第80話 名を持たないままで
丘は、相変わらず何もなかった。
刻印もない。
結界もない。
力を示すものは、何一つ。
それでも――
空気だけが、澄んでいる。
エレノアは、足を止めて周囲を見渡した。
「……昨日と、違いますね」
ミラが頷く。
「うん」
「何も増えてないのに……」
「“落ち着いた”感じがする」
境界の向こうで、
ネファル=ディアが、静かに言う。
(……来ている)
「……呼んで、いませんよね」
(ああ)
(来ているだけだ)
⸻
最初に現れたのは、
姿ではなかった。
音でも、光でもない。
気配。
そこに“在る”としか言えない、
曖昧な存在。
呼ばれていない。
縛られていない。
それでも、
逃げてもいない。
「……こんにちは」
エレノアは、
慎重に声をかけた。
命令でも、確認でもない。
ただの、挨拶。
⸻
返事は、すぐには来なかった。
それでも、
気配が、わずかに揺れる。
拒絶ではない。
警戒でもない。
戸惑い。
(……話しかけ、られた)
その思考が、
かすかに伝わってくる。
⸻
「……ここでは」
エレノアは、
ゆっくり言葉を置いた。
「応えなくて、いいです」
「名も、要りません」
「ただ……」
「在って、いいだけです」
沈黙。
風が、草を揺らす。
⸻
(……なら)
かすかな意志が、
初めて、はっきりと形になる。
(……なぜ、ここに来た)
問いだった。
エレノアは、驚かなかった。
「……休める場所が、必要だと思ったからです」
(……休む)
その言葉が、
何度も反芻される。
(……呼ばれない)
(……使われない)
(……切られない)
⸻
(……それでも)
気配が、
少しだけ、近づく。
(……名は、あってもいいか)
その問いは、
欲望ではなかった。
確認だった。
エレノアは、
一瞬、息を止める。
⸻
「……名は」
「縛りにも、なります」
正直に、そう言った。
「ここでは」
「名がなくても、いい」
「それでも……」
「欲しいなら」
視線を、気配に向ける。
「あなた自身のための名なら」
「否定は、しません」
⸻
長い沈黙。
境界が、
ほとんど感じられないほど、静まる。
(……呼ばれなくても)
(……自分で、選ぶ)
その思考が、
初めて“意志”になる。
(……それなら)
(……今は、いらない)
エレノアは、
胸の奥が、少しだけ緩むのを感じた。
⸻
「……分かりました」
「必要になったら」
「また、聞かせてください」
気配は、
それ以上、近づかない。
でも――
消えもしない。
⸻
境界の向こうで、
ネファル=ディアが、低く言う。
(……珍しい)
「……何がですか」
(名を、拒んだ)
「……はい」
(だが)
(逃げてはいない)
⸻
丘を離れるとき、
ミラが小さく呟いた。
「……ねえ」
「これって……成功?」
エレノアは、少し考えてから答えた。
「……多分」
「“成功しなかった”ことが、成功です」
「……?」
「選ばせなかった」
「急がせなかった」
「……それだけです」
ミラは、しばらく黙ってから笑った。
「……相変わらずだね」
⸻
その夜。
丘の中央で、
名を持たぬ存在は、静かに留まっていた。
呼ばれない。
求められない。
それでも、
拒まれていない。
(……名は)
まだ、要らない。
でも――
名を選べる未来があることを、
初めて知った。
⸻
遠くで。
しおりは、
珍しく、朝まで眠った。
夢も見ない。
ただ、
目覚めたとき、少しだけ思う。
「……今日なら」
「返事しなくても、いい気がする」
理由は、分からない。
でも、
胸の奥に、静かな余白があった。
⸻
呼ばない場所は、
役に立たない。
成果も、示さない。
それでも――
“選ばなくていい時間”を、生んだ。
世界は、
ほんの少しだけ、深呼吸を覚えた。




