第85話 待つという技術
エレノアは、朝の光が差し込む机の前で、しばらく何もせずにいた。
地図は開いている。
報告も揃っている。
判断材料は、十分にある。
それでも――
決めない、という判断を続けていた。
「……待つ、って」
呟きは、小さい。
「……止まることじゃ、ないんですよね」
⸻
ネファル=ディアの気配が、境界の向こうで揺れる。
(違うな)
「……はい」
(待つ、とは)
(“見続ける”ことだ)
エレノアは、息を整える。
「……見続けている、つもりでした」
(つもり、か)
その言葉が、胸に落ちた。
⸻
エレノアは、これまでの“待ち”を思い返す。
呼ばない場所を作った。
切った後に残った。
急がず、壊さず、選ばせなかった。
どれも、間違っていない。
でも――
待つ理由が、少しずつ変わっていることに、気づいてしまった。
「……怖く、なってきたのかもしれません」
(何が)
「……待つことを、やめるのが」
⸻
ネファル=ディアは、しばらく黙った。
(それは)
(“待つ”を)
(目的にし始めた兆候だ)
エレノアは、目を伏せる。
「……はい」
守るために待った。
壊さないために待った。
いつの間にか、
決めないこと自体が、安全になっていた。
⸻
「……でも」
エレノアは、顔を上げる。
「待つことは、技術です」
「勇気と、同じくらい」
(続けろ)
「……見極める線を、持たないと」
「待ちは、逃げに変わる」
言葉にした瞬間、
胸の奥が、少しだけ楽になった。
⸻
エレノアは、地図に指を置く。
線でつながった異変。
静まり返る地域。
「……ここ」
「今は、動いても壊れない」
確信ではない。
でも、判断だ。
(呼ぶのか)
「……いいえ」
(では)
「……歩きます」
その言葉に、
境界が、わずかに安定する。
⸻
エレノアは、立ち上がった。
剣も、陣も、用意しない。
準備するのは、足と、目と、耳。
「……待つのを、やめるんじゃありません」
「待ちながら、進みます」
それが、
今の自分にできる、最適解だった。
⸻
外に出ると、
街はいつも通りだ。
でも、
エレノアの見え方は、少し違う。
「……待ってる人が、いる」
困ってはいない。
叫んでもいない。
ただ――
先へ進む合図を、探している。
⸻
境界の向こうで、
ネファル=ディアが低く言う。
(選んだな)
「……はい」
(怖いか)
「……少し」
(それでいい)
⸻
遠い現実の世界で。
しおりは、
昼休みの窓辺で、深呼吸をした。
理由は分からない。
でも、
胸の奥で、同じ言葉が浮かぶ。
「……待ちながら、進む」
その言葉に、
小さく頷いた。
⸻
待つことは、止まることじゃない。
進む速度を、選ぶことだ。
エレノアは、
その技術を、ようやく自分のものにし始めた。
次に必要なのは――
一歩、踏み出した先で“何を見るか”。
物語は、
静かに、次の局面へ進む。




