第86話 一歩分、近づく
歩き出したからといって、
世界がすぐに変わるわけじゃない。
エレノアは、それをよく分かっていた。
だからこそ――
確かめるように歩く。
急がない。
でも、立ち止まらない。
「……地図の上じゃ、分からないですね」
街道を外れ、
あえて人の通らない方へ足を向ける。
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空気が、少し違う。
魔力が濃いわけでも、
薄いわけでもない。
ただ、
触れたときの“返り”が遅い。
「……応えが、鈍い」
ネファル=ディアが低く応じる。
(拒んではいない)
(だが、前向きでもない)
「……はい」
それは、
これまで見てきた“完全な沈黙”とは違う。
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しばらく歩くと、
小さな野営跡が見えた。
焚き火の痕。
踏み荒らされた草。
最近、誰かがいた。
でも――
今はいない。
「……撤退、というより」
エレノアは、膝をついて跡を見る。
「……中断、ですね」
慌てた形跡はない。
逃げた様子もない。
ただ、
続きをやめた痕跡。
⸻
その時。
かすかな音が、耳に届いた。
「……あ」
誰かの声。
遠くない。
エレノアは、
音の方へ、静かに歩く。
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いたのは、
若い冒険者だった。
一人。
剣も、杖も持っていない。
地面に座り込み、
靴紐を結び直している。
「……すみません」
エレノアは、
少し距離を保ったまま声をかけた。
「ここ、最近誰か来ましたか?」
冒険者は、顔を上げ、少し驚いたあと、
首を振る。
「……来たけど」
「途中で、やめました」
「……理由は?」
「……分からないんです」
正直な答えだった。
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「怖かったわけじゃない」
「危険も、なかった」
それでも。
「……なんか」
「続ける意味が、分からなくなって」
その言葉に、
エレノアは息を呑まなかった。
もう、知っている感覚だ。
「……それで、戻ったんですね」
冒険者は、頷く。
「はい」
「……間違い、でしたか?」
エレノアは、
一瞬考えてから答えた。
「……いいえ」
「止まったのは、正しいです」
「でも」
視線を、地面から前へ。
「……戻る必要は、なかったかもしれません」
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冒険者は、少しだけ考え込む。
「……進む、って」
「怖いです」
「はい」
即答だった。
「でも」
「止まり続けるのも、怖い」
その言葉に、
冒険者は、苦笑する。
「……ずるいですね」
「……はい」
エレノアも、少しだけ笑った。
⸻
冒険者は、立ち上がる。
「……もう少し」
「歩いてみます」
それだけ言って、
街道とは違う方向へ進んだ。
エレノアは、止めなかった。
選んだのは、
彼自身だ。
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その場に残ったエレノアは、
ゆっくり息を吐く。
「……影響、出てますね」
(ああ)
ネファル=ディアが応える。
(待つだけでは)
(届かぬ段階だ)
「……はい」
だからこそ。
「……“歩いてる人”に」
「触れる必要が、あります」
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エレノアは、地図を取り出す。
さっきの野営跡に、
小さな印をつける。
事件ではない。
異変でもない。
判断の揺らぎ。
それが、
今の世界に一番多い歪みだった。
⸻
遠い現実の世界で。
しおりは、
仕事帰りに、いつもと違う道を選んだ。
理由は、ない。
ただ、
「今日は、歩けそう」
そう思っただけだ。
⸻
世界は、まだ静かだ。
でも――
人の足が、少しずつ前を向き始めている。
エレノアは、
その“一歩分の変化”を、確かに見た。
そして理解する。
これから必要なのは、
大きな解決ではない。
**「進もうとする人のそばに立つこと」**だと。




