一話
「ふ、船をおいていけ……だと」
商船の船長は、目の前の少年が何を言ったのか理解できなかった。いや、船長のみならず、甲板で作業していた水夫たちも同様だ。
時は少し前に遡る。
「船長、観測手から報告。前方左手に船影あり」
「船籍は?」
「視界不良につき不明とのことですが、一瞬光が見えたとの事です」
船長は顎に手を当てて考える素振りをした。
「光……大砲か?」
思案顔の船長が呟くと船長室から出た。船長が甲板に出てくると、既に肩書き持ち数名が甲板の前方に集まっていた。その内の一人に船長は声を掛けた。
「ヘイン。見えるか」
船長に声を掛けられた男は、覗いていた単眼鏡から目を離し船長の方を向いた。
「船長。はい。何とか分かるくらいですが船影があります。報告にあった発光現象は未だ捉えてませんが」
「この距離か。見間違いか?」
「それはまだ何とも。今目がいい者を上へ登らせてるので、その報告後で判断してはどうでしょう」
「そうするか」
船長と一等航海士の二人が、もしもの時の対応策を話し合っていると、特に目がいい観測手からの報告が届いた。
「船籍は未だに不明だそうですが、船影二。二隻の船は極近距離で航行中だそうです」
「……これは。やり合ってるな」
「はい。軍か海賊かは分かりませんが。この海域も物騒になったものです」
「まったくだ。おい、お前等、進路変更だ!」
船長の決断は早かった。危険そうな地帯を避けるため進路を右に取る事にした。
水夫たちがロープを引き、帆布を調整すると船が左に少し傾き、前方右に進み始めた。
船は進路を変え、危険そうな地帯を大きく迂回し進んでいた。
危険そうな地帯から大分離れた事で船長は、もう大丈夫だろうと後は任せたぞと航海士たちに告げ、船長室へ戻ろうとしたその時、船側面に水柱が上がった。
甲板にいた乗組員皆が水柱へ固まった表情の顔を向けると、柱の先から影が飛び出し、その影は甲板に降り立った。
影は人だった。背は子ども、十を少し過ぎた辺りの背丈に、茶髪の印象に残りにくい顔付きの少年だった。その服装はラルガ海に数ある海洋国家でも普遍的なものだったが、さっき水を被って出て来たとは思えないほど乾いていて、普通の生地製ではないようだった。
突然の事態に、乗組員は声も発せずに異常事態の原因である少年を見詰めていた。
そうすると少年は、
「あーあー。うんよし。……こほん。ご乗船の皆様にお願いがあります」
少年はここで一度言葉を切ると、乗組員各位を眺めた。
「船を置いて、消えてください」
「ふ、船をおいていけ……だと」
そして時は流れだす。
少年が口に出したものは、乗組員たちにとってある意味よく耳にしたものだった。だがそれは、大勢の手下を引き連れた海賊のセリフが近い。果たしてこんな少年から聞くものではなかった。
船長が返事?をした事で、何か安心したような仕草をした少年が更に発言した。
「はい。えっと、船といっても手漕ぎ船はいりません。皆さんはそれに乗って、近くの島まで頑張って漕いで行ってください」
丁寧な口調で紡がれる悪辣なセリフを少年は言い放った。
「――ふ。ふっ、ふっ。はあーはっはっはぁ!」
一人の乗組員の堪え切れない笑い声を皮切りに、甲板上にいた乗組員たちは笑い始めた。
「はっはっ、おい坊主っ、一体どこの港から隠れて乗り込んでたかは知らんが、いかんぞう、そんな悪戯をしてはっ」
乗組員たちは腹を抱えて笑う。どうやら少年の言葉を戯言ととして処理したようだ。それが例え、どう考えてもこの少年がここにいて、先程の水柱も理解できないものだとしてもだ。
「ちっがーう! 俺は、おれはー!……ぞく。そう、海賊だーー!!」
怒った顔で叫ぶ少年の身分はどうやら自称海賊らしい。
「だーはっはっ! 坊主、そりゃいいな。じゃあ俺はお前さんをとっ捕まえにきた兵隊だ」
一人の水夫がお仕置きのためか、拳を肩上に上げつつ少年に歩み寄った。
「ばかっ。不用意に近づくな」
皆が皆、少年の存在を軽んじていたわけではないようで、一等航海士のヘインは少年に近づく髭面の水夫を止めようとした。
「ヘインさん、大丈夫っすよー」
ひらひら手を振りながら髭面の水夫は、少年の元までやって来た。
「さあ坊主、お仕置きの時間だ。悪い事をしたらなんて言うのかなっと」
男の拳骨が少年の脳天に直撃した。
「うわっ!」
少年は驚きの声を上げ少し後ずさった。そして拳骨を見舞った水夫はというと、
「――ぐっ。いってぇ」
右手をおさえて蹲った。
予想と違うその光景に乗組員たちは動きを止め、場を波風の音のみが包み込んだ。
「……はっ。さがれっ!!」
いち早く再起した船長は、大声で髭面の水夫に離れるように言うと腰に差した曲刀を引き抜いた。
「お前。何もんだ――」
ここようやくに至って危険を察知した乗組員たちは、普段使いの刃物を各々手に取った。
乗務員たちの態度が急変したのを見た少年は、小言で何かを呟くと顔を上げた。
「俺が何者かだって? あんたもうボケ始めたのか、大変だな」
少年は両手を広げた。
「俺の名はアンドゥ。ラルガ海を股に掛ける海賊だ。命惜しくば抵抗せずこの船を明け渡せ!」
――決まった。少年ことアンドゥの顔はそう言ってた。
「海賊だと。坊主、その言葉に偽りないな――」
「ああうん。とりあえず専業の海賊、身分証はないから自称だけど」
海賊に身分証なんてあるのか? と、乗組員数人が頭を一瞬ひねったが、船長はより一層険しい目つきになった。
「専業の海賊ねえ。坊主。その言葉、もう引っ込めれねぇぞ」
商船の船長は、アンドゥの事を明確な敵対者として対応を始めた。
「お前等さっきの見ただろ、こいつはただの坊主じゃないようだ。自力救済に則り、殺してもかまわねえ、捕えろ!」
自分たちの身は自分たちで守る、海の上での暗黙の了解だ。
乗組員たちは、刃物を構えながらじりじりとアンドゥへ近づいて行く。
「人はあまり傷付けたくないんだ。素直に明け渡して欲しい」
アンドゥはアンドゥで、自称海賊の身分が効力を発揮し、態度が改まった乗組員たちに両手を前で振りながら説得するという、現状が見えていないような行動を取った。
アンドゥの説得はもちろん功を奏すわけもなく、三人の水夫が刃物を手に輪から飛び出して来た。アンドゥの前方と左右、多少の差はあれどそう遠くない未来、その刃物がアンドゥを切り裂く瞬間が訪れる。乗組員誰もがそう思っていた。
「――細かい動き、まだできないんだよね」
誰に聞こえるでもなくアンドゥが呟くと、その目に闘志が宿る。
「だからっ!」
アンドゥは走った。その速さは正面から迫る水夫が脇を抜かれてからようやく手を伸ばし始めた程。
その走りで乗組員たちの輪まで近づくと、今度は跳び上がった。その高さは大人の背の高さを超え、上へ伸ばした腕があと少しで届く程だった。ぎりぎり人の垣根を越え、甲板で一回転して立ち上がり、再び走り始めた。
アンドゥの向かう先には帆を張ったマスト、船体に三本あるマストの一番前、所謂フォアマストがあった。
「はあああーー!!」
アンドゥは掛け声とともにマストへ向けて拳を振り抜いた。
「「なっ!?」」
マストに使われている一本の木が今、役目を終えた。甲板に突き出た先がアンドゥが入れた特大の罅から風に煽られ傾き始めた。
「あの柱を殴ってへし折るとは……化けもんだ」
ある水夫の呟きは、何故かよく聞こえた。
アンドゥは乗組員たちの方に向き直り言った。
「ご乗船の皆さん。次はどっちがいいですか? 柱? それとも……ご自身で体験してみます?」
その時のアンドゥは酷薄な表情をしているように乗組員には見えた。
浮足立つ水夫たちを船長は落ち着けようとしたが、数々の荒波、時に海賊をともに切り抜けて来た古参の者達も縮み上がっていた。
「くそっ」
船長は場を沈めるのを諦め、腰に差した銃を引き抜き銃口をアンドゥへ向けた。騒動の原因を先に排除する事に決めたようだ。
銃声とともに鉛の弾が発射された。
「いてっ……くない」
船長は開いた口がふさがらない。服が不自然に動いた事から確かに弾丸はアンドゥに当たったのだろう。だがそれだけだ。服は破けず、血は滲まず、少年らしい高い声が出ただけ。
「銃ですか。船は砲甲板を持ち、乗組員は全員刃物を。そして船長らしきあなたは銃を持つ。武装商船、いや、半商半賊の兼業海賊団か」
その言葉に怒ったのか、乗組員数人が一時の感情に身を任せアンドゥへ突貫した。
「専業海賊が兼業に負けるわけない。俺はやるぞ!」