすると廊下の壁の一部が開き、その先へアンドゥは向かった。
そこは広い空間であった。形は先程までいた廊下と思われる場所と同じく細長いものであったが、幅は十数倍広かった。
「この施設広すぎんだよなあ」
アンドゥの声が空間に響くと、目の前に停まっている四つのタイヤを持つ馬車のようなものにアンドゥは乗り込んだ。見るものが見れば、これが自動車の類である事は分かっただろうが、アンドゥは勝手に動く馬車のようなものと認識していた。
アンドゥが車に乗り込むと、どこからともなく声が聞こえて来た。
「行先を設定してください」
その無機質な声の質問にアンドゥは答えた。
「第一区画」
無機質な声は了承の声を上げると、車は車両用通路を走り始めた。