第79話 壊す者、残す者
その気配は、
丘に近づく前から、はっきりしていた。
迷いがない。
躊躇もない。
ただ、
正しいことをしに来た足取り。
「……来ますね」
エレノアが言うと、
ミラが小さく頷いた。
「うん」
「多分……例の人」
境界の向こうで、
ネファル=ディアが低く告げる。
(ヴァルク=レイオスだ)
⸻
ヴァルクは、丘の手前で立ち止まった。
周囲を見渡し、
眉をひそめる。
「……ここか」
何もない。
陣も、結界も、刻印もない。
「……馬鹿げている」
それが、第一声だった。
⸻
「説明は、聞いている」
ヴァルクは、
エレノアをまっすぐに見る。
「呼ばない場所」
「使わない余白」
「……それが」
「今の異変を、悪化させている」
「そう、思っていますか?」
エレノアは、
声を荒げなかった。
「思う、ではない」
「分かる」
ヴァルクは、言い切る。
「世界は、回復より先に安定が要る」
「余白は、揺らぎだ」
⸻
エレノアは、
足元の草を見る。
揺れている。
でも、倒れていない。
「……揺らぎがないと」
「折れた時に、戻れません」
「理想論だ」
「はい」
否定しない。
「でも」
「現実でもあります」
⸻
ヴァルクは、
一歩、丘に踏み込もうとする。
その瞬間。
境界が、
わずかに軋んだ。
何かが、
拒否した。
力ではない。
威圧でもない。
ただ、
「来るな」という感覚。
⸻
ヴァルクが、足を止める。
「……これは」
(お前が、触れたな)
ネファル=ディアの声が、
低く響く。
「はい」
エレノアは、正直に答えた。
「でも」
「縛ってはいません」
「壊すのを、拒んでいるだけです」
⸻
「……危険だ」
ヴァルクは、
初めて感情をにじませた。
「世界が、選別を始める」
「呼ぶ者と、呼ばれぬ者を」
「はい」
エレノアは、
その視線を受け止める。
「だから」
「選ばせない場所を作りました」
「誰も」
「選ばれない場所です」
⸻
沈黙。
風が、丘を抜ける。
「……分からないな」
ヴァルクは、
ぽつりと言った。
「それで」
「何を、守るつもりだ」
エレノアは、
少し考えてから答えた。
「……未来です」
「今、応えられなくなったものが」
「また、応えたいと思える未来」
⸻
ヴァルクは、
しばらく丘を見つめていた。
やがて、
深く息を吐く。
「……壊さない」
その言葉に、
ミラが息を呑む。
「だが」
ヴァルクは、
エレノアを見た。
「責任は、取れ」
「はい」
即答だった。
「世界が傾けば」
「真っ先に、お前を問う」
「……はい」
それでも、
目は逸らさない。
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ヴァルクは、踵を返す。
「覚えておけ」
「余白は」
「希望にも、災厄にもなる」
そう言い残し、
去っていった。
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丘には、
何も残らない。
壊されなかった余白だけが、
そこに在った。
境界の向こうで、
ネファル=ディアが言う。
(……怖いな)
「……はい」
(だが)
(それでも、立った)
「……はい」
(それでいい)
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その夜。
名を持たぬ存在の一体が、
丘の中央で、立ち止まる。
呼ばれない。
求められない。
それでも、
拒まれていない。
(……ここなら)
小さな思考が、芽生える。
(……名を、考えてもいいか)
まだ、声にはならない。
でも――
次の変化は、確かに始まっていた。




