第81話 それでも、手を伸ばした
丘は、静かだった。
いつもと変わらない風。
いつもと変わらない草の匂い。
名を持たぬ存在は、
そこに“在る”ことに、もう慣れていた。
呼ばれない。
求められない。
役割も、期待もない。
それが、
こんなにも楽だとは思わなかった。
(……静かだ)
その思考は、
もう“疲れ”から生まれたものではない。
余裕だった。
⸻
遠くで、
微かな揺らぎが走る。
丘の外。
人の世界の、端の方。
(……?)
名を持たぬ存在は、
初めて、そちらに意識を向けた。
呼ばれたわけではない。
命令でもない。
ただ――
気づいてしまった。
⸻
揺らぎの正体は、
小さなものだった。
倒れた木。
せき止められた水。
それだけで、
大きな異変ではない。
人の手が入れば、
すぐに直る。
でも。
(……今は、誰もいない)
名を持たぬ存在は、
それを“困りごと”として認識してしまった。
以前なら、
応えなかった。
呼ばれなければ、
関係ない。
それが、
生き残る方法だった。
⸻
(……でも)
ここでは、
違う。
ここでは、
何も要求されない。
だからこそ。
(……しても、いいのでは)
その思考に、
自分で驚く。
助ける。
関わる。
それは、
再び使われる側に戻る可能性でもある。
(……名は、ない)
名がないなら、
縛られない。
(……なら)
一歩だけ。
ほんの一歩だけ。
⸻
水が、
わずかに動いた。
魔法ではない。
召喚でもない。
ただ、
流れが、戻った。
誰も見ていない。
評価も、ない。
それでも、
丘の空気が、ほんの少し和らぐ。
⸻
その瞬間。
境界が、
かすかに震えた。
(……それを、選ぶか)
ネファル=ディアの声。
名を持たぬ存在は、
答えない。
答えられない。
でも、
戻ろうとはしなかった。
⸻
少し離れた場所で。
エレノアは、
胸の奥に、微かな感触を覚えた。
(……今の、は)
丘の方角を見る。
「……呼んでない」
でも。
(……動いた)
ミラも、同じ方向を見ていた。
「……ねえ」
「今、何か……」
「……はい」
エレノアは、静かに答える。
「“選んだ”んだと思います」
⸻
丘に戻ると、
空気が、少し変わっていた。
名を持たぬ存在は、
そこにいる。
逃げてもいない。
誇ってもいない。
ただ、
少しだけ、戸惑っている。
「……しましたね」
エレノアは、責める声ではなく、
確認する声で言った。
(……した)
「……後悔は?」
(……ない)
その答えに、
エレノアは、何も言わなかった。
⸻
「……それは」
「あなたが、選んだ行動です」
「ここでは」
「正解も、不正解もありません」
「でも……」
一拍、置く。
「もし」
「その選択を、覚えていたいなら」
「……名が、必要になることもあります」
沈黙。
風が、丘を抜ける。
⸻
(……名は)
名を持たぬ存在は、
少しだけ、考えた。
(……誰かに、呼ばれるためではなく)
(……自分が、思い出すため)
その考えに、
初めて、胸の奥が熱くなる。
⸻
(……まだ)
(……今は、まだ、いらない)
エレノアは、
その答えを、静かに受け取った。
「……分かりました」
「でも」
「必要になったら、いつでも」
⸻
その夜。
丘は、いつもより静かだった。
名を持たぬ存在は、
初めて思う。
(……名が、なくても)
(……選べる)
それが、
何よりの変化だった。
⸻
遠い場所で。
しおりは、
仕事の帰り道、落ちていた枝を拾った。
邪魔だったから。
それだけ。
でも、
なぜか、少しだけ誇らしい。
「……名前、つけなくても」
「いいことって、あるんだな」
誰に向けた言葉でもない。
それでも、
胸の奥に、同じ温度があった。
⸻
名は、まだ生まれていない。
でも、
名を持つ理由は、確かに芽生えた。
そしてそれは、
呼ばれるためではない。
選んだ自分を、忘れないため。
物語は、
次に“名が生まれる瞬間”へ向かう。




