第82話 眠らない理由
朝霧しおりは、
目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
理由は分からない。
悪い夢を見たわけでもない。
ただ、
胸の奥が少しだけ重い。
「……今日も、か」
小さく呟いて、
布団の中で天井を見つめる。
⸻
体は、ちゃんと動く。
息も、苦しくない。
それなのに、
“何かが追いついていない”感覚だけが残っている。
しおりは、自分の胸に手を当てた。
(……焦ってる?)
違う。
(……怖い?)
それも、違う。
少し考えてから、
しおりは気づく。
(……置いていかれる、感じ)
⸻
仕事に行く準備をしながら、
ふと、昔のことを思い出す。
病気のあと。
失恋のあと。
世界が動いているのに、
自分だけが、取り残されている感覚。
「……また、同じ顔してるな」
鏡の中の自分に、
苦笑する。
でも、以前と違うのは――
その顔を、嫌いじゃないことだった。
⸻
「……急がなくていい」
誰かに言われたわけじゃない。
でも、
その言葉が、胸の奥にある。
理由は分からない。
それでも、
立ち止まらない自分がいる。
「……大丈夫」
そう言って、
玄関の扉を開けた。
⸻
その頃。
遠い世界で、
エレノアは地図を見つめていた。
線でつながり始めた異変は、
一度、静まっている。
だが――
終わってはいない。
「……応えなくなった場所が、増えてる」
完全な破壊ではない。
暴走でもない。
ただ、
世界が“返事を渋っている”。
(……疲れが、抜けていない)
ネファル=ディアの声が、低く響く。
「……はい」
休ませただけでは、足りない。
戻るには、時間が要る。
⸻
その時。
一枚の報告書が、
エレノアの机の端に置かれているのに気づいた。
差出人の名を見て、
エレノアは目を細める。
「……リーナ」
内容は、短い。
南方の街道沿いで、
“何も起きていない場所”が不自然に増えている。
静かすぎる。
誰も困っていないが、
誰も安心していない。
それだけ。
でも、
十分だった。
「……動いてくれてますね」
(ああ)
ネファル=ディアが応える。
(見えぬところで、な)
⸻
エレノアは、報告書を丁寧に畳む。
まだ、呼ばない。
まだ、動かない。
でも――
誰も、止まっていない。
しおりは、今日を生きている。
リーナは、世界を歩いている。
名を持たぬ場所は、呼吸を続けている。
それぞれが、
それぞれの場所で。
⸻
しおりは、
職場へ向かう道で、空を見上げた。
理由はない。
ただ、
少しだけ、深呼吸をする。
「……今日は」
「……ちゃんと、立てそう」
そう思えたことが、
何よりの変化だった。
⸻
天変地異は、まだ終わっていない。
でも――
世界は、確かに“動き直している”。
ゆっくりと。
壊れないように。
次に問われるのは、
**「どう直すか」ではなく、
「どう共に生きるか」**だ。




