復讐の女商人 〔2〕
〔2〕
「…………うっ。ここは」
どこだ? その疑問がまずベリンダの脳裏を占めた。
だがすぐに次なる疑問が続々と湧いては流れた。寒い。寒すぎない。――寒さがわかる! 暗くない。明るくなりつつある。――朝日が見えている!
なにより、臭くなかった。草木の青臭さが満ちる中に多少の水気のようなものも漂っており、厳密には臭気とも呼べるものではあるのだろうが、いまのベリンダにとっては歓迎すべき芳しさでしかなかった。
そして、喋ることができた。半身を起き上がらせることも。力は大して入らなかったし、辛さ、怠さといったものが身の内から抜けきっていたわけではなかったが、それでも即座に死にそうというには程遠い状態だった。もうしばらく休めたならば多少の身動きが可能かもしれない。
「これは……どういうこと?」
《一時的に賦活しただけだ》
「だれっ!?」
とっさに振り返りつつ叫ぶ。ろくな声量が上がりもしなかったが、それでも何者かの声が聞こえてきたと思しき左後方へ身をよじって、警戒の視線を向ける。
だがそちらには木々の陰らしき暗がりばかりしか見えず、誰かが潜んでいる気配もない。
というより、気配が別方向の背面から感じていた。なぜかそのような気がした。しかし改めて振り返ってもそちらには何もない。また別の背面……視野の端に引っかかるような気配だけが、迫りもせず、しかし消えうせもせず。
《我を直視することはできぬよ》
「なんなの……」
おののき、怯えた震え声をこぼすことしかできないベリンダに。
だがその声は頓着することなく淡々と、事実を平坦に並べるようにして答えてきた。
《我は実在していない。そこにはいない。ゆえに直視することはできない。見定めることはできない。しかし無視することもできない。汝が望んだ。招き、引き入れてしまった。我が声は背後から囁くだろう。我が指先は影から這い寄るだろう》
「あなた……さまは。何方でいらっしゃるのですか……?」
おそるおそるとベリンダは問う。相手が普通ではない存在だということは肌に痛いほど感じていた。言われていることの意味こそよく分からなかったが、それでもあの間際に聞いた声、記憶にかすか及ぶそれと同じであるように思えたから。
下手に出ておくべきだという判断はまわった。そしてそれは正解だった。
《我は問われれば応えるもの――》声が響きだす。あらゆる背後の、そこら中から押し寄せて、蠢くように。幾重にもこだまする。《世の外側に揺蕩うもの》《高次不確定量子情報体》《奇跡と不条理の繰り手》《十七番目の魔法使い》《神に成り損なった男》《羽化天仙の失敗作》《それらの残滓の成れの果て》《暁に嘆くものの残影であり、黄昏に歌うものの残響である》《漂泊のグレイウォーカー》そして声が一つに統合する。《あるいは単に悪霊。好きに呼べ》
「グレイ……?」
反射的につぶやく。恐れに震え、ほとんど意味の分からぬ言葉ばかりの中、唯一ベリンダの耳が聞き分けられた単語というだけだったが。
《黒でも白でもないという意味で、灰色の道理を歩むものなどと呼ばれることもある。好きに呼べと言った通り、呼びよいように呼ぶがいい》
「では……では、グレイ様と。それで、あの。ここはどこで、わたしはどうなったのでしょう?」
《ここはかの都市から外れた近傍の小森林だ。森の奥まったところ、小さな泉が湧くその傍らとなる。我が転移させた。あそこは臭すぎたし、治す端から再び病気に感染されても面倒だったからな。身体の状態に関しては、先にも言った通り一時的な賦活を施してある。人間の思考とは脳組織に依存したものであるから、死にかけた状態ではまともに話すこともできない。必要な措置として、これはまあ、初回サービスの範囲だな》
「ええと……。グレイ様は臭いの駄目なんですか?」
なぜそこが気になったのか、ベリンダ自身にも分からなかったが。ひょっとしたら混乱しすぎて一番正直なところが口をついてしまったのかもしれない。
《現在の我は、汝の身を通して五感が一定の共有下にある。臭さに焼かれるばかりの嗅覚情報その他を無駄に味わい続ける必要もないだろう》
「はあ、ええと、なるほど……? そうかもしれませんね?」
《質問がそれだけならば、本題に答えたまえ》
びくり、と思わずその声に身がすくむ。別段鋭く言い放たれたわけでもない。しかし、ベリンダにとっては逃げられぬ現実を突きつけられたに等しかった。
「本題……とは?」
《汝が呼びかけた》
声は、やはり淡々と。
規定の事実を読み上げるように。続けて宣った。
《汝が手を伸ばした。我のごときを望んだ。世界のひび割れるまま、裏面に潜むものへと嘆きを届かせた。ならば、その存念たるところを申すがよい》
「存念……?」
《汝の存念を申すがよい。何を引き換えてでもと望んだ言葉を》
「わたし、の。望んだもの……」
それは、ある。ベリンダの内に、確固として、いまだ消えざる炎の盛りが。だが言葉にはすぐにはならない。形が分からないのではない。逆だ。ありすぎて、内からあふれるものが激しすぎて、喉が、口が、詰まってしまうのだ。
「わたし、は」
《汝の存念を申すがよい》
声は同じことを繰り返す。きっと、ベリンダが自身で言葉を為さなくては先に進めないのだろう。それがなんとなくだが伝わってくる。
ならば、搾り出すのだ。臆しながらでも、自らの言葉を。
「わたし、は……! あの時、許せないと! どうしても……!」
《力が欲しいか?》
「――え?」
一転して、声が抑揚を帯び始める。力強く、揶揄するような、煽り立てるような。
その変化にベリンダは戸惑うが、声は関係ないとばかりに問いかけを続けてくる。
《思い成し遂げる力が。復讐を果たす力が。仇を討つに足る力が。――力が欲しいか!》
「欲しい……欲しいですとも! こんな、弱いままの自分ではなく。踏みにじられるままの、立ち向かうこともできない自分ではない! そんな強さが、力が叶うのなら!」
《力が欲しいのなら》
声は告げる。それが最後の警告であるかのごとく厳かに。
《ただ一言を唱えるがいい。それは呪う言葉であり、ひび割れに楔打つ宣言である。決定的に引き返せぬことを承知で唱えよ……望むならば。――無念、と》
その声の告げる意味を。
ベリンダは、時間をかけてゆっくりと飲み込んでいった。
そして……白みかけであった朝日が完全に昇りきった頃。その眩さに照らされながら。
彼女は、それを唱えた。
◆
その日、とある都市の外れ地から一人の死にかけた女が消えたことも。
静かで激しい復讐劇の幕が上がったことも。
知る者は誰もいなかった。
いまは、まだ。




