#1 PROLOGUE
▼PROLOGUE▼
少し白んだ空気の空。
果てにある大地は丸く弧を描いて、何処までも続く草原。
その中央にはそびえるように、一本の大きな木が立っている。その木に宿る精霊が小鳥達を、りす達をそれだけではない、小さな小動物達を集わせている。
不思議な世界。
そしてこの世界に何時からいるのかさえも忘れた一人の少年は、一冊の本をたずさえて、この大地に住んでいた。たった独りでである。名前は無い。
しかし、誰もそんなことを気にしてはいなかった。
動物達はロ々に、会う度に声をかける。
『忘れられた時の者よ』とだけ。
その少年は、この日も同じようにこの場所に腰を下ろしていた。
その木にもたれ掛かるために、『忘れられた時の者』は、本を携えてやって来るのであった。
辺りでは、小鳥達が言葉も無き歌を語りかける中、その本を読んでいた。
それは厳かな時であった。
あまりの静寂の中、『忘れられた時の者』は暫くして眠りに誘われていると、いつもとは打って変わった大きな鳥の羽ばたく昔を聴いたのである。
『うつらうつら』していただけにその霞んだ視界の中、暫くして目を醒ます。
「誰?」
と、一言囁きかけた。
こんな事は、初めてのことであった。
一人の長い髪をなびかせた、背中に鳥のように羽根を持った者が目の前に現われたのである。
「この地に住み始めて、どれだけの年月を費やした事であろうの?」
その者は語りかけた。
「さあ、分かりません」
この『忘れられた時の者』は答える。
「時は満ちた。今こそこの地を出る時が来た……そなたに、それを告げにやってきたのである。心の準備は出来ておるか?」
その翼を持った者は問い掛けて来る。
「ボクが?」
「……訳有って、そなたはこの地で休息をしなければならなかった……でもその日々はもう、終わりにしなければならなくなったのだ」
「……」
「今日より地球と言う場所に、そなたは住まなければならない。その覚悟は出来るであろうか?」
「地球?」
「そうだ、この世界よりも遥かに文化が栄えた青い惑星。そこで本当の自分を捜しに行って欲しい」
「本当の自分?」
「今はこれだけを告げる。そなた……はそこで生きたいか?」
「……訳有って、この地にいたのであれば、是非その地に赴いてみたいけど……」
「お前のような人がたくさんいる場所だ」
「ボクのような?」
「そうだ。そこに行く事を願うのであれば私は、そなたをそこへと導く」
そう言うと、両手を前に差し出し大きく弧を描くように手を伸ばす。
すると、大きな光が大地を潤すかのような光を放ち、その中心に来るようにと誘う。
「ボクは、その人々に会いたい。そしてもっと多くの事を体験したい!」
導かれるまま、『忘れられた時の者」はその光の中に足を進めた。
「我が愛し子よ。それでは……」
『パーッ』と、瞬間真っ白な光が、辺りを飲み込んだかと思うと二人の姿はこの場から消えてなくなった。
それは不思議な光景であった。暫くすると、再び小鳥達の声がこの地に戻って来る。
しかしその場に『忘れられた時の者』はおろか、翼ある者も共に消えていたのである。
あれから幾月経ったのであろうか?
指折り数えながら一人の少年は一匹の犬を散歩しながら考える。
「一、二、三……」
それは粉雪が降る、河川敷に面した場所。
「お前の御主人様。もう、半年も入院してるな……?」
この少年の名前は、結城要。色素の薄い髪の毛を短くカットした小学四年生であった。
体格は、標準の小学四年生らしい様相をしている。
連れている犬は、隣に住んでいる二つ上の幼馴染みの少女、伊集院晶の愛犬アンダーソンであった。
晶は、水泳部のマネージャーをしてはいるものの、心臓が弱く、小さい時からよく入隣を繰り返すような病弱な子である。
そして黒い髪を後ろで二つに三つ編みをし、大きな瞳をした愛くるしい子である。
普段は、そんな病気を持っている事を全く周りに見せない心の穏かな子で、要自身、心が和む幼馴染みであった。
「早く元気になったもらいたいよなあ。お前もそう思うだろう?アンダーソン?」
そんな事を呟きながら、いつもの散歩道を歩いていた。
その矢先の事である。いきなり何を思っての行勤か、アンダーソンが要の手をいきなり力強く引っ張った。その弾みで、前のめりになる要。
余りに唐突な事だったので、繋いでいる散歩用のリードの先を離してしまった。
勢い良く駆け出すアンダーソン。それは嬉しげでもあった。
それを、
「おいっ!待てよ!」
と、要は慌てて駆け出し、捕まえようとする。
どれだけ走った事であろうか?要は、息を切らしながら、何時の間にか河川敷の下に流れる河の草むらへ下りる階段を駆け下りて、早く捕まえようと後を追った。
「もう、息が続かない……」
『ゼハ、ゼハ』と乱れる呼吸。それを落ち着けようとするが、上手くはいかないでいた。
暫くすると川岸に、アンダーソンが座り込んで、止まっているのが見受けられたのを切っ掛けに、要はゆっくりとその場所に歩いていた。
アンダーソンは、川の上空を見上げて、
「ク〜ン、ク〜ン」
と鳴いていた。
その側まで近寄った要は、安心したのか両手で膝を押さえ肩で息をしていた。
そして、何を見上げて鳴いているんだろうと、気になり見上げる。そして大きな色素の薄い瞳をこれ以上ないといったくらいに大きく見開き、驚いた。
そこには、一人の天使がこちらを見下ろしていたのであった。
「うわ〜っ天使!!」
要は叫ぶような大声で喚いた。
「えっ?ボクの事が見えるの?」
惚けた様にその天使は答える。
「……見えるよ……!!」
何やら、両手を顎の下で合わせ感嘆の声を上げているのを見て、
―この天使はなんなんだ!?―
と、少し冷静になって来た頭の要は、悪態をつく。
「見えますとも。そんなに踊って歌っていれば……嫌でも……」
だんだんと腹が立ってきた。
―こんな者のために、オレはこんなしんどい目にあったっていうのか……!?―
と、心の中で思う。
そんな時、『スッ』と、目の前の天使が、忽然とその上空から姿を消した。かと思うと、『パシャーン』という音をたて、河に落ちたのである。
それを見届けてその場所へと駆け出す要。
この寒空の下、要はその天使を助け起こそうと水の中に入って行った。
「おい、大丈夫か?余り深く無くて良かったな。このくそ寒いのに風邪引くぞ!」
その傍に行って、声を掛けながら手を差し出す要。
「ほらっ」
しかし、初めてこんなに間近に見たその天使の顔は……
「晶ちゃん!?」
そう、晶の顔をした天使は、短い癖っ毛のある髪を短くそろえた少年であった。
「えっ?」
その天使は、不思議そうに要を見上げる。腰あたりまで水に濡れたその天使は、恐る恐るその差し出された手を素直に取る。
「……ありがとう」
「えっ?どう致しまして……」
と、心ここに無い感じで要は返事をした。
―莫迦な、晶ちゃんの訳なんか無いか?―
と、放心状態のまま頭で理解しようとする。
そして、
「オレ、初めて天使なんか見た……」
と口から零す。
「天使?」
「そうだろう?お前……」
と、言おうとしたが、それを聞いてか聞かずか、アンダーソンの方へと駆け寄るその天使の背中には……今まであったはずの天使の羽根が消えてなくなっていたのである。
―羽が……ない……!?―
今まで見ていたのは現実だったのか?
顔を指でつねる要。確かに痛い。莫迦みたいな事をしてしまったと思った。
アンダーソンの側で抱き寄せているその少年の背中には羽根が無かったのである。
「おいっ!お前!!羽はどうしたんだ……?」
「えっ?」
と、立ち上がって背中に手をまわしている少年。
「あっ。無い……」
余りにもぼけた事を言っているこの少年に、
「無い。で済むのかよ!お前!!」
他人事なのについ突っ込まずに入られなかった。
「う〜ん。ちょっと不便かも」
なんてぬかした時には、脱力感さえした。
「そう言う問題なんかよ……?」
「う〜ん。そうだね……でも必要無いよ。君にだって無いじゃないか」
「……まあ、そりゃそうだけど……」
こういう人種にそんな事をいっても、きっとなんの効果も得られないんだろうと判断した要は、腕組みをしつつ、
「お前、名前はなんて言うの?」
と、相手の名前を聞いた。
「ボクの名前?」
今まで、『忘れられた時の者』としか無かった名前にどう答えたらいいのか判らなかった。
そんな折、どこからともなく声が聞こえてきた。それは、あの時の翼ある者の声であった。
『そなたの名前は、京極結……憶えておきなさい』
その声は、その少年の耳に鳴り響いた。
「僕の名前は、京極結」
空から舞い落ちる粉雪は、タ方近いこの空を、静かに舞い散っていた。
それからの二人は、要の家を紹介するために、アンダーソンを運れて家路へと歩いていた。
余り車の通らない道で、簡素な住宅街。
「それじゃあ何か?お前……この地に来たのは、その『翼ある者』の導きだって言うのか?」
と、まるで、異次元の世界から来たこの訪問看を受け入れているかのような姿勢で、要はその話に耳を傾けていた。
「うん。ここに来る途中、幾人もの人達に会ったんだ。だけど誰もボクの事が見えないらしくって、相手にしてくれなかった。君が初めてだよ」
嬉しそうに話すこの少年が、本当の事を言っている事は飲み込めた。というか、自分の見て来たこの事柄を嘘だとは思えないからでもある。
「それじゃ、お前これから困るだろう?家なんて無いんじゃないのか?」
「家?」
結には、それがどう言う物なのか分からない。
「なんて言えばいいのかな?生活する場所?住む所……?」
「うん。無い」
「そう簡単に答えるなよ……」
そんな話をしていた矢先だった。
「こらー!!」
と、言う女の子の声が、後ろから矢のように突き刺す勢いで投げかけられた。
振り返る二人。
その先には、おかっぱ頭の勝ち気な一人の少女が眉聞にしわを寄せながら立っていた。
「げっ!!」
要は後ろに身を引いた。
「げっ!……じゃあ無いでしょう?要!!」
『ジリジリ』と詰め掛けて来るその足取りが、怒りから来るのものだと分かる。
「誰?」
静かに問う結。
「小五月蝿い、掃除のおばさん!」
ボソボソと囁く。
「ふ〜ん?」
「あんた!また、掃除さぼったでしょう」
と、その少女は怒り込めて言う。
「イヤ〜、ちょっと野暮な用事が有りましてね……」
と、『ゴニョゴニョ』と言い訳じみた事を話す要。
「しっかりしてよね!!」
この少女。要のクラス副委員長で、名前は宮下水。
水泳部員で、晶の後輩。そして要の従姉妹でもある。
「ははは……」
笑って誤口化してはいるが、これ以上話していると、この水の術中にはまる事このうえない事を悟った要は、何とかこの場を去ろうと必死であった。
「ねえ、何でこの子怒っているの?」
と、結は問う。こういう感情表現を余りよく判ってないらしい。
「いや、ちょっとオレが撮除さぼったものだから……」
「掃除?」
「知らないのかよ〜!綺麗、綺麗する事!!」
「ふ〜ん」
と、要は結が話をしている。
その様子を訝しげに見ている水。
「ちょっと、あんた……さっきから一体誰と話をしているのよ?」
「えっ?」
水の言葉に、同時に振り返る二人。そう。水には結の姿が見えていなかったのである。
「それじゃ、あんたの側に、天使だった子が居て、名前は京極結という。それも、私の目には見えないって言う事ね?」
ここは、要の部屋。性格どおり、ざっぱな部屋である。
しかし、ここがまるで自分の部屋のように居座る水は、ちゃっかり要の勉強机の椅子を死守している。
「そこかっ!!」
と、指をさす水。言い当てられて驚く結。
「莫迦、驚くな……座布団敷いてるから判るんだよ……」
と助言する要。
床に敷かれた座布団の上に正座するように座っている結。
水から向かって左に有るベッドに腰掛ける要。三人は、立ち話もなんだからと言う理由で、この要の部屋に来ていた。
「ふ〜ん。でも良かったじゃない?姿が見えない事で、住む家も出来た事だし?」
と、言う水の目には映らない他人に、何の事はないという風に答える。
「でも、このままじゃいけないよな?」
「なんで?」
「だって、幽霊って訳じゃないんだぜ!?」
要は付け加える。
「きっとどうにかすれば、この身体だって見えるようになるはずなんだろうし」
要の目に姿が見えた時、天使の羽根がなくなった。
どう考えても、要と言う媒介が、その羽根を不必要にする要因があったはずなのだ。
つまり、結の家……結を実体化する物がどこかに有る筈なのである。
「それを探さないとダメだって事?」
「そうだよ!」
結には、何だか解からない話をしているかのようで、ただ二人の会話を聞いているだけに留まっている。
「そうだね……それじゃあ、ちょっと専門外かもしれないけど、私の姉、四季姉ちゃんに相談してみようか?」
『四季姉ちゃん』とは、水の三つ上の姉である。
宮下家は代々受け継がれてきた水神を奉ってきた一族であった。その長女四季は、そのカを持った巫女であるらしい。
「お話の途中で悪いんですが、つまり、ボクの本体がどこかに存在していると言う事なんですか?」
「その可能性が大きいって話していた所なの」
「……僕の本体?」
結は立ち上がって窓際へと歩き始めた。
「おいっ結!」
何かを決心したように振り返る結。
「ボク、自分の事を知りたい!だから、力になって欲しい!!要、水!」
その結の瞳には、希望に溢れる光を宿していた。
「ありがとう」
そう言った。というより聞こえたその声は、まだ大人になっていない声高な確かに少年のものであった。
しかし、水は考えていた。
見えなかったその結の表情が見れた瞬間があったからだった。
―あの顔は、晶先輩……!?―
尊敬する先輩の顔を、水が見間違えるはずなんてなかった。
―でも、なぜ?―
水の心の中は複雑に絡み合っていた。
「おい、こんな夕方にお邪魔して大丈夫なのか?」
と、要は水に問いかける。
「平気よ。四季姉ちゃんこの時間だったら、忙しくないと思うから」
「しかし久しぶりだよな、お前の家に行くの……」
要は、その従姉妹の家に、お盆に顔を出したきりだったのを思い出しながら答える。
「そうだったかしら?」
「そうだよ。ああ、あの四季さんに会えるなんて幸せだよ〜!!」
『四季さん』呼ばわりするのは、憧れの対象である事に他なら無い。
妹の水とは全く正反対で、落ち着いた、品の有るその四季の容貌は、誰の目から見ても好感が持てるのである。
「何でこんなにも違うかな?」
と、ふと自分を見る要の視線に気付いた水は、
「ふんっ。悪かったわね!」
と、比べられた事に腹を立てていた。
「どうせ私は、四季姉ちゃんのような人格者じゃないわよぉ!」
道すがらそんな取り留めの無い会話に華を咲かせていた。
「さあ、着いたわよ!」
厳格な門を開けた。
『ガラッ』と開けた水は、道すがら庭を案内していた。
「ただいま〜」
と、一度玄関の戸を開けると声をかけていた。
「お邪麗しま〜す」
要はその後を追い掛けるように、声を掛けた。広い土間のある玄関。歴代の風格が有る場所である。その奥に、古い間取りの部屋並びが見渡せられた。
「四季姉ちゃーん!いる〜!?」
暫くすると、一つの扉が『ガラッ』と開かれた。
「四季なら裏の庭にいるぞ……」
と、頭をかきながらあらわれる少年。
「げっ……」
と、その姿と声を聴いた瞬間、後ろに引く要。
「何だか、客人が来るって言って、待っていたようだけどお前だったのか……」
その視線の先に要の姿を見つけてニヤリと笑っていた。その様子に、『しまった』と言う表情で、
「そう、ありがとう」
と、簡単に答える水。
「ところで、久しぶりだね要君?鎮お兄ちゃんは元気かな?」
壁に寄り掛かりながら腕を組んでこちらを眺めている少年。
「ええ、まあ。相変わらず、バスケ莫迦をやっていますよ」
と、顔をヒクつかせながら答える要。
「やめてよね!光一にいちゃん!」
顔を突き合わせる度に、この態度。いい加減、いがみ合うのはやめて欲しいものである。
「もうっ、行くわよ、要!」
そう言うと、再び玄関のドアから外に出る、水達。
その背中を見ながら、
「三名様御案な〜い」
と静かに見ている光一であった。
裏庭は広く。しかも神社の境内裏ともあって趣の有る所である。
ここに来ると、要は何だか悪さが出来ない気分になるものだった。
「さっきのは、誰?」
「水の兄貴」
「何だか、険悪だったようだけど……」
鈍感ながらも結は、事を察したようである。鈍いんだかどうだか?
「う〜ん。オレの兄貴に鎮って言うのが居るんだけど……(今度紹介するよ)そいつと折が合わなくってさ……いつもオレがとばっちりを受けるんだ」
「お気の毒だね……」
「……ホントだよな」
そんな話をしながら三人は歩く。
『カコーン』という獅子脅しの音が鳴り響いていた。
「四季姉〜どこ〜?」
裏庭には、神社の境内もあって、捜すにも一苦労である。先程から、水は声を張り上げて四季を呼んでいた。そして、
「あっ!」
と、気付いた。
渡り廊下の有るそこに、巫女の格好をした四季が掃除をしていたからであった。
「あら、水。おかえりなさい」
その場所へと一目散に駆け出していた水。
何やら喋っているのが遠目にも分かる。そして、要のいる方に視線を送ってきた。要と結が、その場所に辿り着いた時、
「今日、お客さんが来る予感があったのだけど、要君だったのですね?」
四季が物静かなロ調で話し掛ける。
「そして、そちらにいるのが、結さんですね?」
と、見えるはずのない結の顔を微笑んで見ている。
「四季姉、見えるんだ?」
「ええ、見えますよ」
その言葉に、ちょっと頬を膨らませる水。
「ちえっ。見えないのは、私だけか!」
その表情は『つまんない』とでも言うかのようであった。
「水から話は聞きました。占うと言うのとは違いますが……ちょっと潜在意識を引き出すような事で、結さんの事を占って差し上げます。境内に来ていただけますか?」
そう言うと、掃除をしていたその箒を近くの壁に立て掛けて、その境内へと案内してくれた。
「我が宮下家の力は、水の力で占いやお払いをする事を生業としてきました」
言いながら、境内の中央に用意された水鏡に手をかざし、四季は何かを見ようと暗示を掛けた。そして、その中央に有る水鏡の前に、結は立っていた。
「その力は、我が一族に受け継がれています。兄の光一は、傷を癒す力。妹の水は水の力を利用し力を与える力。そして私は未来を見、安定を量る力を。今、見えざる力を呼び起こします。精霊よ!降り来れ!!」
そう唱えると、四季は静かに水鏡に張られた水に精神を集中していた。
要と水は、その水鏡と、結の右に位置した所に正座して控え、ことの成りゆきを見守っていた。
「お前にそんな力があったのか?」
「まあね……じゃないと、水泳部での都大会優勝だってそう簡単には出来ないでしょ?」
「納得……」
「それより、静かに!」
水は、要の言葉が五月蝿いとでも言うかのように、それを制した。
暫くすると、水鏡を中心に眩い光が放たれる。
すると結の周りを、水鏡に張られたその水の飛沫が上がったかと思うと、勢いよく結の背後に取り巻き、ある像を形作った。そして浮かび上がったのである。
「うわっ!なんだ!?」
要は驚いた形相で、後ろに身を引いた。
―我ハ、『忘れられた時の者』ノ庇護者。名前ハ『ウリエル』―
そう告げるとその像は、少しつつ形を変動させながら、結の背後で光を保ちながら揺らめいていた。
―コノ者ノ何ヲ知リタイノカ?―
「過去ならび、未来を!」
その言葉に答える四季。
―未来ナレバ答工ラレヨウ―
「なれば、お教え下さいー」
―彼ノ器ヲ捜スナレバ、ソノモノニ近キモノヲ捜シナサイ―
「その者に近き者とは?」
―双子ノ姉―
「双子?」
―ソウ、無惨ニモ引キ裂カレタ、カノ双子ノ姉ヲ―
次の刹那、その像は形をとどめられない様にして分断された。
「何?どうしたの!?」
四季の顔に疲れが見えている。その表情を水は確かに見届けた。
―我ガ邪魔ヲスルモノガ現ワレタ―
部口の片隅で、小さな物音が聞こえる。
「誰!?」
すぐさま四季が声を上げた。要と水がその音のする方を見る。
「光一兄!何て事してるのよ!」
その場を汚すかのようにこの場に現われた異端者。その瞬間、
『バターン』と、四季が倒れた。
それを、助け起こすかのように、水と要は駆け寄る。
―デハ、我ガ愛シ子ヨ……―
そういうと、その水の像は水しぶきを上げ、光が解き放たれた。
次の瞬聞『パーッ』とした虹色に光る光を放ちながら、大きな翼を持った、一人の女性の姿が現われたのである。
「よくも邪魔をしてくれましたね」
要と水がその方角を見上げる。そして絶句しそうになった。
「……晶ちゃん!?」
「晶先輩!」
二人は同時にその人物の名前を呼んだ。
「何故ここに、晶ちゃんが?」
疑問符を投げかける要。訳がわからなかった。
そして水は、一目散で四季を要に任せて立ち上がった。
「やっぱり、見覚えが有ると思ったんだ!双子の姉弟って、晶先輩なんでしょう!?」
見上げながら水は、胸に手を当てて叫んでいた。
「……」
その言葉に何も答えない晶。
「晶ちゃんと結が双子?そんな話、聞いた事もない……」
四季の意職が戻らない中、要は訳が分からないといったふうに事の成りゆきを見守っていた。
「先輩!」
叫ぶ水。
「その前に、この場の邪魔をしてくれたネズミに消えてもらいましょう」
静かに答える晶。
「邪魔者ってオレの事?」
と、戸口に寄り掛かっている光一は、自分を指差し、『ふざけるな』とでも言った顔で晶を見上げていた。
「他に誰がいるのでしょう?ラファエル殿?」
光一の事を言っているらしいが、要にも、水にも、何が何やら見当がつかないでいた。
すると晶は、両腕を大きく横に弧を描くように振り上げ、頭上で手の平に神経を集中する構えを見せる。
刹那、放射状に解き放たれた光がだんだんと大きな光の玉を形作った。
「暫く眠って頂きます!」
そう語ると、晶は、有無をいわせないようにして、光一目掛けてその玉を放ったのである。
一直線に走る光の玉。その玉は拡散し、大きな渦をも従え、光一を飲み込んだ。瞬闘、爆発的な音を発して光は収まった。
「うわー!!」
という叫び声が辺りに響き、光一は光の渦の中に飲み込まれるようにして消えて行く。
後に残るのは、倒れた光一の姿であった。
「光一兄!」
その様子を逆光の中見届けていた要と水は何も出来ずにいた。
「晶先輩?一体これは……」
尊敬する先輩と言えども、水にとってこの状況は説明無しでは許せるものではなかった。
「ごめんなさいね……水。こうでもしないと、話が出来ないの……」
「光一兄は……?」
「大丈夫。ただ眠っているだけだから」
柱に崩れるように寄り掛かっている光一の姿は、あの音からは想像も出来ない程、何の変哲もないものであった。
「要。四季さんもそのうちに気を取り戻すから、安心なさい」
「晶ちゃん……これってどう言う事なの?それに、何故ここに晶ちゃんがいるの?」
今は入院生活をしている晶であった。しかし今、この場にいるのはまぎれもなく伊集院昌なのである。
「何から説明すればいいのか解からない……」
といいながら、晶は羽根を休めるかのように床に降り立った。
「説明?」
「そう。さっき、ウリエルが言っていたと思うけど……わたしがその、結の双子の姉なの」
「やっぱり……似ていると思った……」
要も水も結を晶と間違えた事は事実である。それ程に二人は似ていた。
「姓は違えど、私達は同じ母を持つ姉弟。だけど訳があって私達が三歳の時、違う親元で離ればなれに暮らす事になったの」
静かに答える晶。
「でも、結の一家は破滅の道を歩んで行く……美奈子おばさまが……結のお母さんなんだけど、結を虐待するようになって行ったの……それも話を難しくすると、仕方の無い事なんだけどね……」
「それじゃあ……結の家族は今は?それに結は?」
要は問うた。そんな事まで知っていて、今まで平気でいられたのであろうかこの晶は?
「一家は既に死に絶えた。結の身体はもう既にないわ」
「えっ?」
要、水は驚きのあまり、声を失った。
「実は私の魂は、もう尽きようとしているの。と言うより、約束の期限が来たの」
「!?」
「ウリエルの導きが私の元に現われた。私はこの身を結に明け渡し、天界へ行かなければならない。それが私と、結に架せられた約束」
「そんな……先輩!?」
「晶ちゃん!!」
晶の器が、結の器になろうとは思ってもみない出来事であった。
「やだよ。晶先輩がいなくなるなんて……そんなの嫌だ!!」
水が、ベソをかくような仕種で涙を拭う。
「ごめんなさいね……でも、私はこうなる運命を、今か今かと待ってもいたの」
そう言うと、遠いその天界を夢見るかのように、遠い目をした晶がその場に居た。
「今まで、結は日の目に当たった事が無かった身の上。あなた達二人なら、この子を見守ってくれる事だと思う。それを見込んでのお願いよ。この子のこと宜しく頼むわ!」
そう言うと、先程までハッキリとしていた晶の姿が半透明になって来た。一瞬涙で曇ったのかと目を擦る二人。
しかしそうでは無かった。
「ありがとう。また逢う日を楽しみにしているわ。必ず……」
「晶ちゃん!!」
「晶先輩!!」
次第に消えて行く晶の姿。その姿がすっかり消え行くまで一歩も動く事が出来なかった二人は、じきに四季や、光一が目覚めるまでその場に立ち尽くしていた。
二人の前から消え去った晶。
それが、死を意味するものだと知った二人はその後、すぐさま晶の居る病院へと駆け込んだ。駆け込んだ病院の郎屋の前には、面会謝絶の札が掛けられている。その部屋の前で二人と、結は時を待っていた。
「……」
誰一人声を発する者がいない中、不思議な現象が結を包んでいた。
静まり返った部屋の中、晶の母の涙ぐんだ声だけ鴫咽として聞こえてくる。弱々しい心臓の計測器が、只静かに時を刻んでいる。
その様子が、結にはなぜか見えていたのである。暫くすると『ツーッ』ともう何も刻まない心拍停止の音が鳴る。
「晶――!!」
泣叫ぶ晶の母。薫。
その様子を見届け、結は要と水に声を掛けた。
「ボクは、これから晶として生まれ変わる。でも、それを君たちは許してくれるだろうか?」
そう語りかけた。
「……」
どう反応していいか戸惑う二人。しかし、答えを貰わないまま結は、
「……それじゃ。行って来るよ」
それだけ言い残すと、壁をすり抜けて結は部屋の中に入って行った。
「奇跡だ!!」
部屋の中は、歓喜の声で持ち切りであった。
たった今止まったばかりの心音が蘇ったのである。
扉を開けて『バタバタ』という足音を立てながら、看護師や医師が出入りを始めた。
たった今起こった事。それを要や水は知っていた。
「どう思う?」
要は水に問いかけた。
身体は晶のまま、中身は結である事実。
この事を知っていて今まで通り接する事が果たしてできるであろうか?
「晶先輩は、私達を信じてこの事を知らせてくれた。信じていなかったら、人知れず入れ替わっていたかもしれない。それに報いるために私達ができる事は?」
水は考えられる全て、受け入れる事を考えていた。
「そうだよな。晶ちゃんは、オレ達に後の事を頼んで逝ったんだよな……ならそれに答える事が先決だよな……」
水の言葉に同意するように答える要。
「それには、結の記憶が、晶先輩の物と変わらない物で無いと不自然だよね……」
「確かにそうだよな……」
これから先の事など分からない。
でも、一風変わった二人の精神構造を同じ物にする事など可能なのか?
それが今の二人の悩みの種であった。
「これから大変だ」
「本当……」
そうして晶の、いや、結の誕生を見届けて、二人はこの場を去っていったのである。
先にご忠告ありあります。
話の途中で、少しBL要素もあったりですが、人が人を好きになる愛の形というものも必要だなと思ったりしたので、取り込んでます。お気をつけて頂ければ幸いです。